[20240721更新]"伝説の侍弥助"は本当に歴史的事実なのか?侍とは何か?Assasin's Creed Shadowsのトレーラーを見て調べてみたこと
Assassin's Creed Shadowsのトレーラーが公開されましたが、国外でも国内でも話題で持ちきりです。その中でも弥助という史実上の黒人が侍であったかどうかについて議論が白熱しています。
というわけで、「弥助は侍は史実なのか」について自分なりに調べてみました。おかしいところがあったら教えてください。私自身は歴史研究家でもなんでもないパンピーにすぎませんので…
それではいってみましょう。
侍の定義
まずはそもそも「侍」という言葉の定義から。ここから理解しないことには、何が侍なのか、彼が侍なのかどうかを検証することはできないでしょう。
武士とは?
と、その前に「武士」の意味についても理解が必要だと思うのでさきにこちらから。武士は武芸を職とする戦闘員を指すようです。お城でお殿様の前で正座しているイメージが付きまといますが武士は城に使えているかどうかは含みません。傭兵のようなイメージが近いようです。
階級が存在し、それは時代とともに異なり、装備も異なるようです。室町時代から戦国時代にかけては、刀は身分問わず誰もが手に持つことが許されており、農民、町民でもだれもが自衛のために刀を所持していたようです。(それから戦国時代をへて落ち武者狩りなどが行われ治安が悪化したので、のちの豊臣秀吉が自身の支配力を強める目的もかねて刀狩を行い、彼らは刀を持つことができなくなりました。)
江戸時代と違いオフィシャルな御触れのようなものなどはなかったみたいですが、戦国時代においては一般的に刀の大きさが身分としてみなされていたようで、大刀を持っていれば上級武士、脇差鞘巻なら下級武士とみなされていたようです。弥助が信長からもらったのは脇差鞘巻なので、彼が仮に武士だと仮定した場合下級武士であるということになります。
追記:鞘巻が脇差の場合、中間も持つことができる武器なので武士と決定づけられるわけではない模様。
侍と武士の違い。
さてその武士と侍は違います。武士のようにとりま刀でも持ってりゃ侍、なんてものでもないです。が、ちょっとややこしい話です。
まず侍の語源について。侍女という言葉があるように、侍の語源は「仕える」という意味であり、いわば侍女の男版のようなもので、お城に使えている人々をさす言葉だった。公務員のようなイメージでしょうかね。初出は平安時代で、天皇や皇族に仕える公務を行う人のようなものを指していたようです。武士は城に使えているかどうか自体は含みません。
時代とともに変わっていった侍の意味
侍という言葉の定義は時代とともに変わっていったようで、平安時代から鎌倉時代、室町時代と変わっていく中で武力が重要なものになっていくと、将軍に仕える武士のことを侍というようになり、主に御家人をさすものになりました。(単に仕えているだけでは侍とは呼ばなくなった)
安土桃山時代にかけて応仁の乱などをはじめとした下剋上などが各地で起こり始めると、今度は御家人として仕えていること自体が侍としてのステータスでなくなっていき、侍の定義があいまいになっていきました。
追記:戦で戦うものなら全て侍と呼ぶようになった、という事らしいです。
あるいはなりあがった上級武士(武功を上げて、地位や領地を手に入れた武士)を侍と呼ぶようになったようです。
これが弥助の時代における侍の定義になると思います。
江戸時代になってからは武士の階級がオフィシャルになり、旗本(徳川将軍家家臣 石高1万石未満の領地を与えられた武士)以上の武士階級を侍とするようになったようです。戦国時代の侍のそれと似ていますが、幕府の管轄下のもとに明示化されたような感じでしょうかね。
侍の定義に弥助は該当するか?
以上を踏まえて弥助が侍であるかを考えると、結論から言えばどの時代(平安時代だけはぎりぎりいけるかも:のちの後述)の侍の定義にも弥助は該当しないように思います。「わからない」が現状のようです。
それはそもそもにおいて、戦国時代における侍の定義はあいまいで、歴史家の間でも意見が分かれているから。つまり、帯刀していれば侍という人もいれば、上級武士なら侍とするものもあり、どれが侍の定義としてふさわしいのかは諸説ある模様。
つまり侍ならみなこう、というのもないってことですよね。
この線でいくと、侍だからといって戦場に出ていたとは限らない、領地持ち、部下持ちだったとは限らないということでしょうか。定義次第では足軽だって侍の可能性があるということになりますね。
弥助の件で言えば帯刀し、信長から扶持をもらい、信長の近くにいた(=直臣であろうという推測)なので侍だという考えもあるようで。しかし一方、戦力としての侍ではないし、部下がいたなどの記載もないので侍とはいえない、という見方もあります。個人的には後者かなと思うんですけどどうなのか。部下も領地も知行取でもなく実戦経験すらない(本能寺の変の防衛のみ)のに侍?と思うので。
ほかにもおそらくいろんな定義があるのではないかと思いますが、江戸時代のようにきちっとした制度もないですから決めるのが難しいということなんでしょうか。
海外の人は戦国の侍の身分が曖昧であるという事がどういう意味合いを持つのかを理解してないのかも
どうも海外の人の理解をみているとこの辺りの認識がないようで、弥助は侍の身分だ!という歴史学者の意見をから、だから刀を2本帯刀してたし、刀もちもしてたんだ!となぜか設定が盛られたりします。
追記:元ポストの平山氏の英訳なので、この翻訳自体の中で勝手に盛ったということではないようでした。
海外では侍というものが海外の貴族の身分とイコールになっているというはなしがあり、侍という特権階級、身分制度だと思い込んでいるではないか。ある人物が侍だとすれば自動的にいろんな権利や権威がつくと思い込んでいるような感じに見えます。
戦国時代の侍においてはそういうのではない。ただみなされているだけで身分的な意味合いは薄いというか、そういうシステムではない。武士の身分だからもののふとして凄腕になるわけでもない。(スーパーサイヤ人じゃないんだから…)
個人的に、戦国の侍自体がバラバラで定説がないんで、個人的には「戦国時代の"侍"は身分ではない」と思ってますがどうなんでしょうか。
身分的なものは領地があるとかそういう実質的なものが先にあって、それらの要素から「だから侍である」と後付け、みなしてるだけで「侍」という明確な身分があるわけじゃないのでは。みなし以上の意味合いはないと思っているのですが違いますかね?
追記:鞘巻=鞘巻之太刀?
"「鞘巻」は「鞘巻之太刀」を示す場合が多い"とのこと。実際ほかの資料にも同様の記載があり、太刀であることを示しているようです。
となると弥助がもらったのは太刀ということになるのかな。となれば士分の可能性が出てきますね。
一方で同じく相撲大会の優勝者たち、弥助よりもいいものをもらっている彼らは侍だったのか、どうだったのかというのもあり、中には苗字のない人もいる。確かに…
さらにこんな意見も
信長公記の記述ではやはりちゃんと太刀と短刀を分けて書いているのではという指摘。
うーん、一体どっちなんだろう、どうなんだろ。さらに弥助が鞘巻をもらったという記載があるのは太田牛一自筆本、写本の方なのでどうなのか。著者は同じなので態々書き分け方を変えることはないんじゃないかとは思うけれども。
追記:著者違う可能性ありますね。太田弥左衛門一寛(牛一の4代あと)が写本として残したもので、追記された可能性があります。じゃぁなおさら太刀とは言えないのでは…
これって結局短刀か太刀かを100%断定できないってことだよね…じゃぁ彼をこの記述で侍と断定するのはおかしいんじゃないか…?そういう風に推測することはできるよね、というのならそうだと思うんですが…
そもそも2次資料扱いの太田牛一自筆本、写本にある記載だしなぁ
平山氏は研究員ではない、なるほど。自分でも検索してみましたけど確かにでてきませんでした。
ただ自分ではこの研究員であるというのが歴史学者であることについてどこまで信頼性や役割などを担保するのか、そもそもどういう立ち位置の人になることを保障するかはよくわからなかったので一応参考程度にとどめておこうと思いました。
確かに。専門家の意見ということでそれに重みはありますが、ロックリー氏の書籍が全て真になるわけではまったくないのですしね。
追加検証、考察:
小姓だった?=武士?
弥助が武士だった、というのは「小姓」という武士の職業についていたいう点においてはそうみたいです。ただ小姓っていうのは主に将軍の身の回りの世話や雑務を行うのがメインの一種の見習いで、例えば刀もちなどが役割。実際刀もちをやっていたことがあるのはちゃんと歴史に残ってますね。ちなみにこの小姓には美少年が選ばれることが多く、男色の対象になることもあった模様(衆道)。ただ彼がその対象になったかというと…正直あまり考えられない。衆道っていうのは今の時代における少年愛、ショ〇みたいなもんだと思うので。
追記:と思ったら彼が小姓だったかどうかという記録はないようです
あくまで信長の刀もち(追記:ではなく道具持ちが正しい模様)をしていたことがあったという記録から「小姓がそれに近いかな」という推測でしかないみたい。なので実際に武士の身分だったかどうかも定かではない、ということのようです。
まぁそもそも小姓というのは本来若年の(美)少年があてがわれる(森蘭丸など)ので、その点該当しないみたいなんですけどね。(弥助は信長の趣味じゃないでしょ多分と推測してみる
一種の一日署長みたいなもんだったのかな。謎ですね。
戦えた?
次に戦えたかどうかですが、これは謎です。理由は以下に続く。
甲州征伐に信長が弥助を連れて行ったという記録が残っているのですが、これは既に息子の信忠が武田勝頼を打ち取って戦闘が終わった後の話なので、やはり戦った記録としてでは残っていない模様です。またこれが記載されている資料は家忠日記の「上様御ふち候大うす進上申候くろ男御つれ候身ハすミノコトクタケハ六尺二分名ハ弥助ト云」であり、意味は「信長様が扶持を与えているキリシタンが献上した黒人の男をつれていた。背が高く名は弥助というらしい」であり、オフィシャルな記録というよりは又聞き的なものであるととられているようです。これもそこまで高い信ぴょう性はない模様?。一次資料ではあるようですが。
扶持の意味
またこの扶持の意味ですが、力を貸すという意味や武士が自分の家臣に扶持米を与えて召し抱えていること、あるいは単に扶持米、あるいはもっと端に食い扶持(くいぶち)など様々な意味があるようですね。
前者1つなら武士?という風にとれ…いや文脈的に変ですね。これは流石に後者3つかな。後者3つなら信長の家臣として給料をもらっている、または単に信長に食わせてもらってる、と取れます。
「扶持をもらっているから武士である」といっている人をどこかでみたのですが、奉公人に対して武士が与える給料が扶持であるので、中間などの使用人ももらってるのでそうとは限らないと思うんですが…
唯一闘いの記録が残っているのは本能寺の変
ですが、その記録はその場にはいなかったイエスズ会の本の中で書かれているもので、本能寺の変当事者たちのものではないので客観性や信ぴょう性にかけるという話もききますがどうなんでしょうか。
とはいえ内容には"相当長い間戦ってる"と記載があり、事実であればここで戦っていたという唯一の実績にはなります。しかし仮に事実だったとしても、刀を差出せと言われてそれを差し出し、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」「インドのパードレの聖堂に置け」と光秀に逃がされ南蛮寺に預けられてしまっていますが。さらにここでは中間も戦って戦死しているので、戦っているから武士、とも限らないです。
追記:本能寺の変の弥助について非常に参考になる考察を書かれている方の記事を見つけましたのでこちらに共有します。
個人的憶測:敬意をもって武士として扱われていたような感じはないし(記録からは読み取れない)、もし武士として扱われていたならその場で殺されているか、捕まった後に斬首されているかだと思いますね。降参してイエスズ会に送り返されてしまっているあたり、侍としての能力や地位、責任があったようにもとても見えません。森蘭丸などほかの信長の家来たちは戦って全員死んでいるにもかかわらず彼だけが生き残っているわけですし。信長に対する忠誠心もあまり感じないですね。それに弥助自身にもののふとしての覚悟も感じないし、まぁ一緒にいたの、というか日本自体にいたのが1年とちょっとだしね…。武士になるにも日本語から礼儀作法に馬術や剣術やらいろんな鍛錬や勉強もあるでしょうし、どう考えても時間的に無理では?
というのは、ちょっとまだかじった程度なんで詳しいことはわからないんですが、前述した小姓っていうのは奏者と呼ばれる役割、使者や来客の対応など教養も必要であったらしく、上記に加えてそのような役割もできるようになるのにたった1年程度で、それも外国人である彼が達成できるのか、というのが疑問なんですよね。仮にできるとするなら、どんな英才教育もびっくりの詰め込み教育をやっていたのか…そんなことしてたら誰かが記録に残してませんかね…と。というかその動機が分かりません。彼をそこまでして武士にしようとする理由が謎。仮に何か理由があって彼を武士にしたのだとしても、であれば彼が何かしら残した書物とかもありそうなもんですけどね。でもないわけだし…。というか、1年ちょっとで本能寺で変で終わっちゃうんだから、侍として活躍したというならざっくり考えてもその半分くらいの期間で履修完了してないと無理では?
現実的に想像すると、突然知らない国に連れてこられて突然その国の貴族に気に入られて飯食わしてもらって時には道具持ちやらされたり見世物になったり…て次から次へと自分の意思に関係なく状況だけがぐるぐる変わっていく中で普通に考えて頭の整理すらつかない気がします。1年たってやっとちょっと落ち着いてきたなぁ、という感じになるくらいではないでしょうか。と一息ついたと思ったら本能寺の変でしょ
勝手に白人に奴隷として連れてこられて日本の貴族に買われて戦争に巻き込まれて…普通にかわいそうな人って感じです。
追記(2024/07/20):信長に対する忠誠心、加えて勇気はあったかもしれない
上記のSTSTさんの記事をあたらめて読ませていただいたところ、その中にあったルイスフロイスの弥助に関する記録の中で以下のような文体がありました。
「信長の死後世子の邸に赴き」という記載から、領主が死に追いやられている中で、彼の意思で自ら戦場に向かったというような風に読み取れます。
上記史実資料の内容が真※で、かつ仮にこの解釈が正しいなら、弥助には信長に対する忠誠心があったかもしれない。あるいは信忠などの息子やほかの家臣たちか。全員か。
※ルイスフロイスの資料の内容は又聞き的なもので信頼性に欠ける、という事をどこかで聞いたので一応…
少なくとも危険を顧みずに自ら死地に赴く勇気があったという風に読み取れます。ということは弥助、そんなにかわいそうな人でも哀れでも臆病な人でもなかったのかも。
少なくとも本能寺の変において何かしらの"弥助のドラマ"があった、という可能性はあるのかもしれませんね。
弥助を史実の範囲で創作物として書くなら、こういうところを書いてほしいものですが…
最後まで戦ったのなら侍というのなら、ならば死んでいったほかの家臣たち(中間なども含む)も侍になる気がしますが…そういうことなのでしょうか?
一旦侍かどうかは置いといて、彼の勇気と忠誠心があったかもしれないことはたたえたいかなと個人的には思いました。
いや、たたえるならほかの死んでいった者たちも全員ですね。しかし彼は外国からきて信長の元に1年程度しか仕えてないにもかかわらず自ら戦地に赴いた、ということなので、そこは特別感があります。
過大に脚色しなくても彼の存在は稀有だったといいという部分は大いに同意です。当時は相当珍しがられていたことが史実の文献からもわかりますし。
追記(2024/07/20 16:00):「彼の意思か」どうかは書いてない
読み返すと"又ビジタドールが信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き"であるので、彼の意思で向かったかどうかは書いてないですね…
無意識に盛っている自分がいることに気づかなかった。これはマジで気を付けないと…歴史に個人の情はいらない。そういうのは創作だ。
何かの流れ(例えば誰かの指示など、あるいは何かから逃げてきたなど)で向かっただけという可能性も残ります。結局これも「どういう経緯で戦ったのかはわからない」「彼の意思がどうだったかはわからない」ということになるのではないか、彼が忠誠心を持って戦ったというのは創作の域を出ないという事になるんじゃないでしょうか。
苗字がない
後は彼には苗字がないこと。これは大きい事実。巷ではよく言われている根拠の一つですね。基本的に苗字を持っている(名乗ることを許可されている)のは位が高い人なので、侍ともなればもっているはずだと。ただ当時の侍全員が本当に苗字をもっていたのか、ないしは苗字を名乗ることができたのか…までは私では調べきれませんでした。まぁでも上級武士なわけですから名乗れないという事はないと思うのですがね…
かの有名な農民から成りあがった(とはいえ、もともと豪農の出だったという説が現在は有力だそう)豊臣秀吉なんかは日吉丸、藤吉郎と名前を変えて、信長に仕えてから7年、木下藤吉郎になり、羽柴秀吉、平秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉という感じで昇進する中で苗字を獲得(名乗る)していったので、このケースで考えて弥助が侍なら自分の名前を変えたり苗字を名乗るようになった記録が残っていても不思議ではないですよね。
さらに個人的にこれが根拠の一つになるかもしれないなと思うのは、戦国時代当時地侍という侍の身分の一種があったこと。これは村落の長や百姓を務める人がその土地の大名や国人と主従関係を結ぶことで任命される侍身分で、彼らには苗字を名乗ることが許されていたようです。
つまり地侍の身分になるものは皆苗字をもっていた、といえるのかなと思います。侍ではあるものの基本的には村落で生活し、その土地の指導者としてあり続けていたらしいです。村長みたいなもんですかね。軍役などがあると招集され、村人たち(惣という非支配者身分の構成員、足軽)を率いて戦に参戦したりしていたようです。
さて、ならそのはるか上の位、それも戦場で大きな武功を上げたという侍が苗字をもたない、名乗ることを許されないはずがないんじゃないかと思うのですがどうでしょうか。
追記:ヤン・ヨーステン(耶揚子)
江戸時代、ヤン・ヨーステン(耶揚子)が苗字なしで旗本(士分)になっていますね。同じ外国人。フルネームはヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインといい、ヤン・ヨーステンがファーストネーム。耶揚子は"やようす"とよみ、彼の名前がそのまま日本語の名前としてなまった形になっているようです。つまり耶揚子は名前で苗字がないので、数少ない苗字のない士分ということのようですね。
しかし戦国と江戸時代ということで文字通り時代が違うのと、その時代の侍の定義も違うのでそのあたりはどうなんでしょうか。
さらに彼の役割は外交顧問であった模様です。外国から来たからその知見を買われての登用という感じなんでしょうかね。例えば外国人の侍として有名な三浦按針に関しては家康が彼の様々な国際的な知見、および簡単な数学などの知識、そして帆船を建造などの功績で彼を気に入り、引き留める意図も含めて旗本として迎え入れています。耶揚子に関しても同じで海外情勢などの知見が気に入られ旗本になり通訳、朱印船貿易家として活躍していたようです。当時の貿易なども盛んにおこなわれ、その一方で鎖国などもありましたし、理にかなった采配なんじゃないでしょうか。共通しているのはどちらも持っていたそれぞれのスキル、能力を買われて旗本に登用されているという点ですね。弥助に関してはそのような役割を担った記録はないようですが。
ちなみに三浦按針がその名乗りを与えられたのは彼が日本に漂着した1600年から5年後の1605年のようです。
追記(2024/07/20):苗字のない侍もいた?ただし功績を積み重ねる必要はあるとのこと
ヤン・ヨーステン以外にもいた模様。詳しくは該当のポストのツリーを全部読んでいただければと思いますが、苗字なしでも侍身分だとみなせるものは存在していた、しかしそれは段階があり、侍身分の末端に置かれて功績を積み重ねていくことで地位が上がって侍になれる、ということのようです。
この流れ自体は秀吉の経歴なんかを見てるとわかりやすいかも。
ただ上記のポストは苗字がないから侍ではないとは限らない、という話ですよね。功績が必要という事ですし。弥助が侍である証拠にはむしろならない気が。
でも平山氏は史料はかなり乏しいと前置きした上で、弥助が侍身分であったことは間違いないといっているのですよね。
なんだか矛盾しているようですがどっちなんでしょうか。
史実の資料の記載にあるのは屋敷ではなく私宅ですがどうなんでしょう。それとも屋敷であることを裏付ける何等かの別の根拠がある…?太刀という点は短刀の可能性もあるみたいだし推測、可能性の域で確定的なではないようですし、それに付随して主従の契約、扶持の約諾もこれは詳細は不明では?扶持を与えているといったのは家忠の日記のみで又聞きレベルとも言われるソースですし、追記:加えて太田牛一自筆本や写本にあったとされる「然に彼黒坊被成御扶持、名をハ号弥助と、さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、依時御道具なともたさせられ候、」と書いてありました。失礼しました。
ただ扶持って武士から奉公人に対する給与だからほかの芸人や中間もその対象に含まれますし。それを侍であることの根拠として断定するのもなんか違和感を感じますがどうなんでしょうか。
二刀指は刀二本差しのことだと思いますが、これも推測ですよね…?記録にあるのは鞘巻のみなので…
彼(信長)の意思によって「侍」分になった、というのも推測では。というか当人が「だろう」といってますね。明智光秀の動物云々のあたりも、こちらも「だろう」で、差別"意識"があったかどうかなんてわからない。
"身分が低い者を、主人が「侍」に取り立てることは、当時としては当たり前であった。"も、なら足軽もみな侍になれるのかという疑問が。秀吉に関しては侍身分になるまでに下済みの経験と年月があるし、すぐに侍(上級武士)になれたわけじゃない。さらに豪農の出の説もあるので身分が低いかどうかも諸説あり。
なんか推測だらけでは…
そもそも平山氏の侍の定義がよくわからないな…侍の定義は一つではなく、いろいろある、ということなんでしょうか。
正直、数々の推測で曖昧な侍の定義をもとに侍身分で間違いないと根拠のように述べているのがロックリー氏と大差ないようにしか見えないけど…個人的にちょっとこの方信用できなくなってきました…まぁ私が只の素人だからわからないだけかもしれませんが。もしこれが根拠になるのだというのならこの全ての史実的根拠の資料か、査読済の理論であるとか、ほかに何らかの証明になるものが必要な気も…例えばこの説は既に研究機関によって査読済、精査済であるとか、ほかの資料などによって検討を重ねられ了承を得ている説であるとか。そうでないならやはり推測の域をでないということになるのでは…と素人発想で思いますが、どうなんでしょう。
他にも地侍の血判のは農民だろ、侍じゃないという突っ込みもあり、もう何が何やら。
論理も一部破綻してしまっているようですし…太刀と短刀じゃ意味はちがうのでは?中間でも脇差をもつことはできたみたいですからね。
同意
日本に来たのは1579年?
1581年かと思っていたらネットで検索すると彼が来たのは1579年というのがたくさん見つかります。しかしこれ元ソース(歴史的文献の情報)が全然見つかりません。大抵はどこにも出典元がなかったり、日本語のページで報じているものもありましたがそのソースのリンクが後述のBBCになっていたり、あとは基本的に海外ニュースサイト(BBCやCNNなど)やその日本語訳版などばかりがこの情報を報じています。
で、現状自分が調べた限りではこれトーマスロックリー氏の「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」に書いてあることがソースっぽいです。1579年にヴァリアーノ神父の従者として同行し、九州での布教活動に同行したと。
うん、ソースじゃないね。只の小説だもん。
しかしまたこの人の妄想本か…ひょっとしてこの人の本がこのバカみたいな騒ぎの元凶…だったりするの?だって英語で調べるとこんな出典元、ソース不明、英語ソース(BBC,CNNなど)のもんばっか。日本の情報は元ソースの史実資料がちゃんと見つかるのに。(といってもぞれ自体がめちゃくちゃ少ないんだけど
なんか海外からしかけてきてるんか…?
もし何か「本当のソース」をご存じの方いらっしゃったらよろしければ教えてください。
追記:彼が共に行動していたアレッサンドロ・ヴァリニャーノが1579年に日本へ入国しているので、そこからの推測から彼が1579年に日本にきた、というのは解釈としては自然であるというのもあるようです。
織田信長家臣人名辞典に弥助の名前はない
歴史家・戦国史研究家の谷口 克広氏(故人)の著作で、信長に仕えたすべての家臣一四五八人を網羅した画期的人名辞典。
こちらに彼の名前はないみたいです。もし侍、武士、あるいは他の職でも家臣であったとすればここに名前が載っていそうなものですがどうなんでしょうね。
参照ソース:弥助について残っている歴史資料
海外を中心に色々と尾ひれの付く弥助像ですが、現状こちらでまとめてくださってるこれがちゃんとした歴史資料ですね。
上記の資料がそれ以外は基本的に全部でたらめ、個人の推測、妄想だと思ってしまっていいと思います。困ったらこれを参照しよう。
これに加えて太田牛一自筆本や写本にあったとされる「然に彼黒坊被成御扶持、名をハ号弥助と、さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、依時御道具なともたさせられ候、」で全部?なのかな。「織田信長という歴史―『信長記』の彼方へ」という本の311-312頁中にその旨について記載があるようです。なお実際に実物を見れるのはごく限られた人だけのようですね。
追記(2024/07/20 23:00):私宅と鞘巻は創作の可能性もある?
そういえばこれは信長記に書いてあるんですよね?
本のタイトルにもありますし。信長記は信長公記とは別のもので、名前が似ているので甫庵信長記と区別して呼ばれることもあるようです。
著者も信長の家臣の太田牛一ではなく、江戸時代初期、儒学者で医師の小瀬甫庵が作者であり、仮名草子という文芸作品であるらしく創作性が高いといわれており、資料としてはあまり信頼性がないとも言われています。
信長記からの記載だったのであれば確かに信ぴょう性は下がるのかもしれません。
違う違う尊経閣文庫にある太田牛一の写しといわれる書物からだ。勘違いした。
とはいえこれについても2次資料扱いらしく、かつ創作性が高いことが指摘されているようであることは留意すべきか。
となると鞘巻も同じく信ぴょう性が高くないのか…?
というかそもそもなんで弥助って私宅と鞘巻をもらったんでしょうか?
他の人たちは武功だったり相撲の大会で優秀したりとかでなんらかの「成果」の見返りでもらってますよね。なぜ彼だけが何も成果がないのか?というか、そもそもいつもらったのか。神父から譲ってもらってすぐなのかな。単に残ってないだけ?ほかの人間はちゃんと残ってるのになぁ。
ボディーガードなどの他の信長の近くにいたものと彼の待遇と比較してみると、本当にただ時々道具をもつことがあったという役割だったのでは?という気も…無理に何かの既存の役職に当てはめて考えること自体が必要のないことなのかもしれない…彼の「ありのままの姿」というならまさにこれでは。そもそも戦国時代自体が各時代の中でもカチッとした職業の形がある時代ではなようですし。
なんか戦国時代ってイケイケのスタートアップ企業みを感じるんですよね。使えるものは何でも使う。役に立つ奴はとにかく採用。特に信長は。信長って実力主義的な価値観の持ち主でもあるようなんで、なおさら珍しいからっていきなり武士にしたりはしないだろうと私は推測してしまうのですがね…
著者の金子拓氏が別メディアで参戦準備とのこと。これは楽しみ…!このことについても見解を出してくれたらめちゃくちゃうれしいですね!
追記(2024/07/23):金子拓氏「屋敷、刀を与えられた記述は創作の可能性は否定できない」
ですって。太田 牛一本人が書いたものじゃないんだ。ずっと勘違いしてた…。
後年に太田弥左衛門一寛という4代後の人によって付け加えられたものである可能性があり、本当かどうか怪しいっていう状態のようです。
まぁ確かに、太田 牛一が書いた信長公記にはないわけですしね。当時相当な珍しい黒人の弥助が手柄立てて侍なんかになったら、信長公記に書いてるんじゃないかな?書き忘れるか?なんて思ったり。まぁ推測の域を出ない話ですが…
ところでやっぱり「屋敷」なんですかね?「私宅」ではなくて。原文は私宅ですよね。ライターの書き間違え?金子氏の言い間違え?
追記:こちらで弥助に関するソースをまとめてくださってる方の記事をみつけましたのでリンクを張っておきます。
追記:刀持ちをしていた?
刀持ちをしていた、という記載自体は史実資料のどこにもないようです。「織田信長という歴史―『信長記』の彼方へ」という本の311-312頁中の「時に道具持ちをしていた」とありますから、これを真とするなら、おそらくこれを拡大解釈して表現したものではないでしょうか。(少し前まで私も無意識に刀持ちだと思い込んでたんですけどなんでなんだろ…そもそも誰が刀持ちって言い出したんだろ?その根拠はなんだろうか?)
言葉通り受け取るならあくまで時々していたということなので道具持ちの役割として課されて常にやっていた、ということかどうかは推測の域をでないのではないかと思います。またこれも推測ですが、時々であるということから信長の気まぐれで道具持ちをすることがあったということではないか、という推測もできます。何れにせよ推測の域を出ないので、「時々道具持ちをしていた」以外にこれを補足するのは難しいのでは、とは個人的に思います。
追記(2024/07/20):弥助が刀持ちをしていたかどうかについていろいろ調べたメモ
追記:弥助の身分は中間衆?
これは…かなり説得力がありますね。二次資料(信長公記は二次資料なのですが史実と一致することが多く、かなり信頼性は高いらしい)からの分析。この線が真なら苗字持ちは皆小姓であることから、彼が小姓であるという説も消えますね。
中間衆は使用人で、武士に仕えた雑務などを担当したようです。また荷物の運搬なども担当したようなので、道具持ちの記載と一致しますね。槍持ち、挟箱を持つ役割などもやっていたようです。
足軽よりも下の身分で士分(武士などの身分)ではないようですね。中間も脇差鞘巻を一つさしていたようですし、弥助も信長から脇差鞘巻や扶持をもらっていた記録があるので辻褄も合う。また戦時には中間も戦うとらしく、これは唯一戦った記録の本能寺の変でのこととも辻褄が合いそうですね。
この説が真だとすると、弥助は武士ですらないということになりますね。
ただ一つだけ個人的に気になるのは彼が逃がされてることですね。中間も死亡者リストに入っているという事は彼が中間なら殺されてるのでは?という気も…
※追記(2024/07/20):中間は帯刀は許されていないようです。
そうなの!?
おかしいな中間も一本短刀なら帯刀できるってどこかでみたんだけど…と改めて調べてみると、どうやら中間は真剣ではなく木刀をさしていたらしいです。
なるほど…読み間違えたか。弥助がもらった鞘巻は真剣なので、となると士分だったのかな。
ただ殺されなかった理由は相変わらずわからないのですが…うーむ。
追記(2024/07/21):脇差は武器にカウントされない?
どっかで見たと思ったらこれだ。脇差は非武士身分でも所持できるというもの。中間で士分になった人がいて、侍の首を二つ打ち取ったというから木刀なんかでそんなことできるんか…?と疑問に思ったのですが脇差で参戦したなら可能性は0じゃないか。
この話も弥助がもらった鞘巻が太刀か短刀のどちらだったのかで変わってくるのかな…?
というか農民すら帯刀してた時代なんだし、中間でも普通に刀は持っていたと思うんですけどね。
追記:弥助の身分は御伽衆?
御伽衆とは戦国、江戸時代にあった職の一つで、主君のそばに仕え、話の旨い人、芸ができるなど、雑談相手として召し抱えられたということらしいです。
片言だったり身振り手振りであったかもしれないけど、貴重な外国の話(ポルトガル?)の話もできたかもしれない、ちょっとした芸を見せたという記載があるのでこれもしっくりくる気が。
ただ御伽衆ってちょっと面白かったり話ができるくらいじゃダメで、相当の知識や経験、話術などが必要な職だったみたいなんで、故に待遇もよかったみたいですね。彼がそれに見合うものを持っていたのかはわからないですが。
貴重な外国人枠という点でポイントが高かったとかなのかな。まぁ想像ですが。
結論
と、まぁこんな感じで、まとめると弥助が侍かどうかは「わからない」という感じですね。いろいろ意見がわれているし、鞘巻と私宅をもらってる部分の解釈で武士の可能性があるかもしれないですが、ほぼほぼ脇差っぽいですし、私宅の規模も謎ですし、そもそもこれについては創作の可能性すらありと武士かどうかすらも怪しいし、同じ史料にて言及されている道具を時々持ったというものすらも…ということなので、個人的には「侍じゃない可能性が高い寄りのわからない」、という感じがしますね。
知行取の記録もなく、部下がいたという記録もなく、戦功はおろか戦績の記録もなにもないのに(本能寺の変は奇襲で巻き込まれる形で多くの中間の人たちも戦っているわけだし(そして戦死している)、その中で(降伏した)彼だけを特別扱いして武士は変ではないか。)武士呼ばわりは変でしょうと思うのですがね。刀をもらったから武士だっていうのも、彼よりもいいものをもらっている相撲取り(しかも太刀ももらってる)も武士とは扱わているわけではないですし、ましてや侍でもないわけで。
少し前までの「侍かどうかわからない」という印象よりも、今回の騒動によってさまざまな人が資料を調べて分かったことをシェアしてくれたおかげもあって、より侍じゃない印象が強くなった気がするのは私だけでしょうか。
今のところ確かなことって
信長に気に入られ、神父から信長に譲渡された。信長に扶持をもらって彼の近くで1年と少し生活した。
くらいじゃないでしょうか?
これでもかなり破格の待遇な気がしますけどね。当時の一般人、つまり農民や町民じゃ決して得られない待遇でしょうし。もちろん今後、彼が登場する新しい資料が発見されたりすれば再検証の余地は出てくるでしょうけど、今ある資料ではこれくらいのことしか「確かだ」といえないのでは?と思うのですがどうなんでしょうか。
追記(2024/07/24):いや、「ずっと一緒にいたか」もわからないか…家忠日記の記述も本能寺の変もたまたまその時に近くにいただけの可能性もあるわけだし…となると
「信長に気に入られ、神父から信長に譲渡された。信長に扶持をもらって1年ちょっと暮らした」
が確実な内容か?家忠日記のが又聞きなのが気になるけどじゃぁどうやって生活してたんだってことが全くわからんくなるからここら辺になるのかな。
はて、こんなにも本当によくわからん存在が、なぜ侍まで盛られるんですかね…
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この数か月、色々なことが起きていろんな情報がでてきましたが、個人的には、今回の問題の根幹は弥助が実際に侍という身分だったかどうかというよりは、弥助の史実の実績がどうなのか(武術にたけ戦地で戦功をあげ、領地、苗字をもつ武士)という点が重要で、それに対してシャドウズ、ロックリー氏の本のそれとはまったく即していない(そんな記録はない)、というのが問題の本質であると思っています。あのゴリゴリにデコったスマホみたいな"伝説の侍である"に値するような史実的根拠的は国外でごく最近になって伝説化されていることを除けば認知度的にも非常に乏しいかなとは思います。
そのほか追記(2024/07/15):ロックリー氏に関してはアサクリシャドウズとは直接関係があるかは不明
まだ彼がアサクリシャドウズの歴史検証、ナラティブなどにかかわっているかどうかは不明です。しかし弥助伝説の侍説の流布の大元の大きな原因の一つではあるので、間接的な影響はあると思いますが。ちなみに彼のFacebookで自分はアサシンクリードゲームとは何も関係ないと残しアカウントを凍結した(削除した?)ようですね。
なので、彼の著作や発言で書かれたり言われたりしていることがどれだけ史実に近いか遠いかという点はそれぞれ分けて議論した方がいいかな、という気も個人的には最近してきました。
追記(2024/07/16):アサクリシャドウズのポッドキャストにロックリー氏が出演してた…
対談は2:10あたりから。やっぱり関わってませんか?ただ招かれただけ?いやいや全くゲームに関係ない人を招く理由なんてないはず…ですよね?
少なくとも「全く関係ない」は嘘ってことにはなりますよねこれ…対談はしたわけだから。
仮に本当に招かれただけの場合でも、UBIが彼を招いたのは事実でしょうから、UBIが彼の本や言動に影響を強く受けてシャドウズを製作していそうな印象は受けますがどうなんでしょうか。
これまじでなろうクリード:外国から連れてこられた俺弥助、たった1年で侍に?になってる可能性ありますね。もしそうなっていたら、UBIの歴史考証能力は本当にレベルが低いということにもなってしまう気が。日本人の歴史家に聞いていれば…なんてことになってしまうのだろうか?
まぁこればかりはモノが発売されない限りはわからんですね…
その他追記:そもそもどうしてこうなった?
我々日本人が知らない間に、なぜちょっとしたイースターエッグのような存在感でしかなかった弥助が海外で伝説の侍であるということになってしまったのか、その原因についての考察記事を見つけましたのでこちらで共有。
ロックリー氏の日本と英語で言っていることが違う、「二枚舌」であることが大きな要因として挙げられています。こんなんもう普通に詐欺では…
内容は基本的に英語話者向けなので、海外の人向けに拡散できるとさらにいいんじゃないかと思います。
その他追記:日本語wikipedia弥助のページがあらされてる?(20240708時点)
本題とは少し趣旨が違うのですが注意喚起的なものも含めて。
英語のページは既に彼が侍であると書かれているようですが、日本語のページも例外ではなくなってきている模様。
彼が護衛、従者ということになっています。さらにそのソースも「弥助は初の外国人侍」と書いているBBCのうさん臭いニュースや例のロックリートーマス氏からの引用。
史実の資料には「黒奴」という記載があるので、奴隷と記載した方が適切だと思うのですが。
追記:あ、でもこれイエスズ会側の方にしかないですね。日本側のは「黒坊主」だ。となると日本側は奴隷として扱ってはいなかったのかな?この「坊主」のニュアンスがちょっとわかんないですが「若者」みたいな意味なんでしょうか。おいそこの坊主!みたいな。まぁ初対面の時の話なのでそんな程度の感触なのかな。とはいえ、イエスズ会側の呼称が黒奴である以上はイエスズ会所属の人として彼を定義するなら奴隷がやっぱり正しいか。
追記(2024/07/19):岡美穂子氏のXアカウントにてこのようなポストが
ということで、彼が奴隷ではなく従者であると考えられるということです。cafreという単語を黒奴と翻訳したのが誤りであり、カフル人と訳すのが正しく、全てが奴隷であったという事を示してはいないと。
ただこれ「モザンビーク要塞司令官からプレゼントとして贈られた」というのがちょっと引っかかりますね…弥助の意思で雇用関係を結んだというわけではない?これどういう扱いなんだろうか。
wikiにあった「従者」については正しいといえる…のかな?プレゼントされたっていう点が彼がどこまで立場的にヴァリニャーノ神父と対等であったかがちょっと謎。もう少し追ってみる必要がありそう。奴隷でも財産をもつことができた、見受け金を払って自分を奴隷身分から解放もきでるというのはわかった。「護衛」かどうかについてはちょっとまだわからないですね。
追記(2024/07/25):
やっぱり奴隷の解釈だったりするの…?
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まぁともかく、Wikiの弥助の記事のノートの編集履歴にはちょっと危険な考え方のもとに編集しているものもいて、「アフリカの口承で弥助は侍だと伝えられている、それを否定するのは人種差別だ」「このページでは人種差別は容認されるべきではありません」などと、エビデンスではなく思想をちらつかせていい加減なことを言っている人がいたり、過去のでたらめな内容を復活させていたりしていた模様(そのユーザーは削除されているみたいですが)
現在は凍結されて編集ができない状態のようです。こんな悪質なことしてくるなんて…環境活動家と同じやわもう。もはやネットは戦場か。
↑こんなのもある。ひょっとして弥助に少しでも関係する記事がポイントで書き換えられてるんじゃ?
海外出身の武士一覧のページに弥助が入ってる(編集合戦があって2024/07/15まで保護されてる…こっちもか?)
追記:2024/07/17 時点で弥助が一覧から消えたようです。とはいえ、これからも荒らされないとは限らないけど…
もうWikipediaは見ないほうがいいかもしれないなぁ…。個人的にはですが。もはやどのページからも思想の匂いがプンプンするようなきすらするわ…。不正な情報が追記されたりしないために監視のために見る以外必要ないという、本末転倒みたいなことになってしまってしまいましたなぁ。一般的な閲覧のみの目的ならもうWikipediaは見る理由がないかも。
wikiに限らず、誰でも編集可能なページは信用しないほうがいいのかな。特に今の時代は誰でもインターネットを使える、それすなわち信じられないような〇〇も意見や考え書き込めるということでもあるので。実際、ある思想のもとに歴史を塗り替えるべきだというロジックを持つ人がいるわけですしね。
かつネットでは現実の身元が特定できないので書き手の人間の信用度もわからないとなればなおさら…
まぁ私もそんなどこの馬の骨の一人ではあるのですがね。まさに、現代のネットはスラム街よな…
ソースはできる限り確認した方がよさそうですね。私も気を付けよう。元ソースが不明であるという「要出典」の記述の重要性を今になって知る。
メディアの人が言っていたから正しいなんてことにもならないってことよな。自分たちにとって都合のいい情報を流しているだけだし。歴史作家でしかない人が歴史家として紹介されていたりすることもあるし。
10年くらい前ならここまで考える必要もなかったのかもしれないけど、今やネットは多くの人々にとって当たり前なツールになった以上はそれだけいろんな人が使っているってことでもあるから、それぞれの都合で発信しているだけなんよね。その現実を受け入れていく必要はあるなぁと個人的に思うところ。ちゃんとした知識を入手したいなら、お金を払って信用のあるものを買うか、自分で調査して正確なエビデンスを入手する努力がこれからは必要になるのかもしれないなぁ。
タダより高いものはない、ってこういうことなんだなと。
「わかりやすく」「手っ取り早く」で手に入れられるものは、もはや知識とは言えないのかもなぁ。
wikipediaって概要から詳細まで書いてあって便利だなぁってずっと思ってたんですけどね。ファクトチェックってめちゃくちゃ労力も知識も必要で大変なんだなとほんと感じます。最近は歴史について個人的に勉強し始めたということもありますがそう感じますね。。
追記:(2024/07/13)tottoritomというユーザーが、弥助のwikipediaに自ら色々書き込みまくっていた
えぇ…
マジでこの人(ロックリー)このバカみたいな騒ぎの元凶なんじゃないか…
私も少し調べてみましたが、tottoritomというユーザーが2015年当時にwikipediaの参考文献を2016年に彼(←可能性かなり高いですけどまだロックリー氏かは100%確定ではないでした)tottoritomが発表予定だった論文に変更、さらに2017年にその参考文献を彼の小説を変更するなどをしており、どうやらこのtottoritomはロックリー氏本人なのではないか、という話です。もしそうなのであれば弥助は侍!ソースは俺!といっているようなもの、本の宣伝まがいなことすらやっていたようなことになってしまうらしい。
https://en.m.wikipedia.org/w/index.php?title=Yasuke&diff=prev&oldid=763413844
↓tottoritomが編集する前(2015年9月7日)
↓tottoritomがある程度編集後(2015年9月12日)。出典の参照がロックリー氏の論文に変更
内容が改ざんされ、その出典元がロックリー氏の当時未発表(2016年)論文に変わってますね。個人的に"Yasuke was a Muslim from Mozambique.[1]. Although there is no evidence",は好き。(正しいとは言ってない)
↓2017年2月3日tottoritomが ロックリー氏の論文の出典を同著者小説「信長と弥助:本能寺を生き延びた黒人侍」に上書き
この時点でも弥助はイケメンだったとか信長の家臣で唯一の外国人戦士だったとか日本がかなり話せたとか津田信澄が最初の謁見時に彼にお金をあげたとか、ロックリー氏の小説を除いて一体どこから持ってきた情報なのかわからないことがたくさん書かれているようですね…
それから2019年、その時点で発売"予定"の状態だったロックリー氏の次の弥助の書籍を宣伝するような形でまたwikipediaに追記するなど、かなりwikipediaを使って色々やっていたようです。ざっくりと紹介しましたが、詳細部分は是非冒頭のSTSTさんの記事をご覧ください。
↓その他、詳しいことはこちらの方がまとめてくれてます。
tottoritom=ロックリー氏であることはかなり信ぴょう性高いみたいですね。自分自身の自己紹介から、「著者(私)」といっている点や、発表前の自身の論文を知っているあたり、ほぼほぼ確定では。
これは…だめでしょ?これが本人の行為確定なら完全な文化盗用…っていうか詐欺の領域では…?というかwikipedia的にこんな形の商業目的で使うってこれOKなのか?
次から次へといろんな情報がホイホイ出てきて食傷気味だったけど特大級のヤバイのがでてきてしまった感じですね…
いやほんと信じられん…最初の最初から約10年間世界中がこの人に騙されていたってことか?…まぁもちろん、彼の情報をうのみにしたほかのメディアや検索汚染などの影響もあるでしょうが、彼の小説や発言がそれらの元になっているし、史実の根拠としてよくあちらの人たちが提示してくるあたり、その要因として大きなものの一つではあるではあると想像しますがね。まるで物語の中の陰謀が現実になったみたいな…
もうこの出来事でアサクリ作り直した方がおもしろいでしょ。
「トーマスロックリー氏が広めた弥助に関する誤解の訂正を求める署名」
「トーマスロックリー氏が広めた弥助に関する誤解の訂正を求める署名」があります。署名したい人はこちらからどうぞ
以上です。
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ここから下は私の妄想、愚痴みたいなものなのでそれでもよければ。
個人的考察:どうもパッとしない弥助
これまでのわかったことを色々踏まえて個人的に思うのですが、なんていうか弥助、武士とか侍以前に完全に部外者扱いされてませんかね?
実績何もないし、信長家臣人名辞典にも載ってない。当時の日本では珍しい黒人が信長に気に入られて扶持もらってた、くらいの情報しかない。逆にそれだけ珍しい存在である人が武士にでもなれば何か残っていそうなものですが、それらしいものはやはりない。時々道具持ちをしていたらしいということを除くと、ほかにどんな生活をしてたという記録はなにもない。
全体としての印象はTESシリーズのランダムイベントに出てくる風変りなNPC(ムアイクとか)みたいな感じで、それ以上でも以下でもないというか。部外者ってほどでもないか。道具持ちはしてたこともあったというし…でもそれだけってのもなぁ。時々っていうなら、その他の大部分は何をしてたんだろう?それが残ってないのはなんでだ。
ここまで何もないともうただの客人というか。いや、奴隷の客人ってのもちょっと違和感なので本能寺の変で巻き込まれた外国の部外者って感じですか。
武家社会の中にいたら何かしら記録がありそうなきがするんですがどうなんでしょう。住む場所を与えられたってのも、あくまで特別枠、部外者の用のゲストハウス的なものとか。彼は当時相当珍しい黒人であるわけだし、なくはないんじゃないか、なんて。でも仮に武家にいきなり入れたら、ほかの家来から不満がでそうな気も。だっていきなりどこの馬の骨とも知らない、実績もない人が急に武士面して自分の世話しろみたいな感じできたら中間衆などの下の人たちは納得しない気がしますし、ほかの武士たちも「なんで何もしてない奴が武士に取り立てられるんだ?えこひいきか?」となりそうな気がすると思ってしまうのですがどうなんだろうか。当時の様子ってどんなんだろうな…全然知らないから想像もつかないや
本能寺の変で生き残ったのも単純にイエズス会の所属の部外者だから返された、とかだったりはしないか。勝手に殺したりしたら外交関係問題になりそうですし。本能寺の変で戦ったのは単に信長と仲が良かったと仮定して、緊急事態で冷静になるのも難しくとにかくできることをしようとして戦った、ということだったりして。信長も死んじゃったし光秀の家臣にもなだめられて我に返って降参した、とかね
まぁ全て私の個人的な推測に過ぎないですが…
補足:一次資料と二次資料の違い
ということらしく、この定義にそって考えると信長公記は家臣の太田牛一が記した伝記であるため二次資料ということみたい。一次資料に該当するのは例えば本人が書いた日記や公文書などとのこと。
ただ二次といっても信用できないとか一次に劣るという事でもなく、ある出来事が史実であることを一次資料と二次資料で照らし合わせることでその信ぴょう性を高めたりする目的などで重宝するものらしく、信長公記はその点で史実(一次資料?)に一致するものが多く、信頼性が高い資料ということのようです。イエスズ会の本は一次資料扱いみたいですが、当時ではなく後年に書かれているためあまり信ぴょう性がないとかかんとか…厳密には2次資料扱いなんでしょうかね?よくわかりませんね。
というか、仮に二次資料を信用できないとした場合、弥助の資料って0になっちゃうと思うんで歴史に存在すらしなかったことにすらなってしまいますね。だってイエスズ会の宣教師の著作と太田牛一の著作と家忠の著作物ですし。弥助が書いたものではないんだから、厳密に考えるならどれも1次資料じゃないんじゃ?
この解釈があっている場合、逆に弥助の一次資料って存在しないってことでもあるのかしら。ひょっとして一次資料がないから研究されてないとか…?確かに本人が書いたりのこしたものがない時点で本当にいたかどうかすら存在を証明できないといえばまぁ確かに…
これもうただのイースターエッグでは?
いやわかりませんけどね素人なのでただの想像…
あともう一つ個人的に思ったことなのですがこの死亡者リストについては二次資料ではなく一次資料なんじゃないか、と思うのですがどうなんでしょう。これを書いた時期がその時(本能寺の変後すぐ)で、本人が実際に数えていたのであればこの部分に関しては一次資料扱いになる?気がするのですが…資料が対象や内容によってフレキシブルに1次、2次となることってあるんでしょうかね?だれか詳しい方いましたら教えてください。
追記(2024/07/20):
本能寺の変で戦いに自ら向かったことが真なら、部外者という扱いではなかったのかも。そのようなことができるくらいの信頼関係はあったのかもしれません。
とはいえ、これも創作の域をでない解釈なので、史実とは言えないですね。
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私はもうUBIのゲームは買わない。そうきめた。ちょっと今回の件は別格というか…UBIの行動がポリコレのアレも含めて信用できない通り越して嫌悪感しか感じなくなってしまった。というか数々の著作権侵害をしてそのほとんどにだんまり決めこんでるのでこの会社にお金を落とすこと自体が嫌、というレベルになってしまった。
背後にいるSweet Baby Incはもちろん、その出資元の一社であるBlackRockのCEOが「DEIは強制してでも人々にやらせなければならない」言っていることなど、いびつな支配構造が見えてきて今は気持ち悪さしか感じない。そのSweet Baby IncのCEOのKim Belairが"terrify them"「脅してやればいい」とまさに脅迫まがいなことを公的な場でスピーチしてしまうところからも、親が親なら子も子というやつなんだろうと思う。
「"わたしたち"は正義で正しい。"それ以外"の他文化は正してやらなければならない悪、下等な存在」という意識がすけて見える。だから支配してやればいいと、無理矢にでも、脅してでも押し付けて洗脳してやればいいのだといってしまえるんじゃないだろうか。
こんなもんに従うわけにはいかない。
アサクリシリーズは初代から全部通してやってきたし発売日に狩って遊んできただけにこんなことになって正直めちゃくちゃくちゃショックだ…
続き:ポリコレそのものについて書いていたら長くなったので別記事で