世界が2人を忘れても、きっと当たり前みたいに生きていく
「ねえ、もしも世界が2人のことを忘れてしまったら、どうする?」
休日の朝はまだ車通りもなく、朝寝坊のセミも鳴いていない。2人の人間が思い思い本を読む空間では、洗濯機が回る音だけがしている。
お互いしかお互いのことを知らない世界。
手元にある本ではそんな世界を舞台に物語が進んでいた。ふと気になって、彼女だったらどうするか質問してみたくなったのだ。
「それって、私とあなたしかお互いのことを知らないってこと?」
「そう、そういうこと」
彼女は紙面から顔を上げて、手に頬を当てた。考えるときの癖だ。自覚しているのかいないのかは分からないが、この映画みたいな彼女の癖を、密かに気に入っている。
こうして共有スペースで本を読むときは、話しかけられても構わない。
それが、2人の暗黙の了解だった。だから時々こうして、お互いの読んでいる本について話し合ったり、“もしも話”のテーマを得て会話を弾ませたりする。本を読むのはあくまでも同じ時間と空間を共有するための手段であって、目的ではないのだ。
もちろん、物語に没入したいときは、それぞれの部屋へ行く。
「ふうん」
それきり、彼女は黙り込んでしまった。突然投げかけるには、少し面倒な質問だったかな、と思った。科学の実験事故によりパラレルワールドに……と、前提条件に奥行きをつけようとしたら、彼女が口を開いた。
「でもそれって、今となにも変わらないじゃない」
彼女はなんてことないみたいに、言った。
「え、そうかな」
「そうよ」
意外な返答に思わず聞き返すと、少しだけ真剣な面持ちで肯定の意が返ってきた。
・・・
「ねえ、もしも世界が2人のことを忘れてしまったら、どうする?」
一緒に本を読んでいると、不意にそんな質問が投げかけられた。この人はよくこんな風に“もしも話”をお話の世界から拾ってくる。それも、きっと普段は少しだけ聞きづらいのであろうことばかり。本人は自覚しているのかしら。私はそんなやり方で心の隙間を見せてくれるこの人のことを、可愛らしく思う。
「それって、私とあなたしかお互いのことを知らないってこと?」
「そう、そういうこと」
医学の世界から日常へ。そして、日常からもしもの話へ。
興味深い症例の記述に没入していたため、思考を切り替えるのに少しだけ時間がかかる。
2人だけの世界ねえ。
一体どんな本を読んでいるのかしら。疑問に思ったのは、まずそこだった。
読書が好き。と言っても私たちが共通するのはそこまでだった。
本屋に行くと新刊コーナーを一緒に見たあとは、お互い別々のコーナーへ足を伸ばす。
私が伝記や専門書を好むのに対して、この人はSFをはじめとしたフィクションが好きなようだった。
私とこの人しかお互いのことを知らない世界。
世界中の誰も、私たちのことを知らない世界。
「でもそれって、今となにも変わらないじゃない」
言えば、二重のまあるい瞳は意外そうな顔をした。
「え、そうかな」
「そうよ」
まだピンと来ていない様子の相手に、言葉を続ける。
「だって、私たちのこと、誰も知らないじゃない」
・・・
私はいつも、この家の中でだけ、思い切り呼吸ができる。
仕事の休憩中に、「松原さんってご結婚されてるんですか?」「旦那さんってどんな人ですか?」そんな風に聞かれるときも。
友だちとの食事中に、「薫、婚活パーティーとか行ったらめちゃくちゃモテそうなのにね〜」「せっかく美人なのに、もったいない」と軽口を叩かれるときも。
家族から、「孫の顔が早く見たいねえ」「薫はどんな人と結婚するのかなあ」と、押しつけがましく言われるときも。
いつだって私は、少しだけ息を止めて薄く微笑んでいる。
そうしないと、“いっそもう、言ってやろうか”という気持ちが溢れてしまいそうだから。
けれども今目の前にいるこの人は、“言ってやる”なんて気持ちで周囲の人間たちに晒していい人ではないのだ。
全然、そんな、軽い存在ではないのだ。
・・・
「だって、私たちのこと、誰も知らないじゃない」
そんな返しをされると思っていなくて、なんだか急に慌ててしまう。もしかして彼女は、今の状況に不満があるのだろうか。そんな不安が頭を過ぎったからだ。
同居を決めた時、ペアリングを作った時、それに日常生活の中の何気ない会話で、何度も確認したハズのお互いの価値観は、きちんと一致していると思っていた。
「もしかして薫、周りに話したいとか、ある?」
緊張しながらおずおずと聞くと、彼女は詰めていた息を吐くようにふっと軽く笑った。
「違うわよ。全然違う。だからそんな顔しないで」
「ほんとに違う?」
「うん。ほんとに違う」
安心させるように微笑みかけてくる彼女は、本心を言っているようだった。それでも先ほどの表情が気になって。
言うか言うまいか少しだけ迷って……聞いてみた。
「でもなんだか、怒っているみたいだったから」
言うと彼女は、きょとんとした。それからややバツが悪そうに、笑った。
「違うの。怒っているとしたら……きっと世界に怒っているんだわ」
世界に。
薫が何を言わんとしているのか、なんとなく分かった気がした。
たしかに世界は、私たちのことを何も知らないのだった。
なんの確認もなく不躾に誘われる合コン。
当然のように尋ねられる好みの異性のタイプ。
願望があるとも言っていないのになぜしないのか問われる“結婚”という制度。
日常生活の中のそんな“何気ない”のであろう状況に直面するたびに、この人たちは予想だにしないのだろうな、と思うのだ。
なんのしがらみもなく、ただお互いが好きだという理由のみで一緒にいる、私たちのことを。
「だから泉は気にしないで。それに、いまだに“カミングアウト”だなんて古くさい価値観で私の愛の形や恋人の存在を認識するような世界に、私たちの幸福を見せてあげる必要はないのよ」
世界には、自分たちのことを“普通に"話せないことを嘆く人たちがいる。
自身の辛い経験を発信して、"平等な"世界に変えようともがく人達がいる。
私はいつもそこに、当事者意識を持てなかった。
いつだってただ、不思議だった。
どうして人を好きになることが、問題になったり、蔑まれる理由になったりするのだろう。
どうして社会で生きていくための当たり前の権利を私たちが“勝ち獲”らなければならないのだろう。
人生の大切な時間を使って、心の柔らかなところをすり減らして。
自分自身とパートナーの存在を、さらけだして。
どうして、ただそこに在るだけではいけないのだろう。
そんな風に思う自分のことが、少しだけ後ろめたかった。もちろん、行動しないと生きやすい社会には変わっていかない。理不尽な経験に悲しい思いをする人が減ってほしいとも願う。
けれども"平等"を声高に叫ぶのも、なんだかしっくりこなかった。
ただ、当たり前みたいに当たり前な顔をして平和に生きていたいだけだった。
だから誰にも言えなかったし、何のコミュニティにも参加できなかった。
けれども彼女は、それもひとつの感覚として受け止めてくれた。
彼女の世界はいつだって自分を中心に回っていて、「話す自由があるのなら“聞かせてあげない自由”もある」と自信たっぷりに言ってのけたのだった。
この人とだったら、世界の真ん中で生きていけるなあ。
これまで自分が何者か分からずに、世界の端っこで生きていた自分が、生まれて初めてそう思えたのだった。
薫も私も、ただただ、お互いを好きなだけだった。
そのことは、私たち以外、誰も知らない。
薫が私を好きなことも。
私が薫を好きなことも。
けれどもそれでいい、と思う。
「そうだね。私たち、世界で2人きりだ」
「そう。世界で2人きりなのよ」
誰も知らない世界で、2人きり。
それがこの人で良かった。
私たちは会うべくして生まれてきて。
これから先も、内緒話みたいにいたずらっぽく、けれども当たり前みたいに当たり前の顔をして、生きていくのだ。
この、2人だけの世界で。
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