カップ・アンド・ソーサー
「イネスコがないの」
芝居がかった口調でアガサがつぶやくので、フロアの一同は皆、作業を止めねばならなかった。
「スパにでも行ってくれば」
クリステルはやや神経質に言い放ち、小気味良くスタッカートのきいたタイピング音を打ち鳴らし始めた。もう話すことはない、という毅然とした態度だ。
次に口を開いたのはドイルだった。アゴに手を当てて、いかにも思案している、といった面持ちで、ゆったりと話す。
「もっと心を無にすることをオススメするよ。"ない"というのはあくまでも君の認識なのだから」
それから静かに目を瞑った。こうなったら小一時間は軽く"戻って"こない。
「"ない"ものではなくて"ある"ものに目を向けたらいい」
アランがどこか遠くを見ながら言うと、ポーが同意するように『ニャア』と鳴いた。あるいは、単に鳴いただけかもしれない。背中を撫でられて気持ち良さそうだ。
「もしかすると、それを見つける眼をなくしてしまったのかも」
ラテスが人懐こい笑みを浮かべながら言う。
「そのものではなくて?」
アガサの透き通った瞳がラテスをしっかりと見据える。それはまるでプリズムのような眼差しだった。
「そう、そのものではなくて」
射抜かれたラテスはそんなものは効かない、というように平然としていた。そうしてまた、分厚い新聞に視線を落とした。
アガサはそれ以上、追及するのをやめたようだ。フロアにはまた、思い思いの音が響く。
僕の番が来なくてよかった。
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