ダーツの悦び パーソナルな調和の感覚の享受
友人の影響でダーツを始めた。始めた、と言っても的を買い週に2~3度部屋で投げるだけ。20点のゾーンを狙い3本入れば次は19を狙う、という友人に教えてもらった練習方法は未だ20で止まっているし、ブルなんてもってのほかだ。
しかし、それでも私はダーツの悦びを享受していると感じる。
それは端的に言って「狙った場所に矢が刺さって嬉しい」という単純なものであり、それ以上ではない。しかし、この悦びを構成するものとは何か?それをここでは「パーソナルな調和の感覚」として解釈し、述べていく。(画像が無くて寂しいので、プレイ中に再生するアルバムを挟み込んでおく)
「パーソナルな調和の感覚」を構成するのは以下の二つの要素だ。
「狙った場所に矢が刺さる」ということは矢を放つフォームが正しかったことを示す。加えて、矢を放つタイミングが正しかったことを示す。あるいは、矢を放つ力加減が正しかったことを示す。以上の3点が私が友人に教わったことであり、これを「自覚でき、かつ、客観的にコントロール可能な要素」と定義する。
「狙った場所に矢が刺さる」ということは矢を放った時点で、身体の副交感神経が優位であったことを示す。部屋の明るさが、温度が、湿度が上記の「知覚でき、かつ、客観的にコントロール可能な要素」とマッチしていたことを示す。以上を「感覚でき、かつ、コントロール不可能な要素」と定義する。
以上の「知覚でき、かつ、客観的にコントロール可能な要素」と「感覚でき、かつ、コントロール不可能な要素」がダーツをプレイする時には存在する。そこで「狙った場所に矢が刺さる」ためには、後者のコントロール不可能な要素を肌で感覚し、前者のコントロール可能な要素を後者に適う形に変化させていく必要がある。
そして最後に到達するのが前者と後者の調和であり、客観的な結果としての「狙った場所に矢が刺さる」である。
なぜこれが「パーソナルな調和の感覚」なのか?それは「自覚でき、かつ、客観的にコントロール可能な要素」が自分という固有の肉体に起因するものであり、「感覚でき、かつ、コントロール不可能な要素」とは、「いま、ここ」という固有の時空間であるからだ。
それはオンラインゲームやSNSという同じ場所を共有して、誰もが入り混じって動き、ぶつかり合うという現代の場所とは対極にある、どこまでもパーソナルな場での自分だけの調和であるからだ。
この場における調和という言葉は「正解」とも換言できるかもしれない。自分の肉体とその瞬間の時空間との間にある、一つの明確な正解を探し応えていく。シングルプレイのゲームにおけるインタラクトのような相互作用。それが私にとってのダーツの悦びなのである。