週報#1 (2020/6/8〜14)

1週間の間にあったことや考えたことについて日記のようにまとめることにする。自分がどんな人で何を考えているのか公開するのが目的のひとつです。まとまりも雰囲気も気にしない。雑なフォームの壁打ちをガラスの向こうから見て下さい。ただ100発に1発でも密かな共感を覚えさせられたら嬉しい。
初めてなので長くなった。

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職場の人の「終業直前にヤバいことで有名なお客さんが来て大変だった」という話を聞いていて、見かけた瞬間の気持ちを勢いで「津波が来たぞ!みたいな感じですよね」と表現してしまったんだけど言い終わるか否かで明らかに不適切だと感じていた。隕石くらいにしときゃよかった。隕石が不適切になる日が来ないといいですね。

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それなりに混んでいる駅のエスカレーターを歩いている時に目の前の踵が派手にもつれたので、「おっ!恥ずかしいねえ〜」と思ってその人を見たらヘルプマークが付いていたので「すいません……」と思った。当人がどんな人かで思うことをコロコロ変えるのはかなり良くないので反省します。
どんな人にも「おっ!恥ずかしいねえ〜」とは思えないのでまず心配します。

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自分がかなり面白くない(と俺が思っているタイプ)の人間だということに気づき始めた。こんな話かなりつまらないけどここはこういう話をする場所です。
昔から色々な立場の目線に立てるようにしておきたくて(それと「あなたは私たちとは違う」とは言われたくなくて)色んな意見を受け入れるようにしてきたせいか、とにかく客観的にばかりものを見るようになり、自分の意見があまりないから目の前の会話に何も発言することがなくなってしまった。
ここ数日特にひどくて、何に対しても冷たく文句を言う自分とその意見に逆張りして擁護する自分が秒単位で入れ替わっていてかなり参っていた。

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冷たい目線を和らげましょう。自分で分かりやすいと思った例は「6年ぶり復活、かっぱえびせんチョコ味」の広告を見かけて「地獄の釜の蓋開けんな」と思ってしまったけど「食ったことないけど地獄の釜の蓋開けてない?」くらいまで柔らかくしたいってことです。これはかなり切実です。あと前者の感想を抱いたことを忘れて後者を思ったことにしたくない。
思春期の頃からインターネットにはびこる力を参考にしすぎて、何かの中身ではなく外側の形だけを拾って冷笑する態度が染みついてしまった。客観的な視点を持てるようにすることは大事だけど、常にそのスイッチがONになって粗探しし続けるのは狭い世界の中で自分のポジションを少し上にずらして見せるだけのポーズにしかなっていないし自分の得にはならない。

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当事者には申し訳ないしちょっと恥ずかしい話なんだけど綺麗な人・オシャレな人・美しい人とかがちょっとだけ苦手で、どこかで敵と思ってしまう節がある。あまり認めたくないけどたぶん「(大衆に支持された)美は力」というルッキズムが自分の中にあって、それに近づこうとする人のことが怖いんだと思う。
暑い日に駅に向かったとき、白い服をサラッと着こなした男女が沢山いて久しぶりにウッとなった。服屋のショーウィンドウに目をやると海と砂浜を舞台にしたセットの手作り風立て看板に「オシャン」と書いてあって、コロナで失った着飾り出歩き文化をあけすけかつ盛大に取り返す夏が始まるのか、と思ってクラクラしたけどよく見たら「オーシャン」だった。

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再開した映画館で奥さんとIMAXのAKIRAを観た。原作は読んでたけどほぼ覚えてなかったし展開も違うそう。
今観るとかなり分かりやすく「巨大過ぎる力=核と国の話」だった。そんでかなり面白い設定・ストーリー。1988年の映画のクオリティってもう少し低いイメージだったのに。
ナンバーズ(超能力が発現したヨボヨボの子供たち)の声がガチ子供だったの、持てる力の巨大さとのギャップや無垢さが前面に出ていてすごくよかった。
鉄雄の造形やSF的加速度のラストなんかはかなり好みだった。脇道に逸れますが本来絶対に交わらないはずの色々なものがごちゃ混ぜになっているものが好きです。ff9のラスダン、しりあがり寿の漫画など。
あとIMAXで聴く劇伴かなり面白い。劇場の隅(かなり「隅」だった)から音楽の一パーツがひょこっと顔を出して、大きく渦巻いて膨れ上がっていく感じ。芸能山城組ちょっと調べてみようかな。ケチャいいですね。インドネシア以外にインドの音楽にもちょびっと興味があります。

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フジロックが延期(来年に持ち越しとのことで実質の中止?)になった。駐車場と2日間分の全く安くないチケットを買っていて、かつ公式サイトに中止の場合は全額寄付と書いてあった(後で気付いた)のでハラハラしていたんだけどひとまずなんとかなりそう。
行かない人にとっては音楽フェスって軽薄な一般人や軽薄な文化人くずれが集まるかなり得体の知れないしゃらくさい催しと思われてると思うんだけど、そしてそういう側面は大いにあると思っているんだけど、俺が思う一番の魅力は場所全体がひとつの大きなうねりになることです。
ちゃんと記しておくためにちょっとだけ回り道をすると、そもそもの音楽の良さって「訳がわからないけどなんかいい」ことだと思う。作者が作り上げた曲という形自体も凝っているけど、そこにかなりの文脈が押し込められあるいは紐づいていて、1曲だけ取り上げたってその全部の楽しみ方を1人が解説することなんて不可能なんだけど、その情報の波と全く関係ないところで原始的に物凄く心を奪われる瞬間もある、まさしく人の数だけ楽しみ方が分かれるかなり訳の分からないものが音楽だと思っている。
こう書くとひどく内省的なものに聞こえるけど俺は確かにそう思っていて、音楽はまずそれを聴くひとりだけが楽しむものであるべきだと思う。人が知らない音楽を知っていることは偉くもなんともない。かき集めても偉くなれるわけではないと自分に言いたい。
ただしこれを広い空間に流すと空気や体が震えて、自分の中と外が結びつく感覚を覚えます。自分の感じる素晴らしさが確かにそこにあって世界に働きかけているようで楽しいんですよね。更に沢山の演者やスタッフや観客が音楽を求めて集まるので、場の空気(雰囲気の方)もなんか変わります。世界が更に変わって見える。この感覚はかなり病みつきです。マスクして消毒とか気をつけるから行きたい。

まあ実際は参加者の大半が心のどこかで「この曲知ってる俺・私イケてる」とか思ってますけど!これは確信している!俺もそうだよ!くたばれ!(耳を引き裂いて死ぬ)

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アイスを食べた直後に甘めのミルクティーを飲んで、ただ苦味だけが口の中に残る贅沢感を経験した。一瞬「これが大人だ!」と思ったけど、やってることは自分の快楽中枢をシロップに漬けてるようなものなので誇れるようなものではないかもしれない。いや諸々の責任を抱えつつそれをすることこそが真の人生の楽しみ方なのかもしれない。

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おしまい。つまらなかったらすいませんでした、動物園の檻を覗く感覚でいてください。

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