エンタメ異人伝 Vol.8 水口哲也
音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。
今回は水口哲也氏をご紹介します。
このnoteはエンタメステーションにて掲載されていた取材記事を再現したものです。
水口哲也氏を突き動かすその情熱の背景を幼少期から現在に至る心の深淵を覗くインタビューをお届けします。
横浜の記憶と未知のドア
黒川――水口さんは1965年生まれ、北海道の小樽市出身とうかがっていますが。
水口 実は、2歳くらいで東京の荻窪、そして横浜に移って、小学校4年生の時にまた北海道に戻ったんです。だから、小樽の記憶ってほとんどないんですよ。幼少の頃の記憶で大きいのは横浜ですね。自分の記憶がどこから始まるかといったら、僕の場合は横浜なんです。南区永田町っていうところで、横浜といってもかなり奥の方なんですけどね。
――ちょっと山ぞいのほうになるんですか。
水口 ちょっとじゃないですね。昔はホント山の奥だったんですよ。山の上のほうに親父の会社の社宅があって、小学校に行くのに山ひとつ下らなきゃいけないとか。家に帰るときは上らなきゃいけないし、周りも森だらけで虫とか鳥とかの宝庫でした。そういうところだったので、けっこうワイルドな記憶ばかり残ってます。もう、今は山なんか切り崩されちゃってますけどね。
――ああ、もう宅地造成されちゃってますか。
水口 大人になってから訪ねたんですけど、周りは全部宅地とマンションになっていて、まったく見る影なかったですね。
――お父様のお仕事の関係で横浜に移られたのですか?
水口 そうですね。親父の会社は札幌が本社で東京の支社に転勤になって。それでまた本社に戻ったって感じですね。
――差し支えなければどんなお仕事だったのか教えてもらえますか?
水口 エネルギー系の会社です。ガスとか酸素とか太陽電池とか、そういうのを扱っている会社でした。
――もう少し横浜時代について聞かせて下さい。住んでいたところが山とはいっても、やっぱり都会的な部分にも触れていたと思います。何か感化されたものはありませんでしたか?
水口 う~ん、そうですね……僕が住んでいたところは車が通れないような細い道とか階段だけの道とか、神社周辺に洞窟あるとか、冒険するには飽き足らないくらいの場所がたくさんあって、ダンジョンのようでした。そこからバスに揺られて2、30分行くと横浜の駅前に出るんですね。そのコントラストは確かにけっこう楽しかったです。
――大自然と都会みたいな感じですかね。
水口 まったく風景が変わるんで。当時の横浜駅周辺はすでにけっこう栄えていましたし、確かあれば高島屋だったかな? 巨大なデパートができて、すぐ近くに港もあるし、中華街もあるし。そう言われてみると、けっこうあの環境からもらったものは大きいような気がしますね。中華街とかってやっぱり違う世界だし、いろんな言葉が飛び交ってるし、かなりカオスでしたね。
――当時はそうでしたね。
水口 子供心にちょっと怖かったですよ。文化も明らかに違うって感じで、店に入るとまったく知らない未知のドアを開けるみたいな、ね。
――なるほど。それで、北海道に戻られるわけですけど、また小樽に?
水口 いえ、札幌なんです。
――あ、ごめんなさい、札幌だったんですね。小学生のときに戻られて、それからいつまで札幌ですか?
水口 高校を卒業して1年浪人するまでです。
――その頃の生活はどうでしたか?
水口 親父にとって北海道はホームって感じだったと思うんですけど、僕は物心ついてから移ってきましたから、最初はかなりアウェイ感が強かったです。しかも、引っ越したのが3月だったんですね。まだ、すごい雪が残っていてビビりましたね、雪の多さに。
――確かに、それはビックリするかもしれないですよね。
水口 なんかもう寒さの質が違うんですよ。1年の半分は冬で、雪があって、その雪も東京で降る雪とまったく違う。空気の肌感とか、匂いとかも全然違っていて、すげーところに来ちゃったなあって、すごく緊張したのを覚えてますね。
――雪が違うというのは、やっぱりドサッと降る感じなんですか?
水口 音でいうと「ドサッ」ていうより、なんだろうなあ……雪に重さがないんですよ。ホントに粉みたいというかパウダーみたいな。しかも、一晩吹雪いて朝になったら、もう外に出れないぐらいの雪が玄関の前にぶわあーっと積もってたりするんで。だから、だいたい朝は学校に行くために雪かきの作業から始まってましたね。
北海道は雄大で大陸的、自由な場所だった
――そんな環境だったんですね。水口さんは東京というか都会的なイメージがあるので、何かすごいギャップを感じます。
水口 今思うと北海道って、すごい自由な場所だなって感じがするんですよね。社会とか地域とかの「こうしなきゃいけない」みたいな、しがらみのようなものがほとんどなくて。家と家の間の距離もそれなりにあるし、やっぱり東京とかとは違いますよね。自然も雄大だし、やや大陸的っていうのかな。そういう感じのある場所ですね。
――その頃はいろんなものに影響を受けた時期だと思うんですよ。例えば、雑誌でいえば「POPEYE(ポパイ)」(注1)とかが出始めた頃ですし、他のインタビューでは「ログイン」(注2)を読んでいたとも聞いてます。何がこの時期の水口さんの文化的要素を構成したと思われますか?
水口 僕が初めて文化的なことを意識したのって中学生になってからだと思います。本当に自分が心躍る瞬間っていうか。与えられた、教えられた文化とかではなくて、「これは俺、すごい好きだ!」みたいな気持ちになったのはその頃でしたね。
注1:1976年に創刊されたマガジンハウス刊行の男性向けカルチャー誌。バブル期に若者文化をけん引する存在として人気を博した。
注2:アスキー(のちにエンターブレインに移行)から刊行されていたパソコン雑誌。パソコンゲームをメインとしたライトかつ多彩な内容で若者層の人気を呼んだ。
心の扉が開いたミュージックビデオの衝撃
――その心躍ったものとは何だったんでしょうか。
水口 ひとつはミュージックビデオの登場ですね。確か、ソニープレゼンツで『MTV』(注3)とか放送されてましたよね。中学か高校のアタマくらいだったと思うんですが、あれを見たときはちょっと衝撃が走りましたね。もちろん、音楽自体は聴いていたし、リアルタイムじゃないけれど、小学4年生のときにビートルズの洗礼を受けて、音楽で気分がこんなに変わるんだという身体がしびれるような体験もしていました。
でも、それに加えて今度は映像の力が入ってきて。何か全然違うというか、ストーリーテリングとか、いろいろすごいと思ったんですよ。そこからですね、映像っていうものに興味を持ち始めたのは。片っ端から映画を観るようになったし、読まなかった本も次第に読むようになるし。何が自分の心の扉を開けたかなって考えると、ミュージックビデオの存在は非常に大きかった気がしますね。
注3:1981年にアメリカで開局した音楽専門のケーブルテレビチャンネルで正式名称は「Music Television」。24時間ポピュラー音楽のビデオクリップを流し続ける独自のスタイルで人気となり、日本でも80年代にダイジェスト版が放送されていた。(※)
スーパーのレジ横の『ブレイクアウト』
――今までは聞くだけだったのものに絵がついて、イマジネーションが広がりましたよね。
水口 そうですね。もうひとつは時系列的にちょっと戻るんですけど、やはりビデオゲームですね。一番最初のビデオゲーム体験は小学校5年生のときかな? 札幌で友達になった子がオモチャ屋の息子で、ある日その子の家に遊びに行ったら、テレビに何か見たことのない機械がつながっていて。それが、ATARIの『PONG』。これが初めてのインタラクティブ体験でしたね。すげえなあって言いながら夢中になって遊んだのを覚えてます。そのあと、(ゲーム機を)買わなくても外で遊べるって言ってハマったのが『ブレイクアウト』……『ブロックくずし』(注4)です。近くのスーパーのレジの横にテーブルの筐体が置いてあったんです。
注4:オリジナル版は1976年にアタリが発売した『ブレイクアウト』。アメリカではボックス型だったが日本ではテーブル型筐体が主流で、喫茶店などに置かれていることが多かった。日本でも人気となり、のちの『スペースインベーダー』ブームの下地を作った。
――そういえば当時はそんな感じでしたね。
水口 まだゲームも出たてのころで、まだ学校で禁止されてなかったので、友達を誘ってやりにいきましたね。でも、当時の自分たちにとっての百円って、すごく大きいもので、今で言うと多分千円札みたいな感覚だったと思うんです。その百円玉をスロットに入れて、ガチャって音がしたとき、なんかちょっと悪いことをしているような、異次元に足を踏み入れているようなドキドキ感があって。当然、ヘタだと長く遊べないですから、すごい集中して遊んだ記憶がありますね。そのあとも『スペースインベーダー』とか『パックマン』とかナムコやセガのものとか、いろいろ出てきて。中学・高校の頃は学校帰りに少しでも安いアーケードを探して遊んでいました。
でもね、僕はゲーム機を買ったことがないんですよね。遊ぶときは全部、外。なんでなんだろうなあ……なぜか家にゲーム機が欲しいって思ったことがなかったんですよ。そんな流れできているんで、恐らく僕はゲームそのものに心底ハマったわけではないんだと思うんです。好奇心があるからすごいやりたくて、やってもいたんですけど、本当に心動かされたというか、衝撃度はミュージックビデオとかのほうが大きかった気がします。
――そこはすごく共感するんですよ。僕もゲームはやりましたけど、どっちかっていうとMTV。音楽に絵がついた、ビジュアルがついたっていうのは僕にとってすごいインパクトで、当時ホントによく見ていましたね。プロモーションビデオ(PV)とPVの間に映像ジングルみたいなのが入っていたじゃないですか。アポロの宇宙飛行士が歩いていって『MTV』のロゴの入った旗をばーっと立てるとか。そういうのを見てカッコイイな、とかね。
ゲームという名のボディブローを受け続けて
水口 そういう新しいクリエイティブがテレビの向こうから押し寄せて来て、子供心にそれが理解できるっていうか、共感している自分がすごい新鮮でしたね。日大芸術学部に入って、美術とか芸術とかをやりたいと思ったのもMTVの影響が大きかったと思います。ただ、将来何を作ろうとしているのか、何が本当にやりたいのかってことは、まだ分かっていなくて。何かモノを作りたい、生み出したいっていう欲求だけは強かったので、音楽とかミュージックビデオとか映画とか小説とか、ととにかくいろんなことを試しました。
でも、その過程でずーっと僕の横にあり続けたのがゲームだったんです。だいたい友達の影響なんですけど、映像を志している友人がAMIGA(アミーガ)(注5)を買って、何かこういろいろやっていたんですね。それに影響されて、僕もAMIGAでゲームをやってみたいなって思って、いろいろ調べていたときに『Xenon (ゼノン)2』(注6)というシューティングゲームに出会ったんです。
The Bitmap Brothers(ビットマップブラザーズ)(注7)っていう、イギリスのクリエイターたちが開発したんですよね。このゲームで初めて僕は、ゲームにクリエイターというか、作家やアーティストが存在しているんだってことを意識したんです。Bomb the Bass(ボム・ザ・ベース)(注8)っていうアーティストのヒップホップミュージックを彼らのシューティングゲームに乗せたっていう……それだけなんだけれども、その心意気っていうのかな。そこにすごく共感したのを覚えてますね。
そのあたりからですかね、テクノロジーをすごい指向するようになったのは。それで、最終的にメディア美学専攻に進むんですけど、テクノロジーとメディアと、そこにエンタテインメントとかいろいろ融合したところに、どういう未来があるのかとか。人間が感動するメカニズムはいったい何かっていうことを、すごく考えるようになったんですが、そんなときに『電視遊戯大全』(注9)という素晴らしい本に出会ったんです。
注5:1985年にコモドールより発売されたパーソナルコンピューターで、強力なグラフィック機能が欧米で人気を呼んだ。
注6:1989年にAmiga用ソフトとして発売された縦スクロールシューティング。日本ではX68000版、ゲームボーイ版なども発売。
注7:イギリスのゲームクリエイタチーム。『Xenon』、『Xenon 2』、『Speedball』などを手がけ、80年代後半~90年代前半に大きな成功をおさめた。
注8:人気DJのティム・シムノンを中心としたイギリスの音楽ユニット。
注9:1988年にUPUより出版されたテレビゲームの資料本。黎明期からのありとあらゆるゲームの紹介や関係者たちへのインタビューなど、当時のゲームに関する歴史や情報をほぼ網羅。ページ構成も当時としては非常に斬新で、プレミア価格がつくほどのお宝本となっている。
『電視遊戯大全』がなかったら人生は変わっていた?
――ありましたね。石原恒和(注10)さんと田尻智(注11)さんが中心になって作られたんですよね。
水口 そうです。あの本に出会っていなかったら、僕の今の人生の軌道はちょっと違う方向に振れていたかもしれないですね。
注10:株式会社ポケモン代表取締役社長で、『ポケットモンスター』シリーズのプロデュースを手掛けてきたクリエイターとして知られる。
注11:『ポケットモンスター』シリーズの生みの親として名高いゲームクリエイターで株式会社ゲームフリーク代表取締役社長。
――それは本の内容というか、ビデオゲームの広がりみたいなものに心動かされたということですか?
水口 それもありますね。コンソールもアーケードもマッキントッシュも、そのほかの実験的で先鋭的なゲームやオンラインも含めたホントに幅広い本で。コンピューターの進化とともにゲームが進化し続けているっていう系譜が、ちゃんと提示されていたんです。最初のビックバンを提示していたし、この先どういった歴史が訪れるかってことも読む人たちにすごく想像させたと思うんですよね。そういう意味であの本の登場は大きかったと僕は思うな~。
――単なるコンテンツが紹介されているというものではなく、その先の広がりみたいなものを『電視遊戯大全』に感じたと。
水口 そうですね。あともうひとつ、大学生のときに非常に大きかった出来事があったんです。友達がファミコンのディスクシステム(注12)を持っていまして、僕は家にゲーム機がないんで、たまにはちょっとやってみようかなと。友達の家に遊びに行ったんです。
注12:1986年2月21日に発売されたファミリーコンピューターの拡張用周辺機器。従来のROMカセットより大容量で、データの書き換えやセーブなどもできる「クイックディスク」の導入で話題を呼んだ。
『中山美穂のトキメキハイスクール』エンドロールを見るまで
――ハハハハハ、僕も友人の家でよくやりましたよ、ハイ。
水口:で、棚を物色しながら、「アイツこんなゲームやってんだあ」とか思いながら見ていたら、そこにあの~『中山美穂のトキメキハイスクール』(注13)っていう……。
注13:当時、アイドルとして人気を博していた中山美穂とタイアップした、1987年発売の恋愛アドベンチャーゲーム。ゲーム中に登場する電話番号に電話すると中山美穂のメッセージやゲームのヒントを聞くことができた(現在はサービス終了)
――ああ~~そこにいきましたか。
水口 「なんじゃこりゃ?」と。で、友人はバイトでいなかったんで、その間にちょっと遊んでみようかなって思って。ディスクを入れてみたら中山ミポリンがでてきたんですけど、オカッパ頭のドット絵で、とてもじゃないけど中山美穂に見えない(笑)。
――まあ、見えないですよね。
水口 でもまあ、本人が中山美穂だって言っているから、中山美穂なんだろうなあくらいに思いながら始めたんですよ。それで、アドベンチャーゲームなんで会話を進めていたら、「私の友達のなんとかちゃんが、あなたのことを好きって言っているけど、どうする?」みたいな質問をされたんです。で、答えたらその瞬間に画面がパシって真っ暗になって、急に電話番号が画面にピュっと出てきたんです。「なんだこれ、この電話番号は何を意味するんだ?」と。
――何をすればいいんだみたいな(笑)。
水口 それで、その番号にかけてみたんですよ、友達の家の電話から(笑)。そうしたら彼女の肉声が出てきて、「明日の夕方、校庭の前で待っているから」みたいな。で、電話を切って(ゲーム中で)行ってみたら本当に待っているんですよ。もうその瞬間から、そのドット絵のオカッパの中山ミポリンが自分の頭の中で完全に活き始めたんです。そこから、どハマりして、結局2日間やり続けました。
――そんなにハマっちゃったんですか?
水口 はい。もう一気にエンディングまで。「オマエいいかげんにしろ」って、その友達に言われたんだけど、「オレもうここで止められない、お願いだから最後までやらせてくれ!」って頼み込んで。結局、何回も電話借りて(笑)、それでも「すげえなあ」と思いながら。最後は多摩川みたいなところをバイクでね、夕日の中をこう走っているところにエンドロールが出てくるんですけど、しっかりエンディングまで見ました。
なんかね、未来を見たんですよね。当時の言葉でいうとメディアミックスなんでしょうけど、別の要素を掛け合わせると、新しいストーリーテリングが可能になるんだなっていうのが、けっこう驚きで。でも、この話をするとみんなにズッコケられるんですよ。「ミポリンですか?」って
――いやいや、大丈夫ですよ(笑)。
水口 そういえば、この仕事をするようになったあと、坂口(博信)(注14)さんとお酒を飲みながら、その話をしたんですよね。そしたら「それ、作ったのはオレだよ」って。すごいビックリしました。いろんな開発秘話も聞かせてもらって、坂口さんも大変なときがあったんだなあ~と思いましたね。だから、僕は『FF(ファイナルファンタジー)』じゃなくて、『トキメキハイスクール』の坂口さんを尊敬しているんです(笑)。尊敬というか感謝ですかね。怒られるかもしれないですけど(笑)。
注14:『ファイナルファンタジー』シリーズや『テラバトル』などを手がけたゲームクリエイター。『中山美穂のトキメキハイスクール』は任天堂とスクウェア(現スクウェア・エニックス)の共同開発で坂口氏や植松伸夫氏らがスタッフとして参加していた。
――でも、あのゲームは斬新でしたよね。何でもありの時代だったからできたのかもしれないですけど。
水口 今はもうハイスピードのインターネットが当たり前になって、映像も音声も何でも送受信できますけど、当時はできないことだらけでしたからね。でも、きっとクリエイターたちの頭の中にはやりたいことリストがたくさんあって、何とかそれを実現したいっていうのが、それぞれにあったと思うんですよ。
僕が最終的にこの世界に行くって決めたのはセガの『R-360』(注15)っていうマシンを見たからなんですが、あれも今から考えるとずいぶん思い切ったことをしていたなあと思います。今はあんな思い切ったことをしてる人たちいないですよ。
注15:1990年にセガ(現セガ・インタラクティブ)が開発した大型体感ゲーム。前後左右に360度回転する筐体が大きな話題となった。
『R-360』あんな思い切ったことは今は誰も出来ない・・・?
――そうですね。僕もそう思います。
水口 あんな3メートル、4メートルくらいのアーケードマシンをグルグル回してね。なんだろうなあ……もう何かが爆発してるというか。多分その爆風にあてられて僕はゲームの世界に来たんだと思いますね。
――何をやってもいいんだみたいな、ある種のカオス感がありましたよね。当時はセガもそうでしたが、今までにないものを作ろうみたいな、エンターテインメントに対する強い気持ちがみんなあったと思います。
水口 そうですね。
――セガの話に行く前にもうひとつうかがいたいことがあります。水口さんは人との出会いの「引き」が強いような気がしていて、そのひとつが大学時代に武邑光裕先生(注16)と出会われたことだと思っているんです。僕も一度だけ武邑先生とお話させていただいたことがあるんですが、先生の影響というのはやはり大きかったですか?
水口 大きいですね。まるっきり僕と真逆の方だったんですよ。自分は自然科学的というか、テクノロジーとは違うところに興味があったんですよね。先ほども言いましたけど、「なんで人間って感動できるの?」とか。そういう意味ではすごくアナログというか、ちょっと哲学的な指向だったんです。
だから、武邑先生と出会ったとき、彼の口から出てくる横文字、カタカナをまったく理解できませんでした。ホントに笑っちゃうくらい分かんなかったんですよね。世の中には分からないことがこんなにあるんだなって。でも、すごい大事なことを言っているような気がしたし、分からないのも悔しいいので、いろいろ調べ始めるわけです。当時はまだインターネットはなかったんで図書館に行ったりとか、それこそ『イミダス』で引くとかして。それで、だんだんだんだん、どういうことか分かってきて、気がついたら武邑先生のゼミにいたんですよね。
注16:メディア美学者。80年代初頭からインターネットやバーチャルリアリティーなどのテクノロジー文化の到来をいち早く予見し、日本に紹介した。主な著作は『ニューヨーク・カルチャー・マップ』、『記憶のゆくたて デジタル・アーカイヴの文化経済』など。『武邑塾』主宰。現在は、ドイツ・ベルリンに在住。
武邑光裕氏の提示する未来からの啓示を受けて
水口 そこからはもう、先生が提示する未来っていうものにどっぷりと。多分、日本でいち早く「バーチャル・リアリティー」っていう言葉を紹介した人だと思うんですよね。
あと、「ホロフォニックス」(注17)っていうバイノーラル録音(注18)の3D音響があるんですけど、それをいち早く聞かせてくれたりとか、真っ先にインターネットっていうものをインプットしてくれたのもそうだし。インターネットっていっても、まだ写真1枚送るだけでもめちゃくちゃ時間がかかるようなものでしたけど、それが行動的にどういうものであって、これが将来どうなるかっていうことに関する予測みたいなことを。
注17:アルゼンチンの技術者ウーゴ・スカレーリが開発した立体的音響効果をもたらす録音技術。
注18:ステレオ録音方式のひとつ。人間の聴覚特性と非常に近い音声を録ることができるもので、ヘッドホンやステレオ・イヤホンなどで聴くと、その場にいるのとほぼ同じ臨場感を得られる。
――いろいろ学びがあったわけですね。なるほど、それはすごいですね。
水口 あと、いち早くCGとかね。SIGGRAPH(シーグラフ)(注19)にもついて行きましたね。
注19:毎年夏にアメリカで開催されているコンピュータグラフィックスやインタラクティブ技術の国際会議および展示会。
――そんな早くから行かれていたんですか。
水口 はい。僕が最初に行ったのが89年で、当時はほとんど日本人はいなかったです。でも、武邑先生が絶対に見たほうがいいと言って、お金を貸してくれまして。それで、行くとやっぱりいろんな気づきがあるわけですよ。まだ当時黎明期だったVRもそうだし、CGもそうだし……しかも、リアルタイムのCGです。ビジュアルじゃない音だけのVRっていうのもありました。今で言うとキネクトなんだけど、カメラでセンシングすると音が鳴るんです。そういうことを89年からやっていた人たちもいたんですよね。あの時代に今の技術の原型のほとんどが存在していて、それをいちはやく見れたのってすごい大きかったと思います。
マービン・ミンスキー「心の社会」の原書
――それはすごいなあ。
水口 で、その年の会場がボストンで、近くにメディアラボ(注20)とかMIT(注21)とかがあったので、本屋に行くと、そこの先生たちが書いた本が売っているんですね。そこで見つけたのがマービン・ミンスキー(注22)の『心の社会』っていう本で。当時はまだ英語なんてほとんどできなかったんですけどね。
注20:マサチューセッツ工科大学内にある研究所で、バイオテクノロジーやロボティクス、コンピュータサイエンスなど最先端のテクノロジー研究を行っている。
注21:多数のノーベル賞受賞者を輩出したことで知られるマサチューセッツ工科大学の略称。
注22:アメリカのコンピューター科学者、認知科学者。MITの人工知能研究所の創設者のひとりで、「人工知能の父」と言われた。2016年に死去。
※『心の社会』(Society of Mind)産業図書より刊行
――原書で読んだんですか!?
水口 ええ。頑張って、辞書を片手に読みました。インターネットもない時代でしたけど、その分考える時間は余計にあるから、自分なりに何かを吸収しようみたいなことを一生懸命やってたんだと思います。でも、それも武邑先生と出会ったからであって、彼と会っていなかったら今の自分はないでしょうね。
――武邑先生はよく『ブルータス』に寄稿されていて。当時、シンクロエナジャイザー(注23)とか、アイソレーションタンク(注24)とか紹介されていましたよね。いわゆる精神性と身体の融合というか、何かその先を目指している方というような印象があって、すごい先進的なことをしてる方だなあっていう印象が強かったですよね。
水口 そうですね。思い返せば、武邑さんが当時言っていたことって、やっと今リアリティが出てきてるなあって感じますよね。あと、やっぱり深いじゃないですか、彼の言説って。人間がどこに向かうかとか、歴史が何を語るのか、みたいなところの考察がすごい深いんで、そういう意味でも本当にいろいろすごいですね。実は先週、ベルリンでお会いしたんですよ。相変わらず、すごいアグレッシブでしたね。まったくブレていないんで、ホントに頭が下がります。
注23:ゴーグルの光とヘッドホンからの音で精神的トリップを起こさせるシステム。松任谷由実のアルバム「DAWN PURPLE」のジャケット写真に使用されたことでも有名。
注24:光や音を遮断して無感覚・無重力状態を作ることによってリラクゼーション効果などをもたらすシステム。
――水口さんをして、そこまで言わせるってすごいことですよね。
水口 いやいやいや、僕は全然まだまだです。
セガしか入りたくなかった
――水口さんも相当な領域まできていると思いますよ。では、セガの話にいきたいと思います。セガの面接でナムコのキャッチコピーを言ったりしたとかいう逸話を読んだことがあるんですけど、必ずしもセガに入りたいというわけではなかったんでしょうか。
水口 いや、当時の僕は、もうセガしか入りたくなかったんです。
――セガだけだったんですか? そうだったんだ。
水口 ええ。とにかく『R-360』が衝撃だったんですよ。「これを作った会社はなんなんだ?」って。だから、他の会社にはまったく興味がなかったですね。セガがダメだったら大学に残ろうくらいに考えてました。
――そこまでだったんですね。
水口 そんなだから、面接で「御社の“遊びをクリエイトする”っていうキャッチコピーがありますよね」なんて言って、「それ、ナムコだよ」と。付け焼き刃が露呈しただけです。そのときの僕はそんな知識もなかったんですね。
――でも、セガもそれでよく採用したというか、キャパがありましたね。やっぱり、鈴木久司さん(注25)のキャパですかね。
水口 それはもう鈴木久司さんでしょうね。当時の僕は自分の持っている知識を一生懸命ふりかざすだけでしたから。学生時代に作った同人誌を持っていったりとかしてね。メディア美学のちょっと集大成的な、アートエンターテインメントテクノロジーみたいなことをまとめた本で、それを見せたんですけど、鈴木さんは「う~ん、なんかよく分かんねえなあ」って感じでした(笑)。
注25:元セガ副社長。長く常務として業務用ゲームを統括し、2001年の分社化の際にはSEGA-AM2の代表取締役社長を務めた。
「アンタはそういうの持ってんのかい?」
――言いそうですねえ(笑)。
水口 それで、会って一発目で説教が始まって。「いいかい? エンターテインメントってのはね、ココ(頭)じゃねえんだよ、ココ(鼻)なんだよ」と。あの人、よく言うじゃないですか、とにかく、「鼻」だって。どんなに勉強しても、どんなに頭が良くても、面白いものを作れるわけじゃない。人が感動するものとか、心動くものっていうのは、知性だけでできるもんじゃないんだと。で、「アンタはそういうの持ってんのかい?」みたいなことを言われて、「自信はあります」と答えたんですけど、その時になんかその……ゲームを作りたいわけじゃないみたいな、ヘンな言い方をしてしまったんですよね。
――らしいですね。
水口 ええ。「作りたいのは今のゲームじゃないんです。もっとその先のゲームとかエンターテインメントがやりたいんです。僕はそういうことがやりたくて、この会社を志望したんです」みたいな話をしたら、黙り込んで「う~ん」みたいな。そうやってしばらく黙り込んだあとに、「まあ、いっか。お前みたいなヤツがひとりくらいいても」って。それで、採用してもらったんですよね(笑)。
――はあ~、すごいですね。
水口 まあ、当時のセガはライジングサンのようになっていたとはいえ、今で言うところのスタートアップに近いですからね。まだ上場もしていなかったし、ホントに町工場みたいなところで、ベンチャーに近かったですから。
ただ、僕はそのときに、「必ずあと数年で3DのCGがこの世界に入ってくる」とか、「バーチャルリアリティーというのがあって」とか言ったんですけど、鈴木さんはジーッと聞いてましたね。あの人も鼻のききかたがスゴイじゃないですか、。だから、何か時代の流れを感じていたのかもしれませんね。そこにヘンな若者が来てワーワーと、さもことありげにいろいろ言うもんだから、こういうヤツがいたら少しは波風立つのかなぐらいな、ハハハハ。
――なるほど、なんとなくそれは分かります。
僕らがやろうとしていたことはほとんど実現してしまった
水口 どうやって新しい風を起こすかみたいな、ね。やっぱりそういうことを鈴木さんは絶対考えていたでしょうし、黒川さんのこともそういう風のひとつと思われていたんじゃないですか。
――ありがとうございます。そう言ってもらえるとうれしいです、ハハハ。
水口 いや、絶対そうだと思いますよ。でも、やっぱり僕もそうだし、黒川さんもそうだけど、当時僕らがやろうとしていたこととか言っていたことって、ほとんど実現化しましたよね。そういう意味では当時のセガって勢いがあったなあって。
――ありましたね。僕もセガにいたのは短いですけど、あの時代があるがゆえに今があるなっていうのは強く思っています。すごい勉強になったし、意識が広がったし。僕は映画配給会社のギャガにいましたから、映画の未来をセガのゲームとか3Dのグラフィックとかに感じたんですよね。それが恐らくエンターテインメントの未来だと。
水口 けっこうギャガからセガにきましたよね。やっぱり黒川さんの後を追って?
――いやいや、僕はその頃にはもうセガにいなかったですから。セガに入る前といえば海外に行きたいって言って、ひとりでアメリカをほぼ一周してきたというお話もありましたよね。それで、ニューヨークで荷物をすべて盗まれてしまって、お金を借りてサンフランシスコに戻ったら、鈴木さんと偶然出会われたっていう驚きの出来事もあったそうですけど、やっぱりすごい人を引きつける力がありますよね。
水口 結果論だと思いますけどね。でも、カルマっていうか、縁っていうか。何かそういうものはやっぱり感じますよね。自分ってなんなのかなあって考えると、いろいろな人たちの影響を多分に受けて、それを吸収して、ここまでこれたのかなと。
――でも、僕の印象からすると水口さんはそれを自ら取りにいっている気がします。待っている人じゃなくて、どうやったら自分の中に取り入れられるかってことを考えて、自らアクションを起こす人に見えるんです。
水口 そうですか? あんまりそういう意識はないんですけどね。
ボロボロで、ドタバタ?悩みに明け暮れる日々を越えて
――僕はセガにいたときからそう感じていたんですよ。自分から何かを取りにいこうするという。で、水口さんの強運なのか、自ら取りにいっている姿勢ゆえなのか、それが見事に来るんですよね。そういう引きの強さがあると僕は思っているんです。
水口 そんなに都合よくいってますかねえ。。
――いや、第三者的に見ている人は、多分みんなそう思っていますよ。
水口 ええっ、ウソ?
――だって、そう見えるじゃないですか。このあと、お話を聞くことになると思いますが、セガでゲームじゃないことやりたいって言って、AS-1(注26)用の『メガロポリス・トーキョー・シティー・バトル』(注27)を作ったり、米米CLUBとタイアップ(注28)したり。誰もやってないことをやられていたでしょう? 『Rez』や『ルミネス』(注29)だってそうだし、『セガラリー』もそうかもしれない。すごくアグレッシブに自分から取りにいっているように見えますよね。常に自身が描いている未来のビジョンみたいなものが具現化するし、おまけにこのルックスだし。みんな憧れる反面ね、なんかすごすぎちゃって嫉妬している部分もあると思いますよ。
水口 マジですか……内情はボロボロですよ(笑)。ボロボロっていうかその、ドタバタですね。本当にうまくいかないなあってずっと悩み続けてきて。最近はやっと楽になってきましたけど。
注26:映像に合わせて座席が動く8人乗りの体感ライドマシンで1993年に発表された
注27:水口氏とマイケル・アリアスが共同監督を務めたAS-1用のCGライド映像で1993年のSIGGRAPHエレクトロニック・シアターに出展された。
注28:「米米クラブ・ザ・ミュージックライド」のこと。米米CLUBの音楽と映像に合わせてシアターが動くというもので、水口氏がフジテレビと共同で制作した。
注29:水口氏がプロデュースした音楽パズルゲームでシリーズ累計販売250万本以上を記録。現在、スマホ向けアプリも配信中。
――でも、世間は全然そう思ってないですよね。ゲームもそうだしエンターテインメントという世界で、「水口哲也」っていうのはみんなの中の強烈なアイコンになっていると思いますよ。
水口 う~~ん、そうなのかなあ……。
――僕はそう思っています。水口さんはセガで、ある種の特命部隊みたいなことをやっていましたよね。『メガロポリス』もそうだし、米米クラブもそうですけど。なぜ最初にああいうことをやろうと思われたんですか?
2D抵抗勢力との戦い
水口 それはもう理由はハッキリしていて、自分がゲームのほうに入っていくとしてもまだ先だなって思っていたんですよね。なぜかというと、2Dでイノベーションというか、新しいものを作れるとは正直思えなかったんです。セガに入って新しい風を起こそうと思って、いろんなことをやったんですけど、とにかく2Dのプログラマーとかエンジニアの壁ってすごく厚くて。自分がどんな新しい発想をしようと思っても、「いや、そんなんじゃないんだ」って言って突っぱね返される。あの圧力はすごかったです。
そうやって戦いながら消耗するよりも、みんなが全然やってない新しいことをやって先回りしようって思ったんです。当時はまだ3DCGの映像を作る人もそんなにいなかったし、世の中にCGデザイナーっていう職種もなかったですよね。CG制作のマシンも高かったし。シリコングラフィックス(注30)のマシンにソフトウェアを合わせると1台2000万円とか3000万円とかしましたからね。4台買ったら1億円ですよ。
注30:業務用コンピュータの開発・製造・販売を行っているアメリカの企業。90年代、同社のマシンは映画などのCG制作におけるスタンダード機となっていた。
マイケル・アリアスと口喧嘩の日々
――それぐらいしましたね、はい(笑)。
水口 でも、4台買ってでも、とにかく世界に先駆けて作ってしまおう、SIGGRAPH(シーグラフ)にも出してしまおうぜと。だけど、人がいないので可能性のある人にとにかくあたりまくって。最終的にセガの中からひとり、外から3の計4人でチームを作りました。その中のひとりだったのがマイケル・アリアス(注31)です。今は『鉄コン筋クリート』(注32)をはじめすごい映像作家になりましたけど、当時はまだホント、2人とも若くて。
注31:アメリカの映画監督。『アビス』や『トータル・リコール』などの映画にカメラアシスタントとして参加したのちセガに参加。「メガロポリス・トーキョー・シティー・バトル」の共同監督を務めた。その後、ニューヨークに移って数々の映画でスペシャルエフェクトやコンピューターグラフィックスの制作を担当。2006年に日本のアニメ映画『鉄コン筋クリー』で監督デビューを果たした。
注32:驚異的な身体能力を持つふたりの少年の活躍を描いた松本大洋の人気漫画で2006年にアニメ版が劇場公開された。
――まだ学生さんだったみたいですね。
水口 そうです。ダグラス・トランブル(注33)さんと『バック・トゥ・ザ・フューチャー ザ・ライド』(注34)のデロリアンのモーションプログラムをやっていたんですよね。そのダグラス・トランブルさんとセガは親交があって、マサチューセッツの山奥にある彼のスタジオによく行ってたんですが、そこでカタコトの日本語を話すモーションプログラマーがいるぞって言われて。いろいろ話を聞くと、日本の文化や映画が大好きでニューヨーク大学で映画を作ったりしているというんです。
映像に興味があって、しかもモーションプログラマーをやっているわけじゃないですか。それで、「CGやらない?」って誘ったんです。彼も新しいことに挑戦してみたかったようで、日本に引っ越してきて『メガロポリス』を一緒にやることになったんですけど……まあ、毎日のようにケンカしましたね。今は大親友ですけど、当時の彼とはケンカしている記憶しかないです。
注33:『2001年宇宙の旅』、『未知との遭遇』、『スタートレック』など、数々の名作映画の特撮を手がけたことで知られる巨匠。
注34:映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を題材にしたユニバーサルスタジオのアトラクション。
――そんな感じだったんですか?
水口 ハハハハ、なんかいつもお互いイライラしているんですよ。当時はレンダリングにすごい時間がかかったじゃないですか。なんで3秒のエフェクトを確認するだけなのに6時間も待たなきゃいけないんだっていうような。その間、お互いにやることもないから余計イライラして、それでケンカになっちゃうんですよ。
そのときは議論したりケンカしたりしながら、これからのクリエイティブのこととか人生こととか、いろんな話をしました。その意味では楽しい時間だったです。でも、フルCGの3分の映像を作るだけでも、当時は大変なことだったんだって改めて思いますね。
――でしょうね。すごい大変だったと思いますよ。
水口 ホント、直したいところが山ほどあっても最終的にはどこかで……このクオリティでもいいから終わるしかないねっていうね。だから、後悔することも多いです。そういうことの連続なんですね。まーた、ここまでしかできなかったなあと思いながら、毎回毎回やってます。
CGがゲームに大きな付加価値を与えた時代
――『米米CLUB・ザ・ミュージックライド』の方はどうでしたか?
水口 『ミュージックライド』は米米CLUBの石井竜也さん(注35)とか、フジテレビの方々とかが最初に企画自体に乗ってくれて。アイディアをみんなで出し合いながらミーティングして、音楽に合わせて実写の撮影をして、そこにモーションデザインを付けて、いろんな方が試行錯誤して最終的に出来上がったものです。
でも、試みとしては面白かったですね。ミュージックビデオに動きがついたらどんな体験になるだろうっていうのは僕自身もずっと思っていたことなので。しかも、それを客観映像じゃなくて主観映像でやる。それってある意味今のVR+身体性に通じるものじゃないですか。
当時から自分は主観と客観の違いを考え続けてきた感じがあります。「なぜ、映画は泣けてゲームは泣けないんだ」とか。それも、ずーーっと議論してきたことで、やっぱり当時の解像度じゃ泣けなかったですよね。でも、今はホントに多くの人がゲームで泣くようになりました。過去、15年ぐらい大学とかで「ゲームで泣いたことがある人どれくらいいますか」って聞いていて、昔はほとんど手を上げなかったですけど今はまったく違いますからね。
注35:音楽、舞台芸術、空間イベントなど、さまざまな分野で活躍するアーティスト。米米CLUBのボーカルとして活動する際には「カールスモーキー石井」を名乗る。
――それはやっぱり表現力の違いがそうしたことを後押ししていると思われますか。
水口 間違いないですね。『ファイナルファンタジー』シリーズで例えるのが一番分かりやすいと思いますが、昔の解像度とかCGのクオリティでは、やっぱりまだ泣けなかった。でも、今は映像の表現力がものすごく上がって、本当に泣いてしまう人がいる。ストーリーテリング自体をどうインタラクティブに融合させるかっていう部分での試行錯誤もどんどん進んでいますしね。
でも……やっぱりずっと考え続けてきてますね、主観と客観のことは。こういう話を小島秀夫さん(注36)と深く話したことはないですけど、きっと彼もすごく深く考えてきていると思うし、ほかのゲームクリエイターたちもそれは同じだと思いますね。
注36:『メタルギア』シリーズをはじめとする、数々の名作を手がけたゲームクリエイター。現在、自身が代表を務めるコジマプロダクションの第1作目となる『デス・ストランディング』を開発中。
――でも、それは水口さんの中でだいぶ解決したんじゃないですか?
水口 解決したというか、あるひとつのこう……原理っていうかフォーミュラみたいなものは見えたかなとは思ってます。そういう意味では、昔みたいに迷ったり悩んだりする時間は少なくなったかな。これをやっても多分面白くないとか、うまくいかないとか。こうしないと多分感動はしないみたいな直感というかセンシビリティも昔に比べてずいぶん高くなったと思いますね。
もちろん、周りのスタッフの力量もどんどん上がってきているんで。そういう意味では『Rez Infinite』の『Area X』はあまりストレスなく、スムーズに開発できたっていう感じがしますね。なんでVR酔いをあまり起こさず、あれだけの気持ちいい感覚を表現できるのって、よく言われるんですけど、それは長いことやってきましたからね(笑)。主観と客観のこととかVRのこととか、ずーーっと考えてきましたから。
――そうですよね。80年代後半からずっとそこに関わっているわけですもんね。
水口 はい。だからもう、ただそれだけですね。
ゲームを創った本当の理由
――ちょっと話を戻させてください。僕は水口さんが『セガラリーチャンピオンシップ』を作るってなったときに、「あれ、ゲームやるんだ」って正直思ったんですよ。そこは先ほども言われていましたが、「自分が(ゲームを)作れる時代が来た」と思ったからなんでしょうか。
水口 そう言いたいところなんですけど、そこまでかっこよくはないですね。もちろん、そういった思いもあると言えばありましたが、全体で言うと30パーセントくらいかな? じゃあ、残りの70パーセントは何だったかっていうとですね。当時僕は『メガロポリス』とか、米米CLUBのライドとか、やりたいことを自由にやらせてもらっていて、そのバックアップをしていてくれたのがAM3研の部長だった小口久雄(注37)さんなんですが、彼が過労でぶっ倒れちゃったんです。ご存知のとおり、小口さんっていつも明るくて、常にアグレッシブな人じゃないですか。
注37:セガサミークリエイション代表取締役社長CEO。プランナーとして数多くのプロジェクトに携わり、手掛けた作品は家庭用・アーケード・メダルゲームなど多岐にわたる。代表作は『スーパーモナコGP』、『ダービーオーナーズクラブ』など。
――そうですね。アグレッシブだし、ポジティブだし。
水口 ですよね。でも、そんな人でも、やっぱり売上のこととか、いろんな責任を負っていたんだなっていうことが分かって、これは何か貢献しなきゃマズイなと。そういう風に思ったのが大きかったですね。
――あ~~そういうことだったんですね。
水口 もちろん、ゲームっていうのは自分の中のやりたいことのひとつではあったけど、まだもうちょっと先かなと思ったりもしていたんですよね。「本当にオレ、ヒット作を作れるかなあ?」って気にもなったし。どれくらい売上を上げればいいんだろうみたいな話にもなって、100億くらい売れなきゃダメみたいな。100億なんて想像もつかない金額じゃないですか。
――でしょうね(笑)。でも、売上的には正しい数字だと思います。
水口 そうですね。まあそんないろいろがあったんですけど、自分の中でも火がついて。その頃に初めてテクスチャーをリアルタイムで貼れるモデルツールが出てきたんですよね。その性能を引き出しつつ、世界で多くの人に興味を持ってもらえるテーマは何かって考えたときに、パッと浮かんだのがラリーっていうジャンルだったんです。同じところをずっと走り続けるサーキットと違って、ありとあらゆる風景があって。車もいろんなステッカーが貼られていてカラフルで、沿道にもたくさんの人がいて。この熱さというか、パッションを3Dのゲームにできれば最高なんじゃないかと。
でも、スタッフは10人ちょっと……12人くらいで、ほとんどがゲーム開発の経験がない。しかも、全員20代。もちろん、佐々木建仁君(注38)は頼もしい存在でしたよ。彼は映像クリエイターで、しかも『リッジレーサー』(注39)の制作を経験したあとだったんで最高のパートナーでした。ただ、僕も含めて半分以上がゲームを作ったことがなくて、12人の漂流教室みたいな(笑)。
注38:株式会社ビットスター代表取締役。ナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)で『リッジレーサー』の開発に携わったのちセガに入社。『セガラリーチャンピオンシップ』のディレクターを務めた。
注39:ナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)が開発した3Dレースゲーでアーケード版は93年より稼働開始。翌94年にコンソール版が初代プレイステーションのローンチタイトルとして発売された。
未経験者ばかりだったが、それを言い訳にはしたくなかった
――大変な船出だったわけですね。
水口 ただ、未経験っていうのは絶対言い訳にしなかったですね。何か言われるたびに、「みんな最初は作ったことないじゃん」って。特に3Dは全員が初めてで、2Dとはやることが全然違う。だから、2Dのデザイナーやプログラマーで3Dに移行できない人はたくさんいました。そういう意味ではホントに1回クリエイティブがオーバーホールした状態だったんですよね。でも、そう考えると確かに黒川さんが言っていることが当たっているのかな? 僕は自分からよくリスクテイクをしてましたね。
――そうですよ。だって『セガラリー』のときも、「何かやってるよ」、「あの人ゲーム作んの?」みたいな声が回りでザワザワしてたんですよ。しかも、ラリーってというジャンルは当時まだ先行事例がなかったですからね。名越(注40)さんの『デイトナUSA』(注41)とかもちょっとジャンルが違ったじゃないですか。「ラリー、大丈夫か?」みたいな声はあったと思いますけど、なぜリスクテイクできたんですか?
注40:『龍が如く』シリーズの総合監督として知られるセガの名越稔洋氏のこと。
注41:アメリカのストックカーレースをモデルにしたセガの3Dレースゲームで名越稔洋氏がプロデューサーを務めた。
水口 鈴木久司さんがヨーロッパのCGとかVRとかのフューチャーテックをやっている企業を回っていたとき、カバン持ちみたいにしてついていってたんです。そのときヨーロッパをいろいろ回っているうちに気がついたんですよね。確かにF1は人気だけど、特別というか限られた貴族が限られた場所でやっているレースって感じだと。対して、ラリーは市販の車を最高にチューンナップして、町や村の中を駆け抜けていく。それに村中町中、国中の人がそれこそ子供からおじいちゃんやおばあちゃんまで、みんな熱狂するっていう。
あの感じって当時はまだよく知られていなかったんですよね。日本でも深夜にWRC(注42)とかテレビでちょっとだけやってましたけど、ほとんど誰も見てなかったんで。でも、市販の車が最高にチューンナップされてっていうのは、それこそ峠を攻めるような車好きの人たちとかに絶対刺さると思ったし、どうせやるんだったら新しいカテゴリーというか、レースジャンルを作ってしまえと。
ただ、たくさんの車を載せるられるわけじゃないですから、登場車種はその時のチャンピオンカーとひとつ前のチャンピオンカーに絞って、ランチア・デルタ・インテグラーレ(注43)とセリカ(注44)を選択したんです。で、初めて車のメーカーにタイアップのお願いに行ったんですけど、やっぱり最初は門前払いされましたね。「ゲームは子供のモノでしょって。車は大人のモノだからね」って。
注42:1973年より開催されているFIA 世界ラリー選手権の略称。正式名称は「FIA World Rally Championship」
注43:フィアットのランチャデルタHFインテグラーレのこと
注44:トヨタのセリカGT-FOURのこと
2Dゲームにはプロモーションの価値は無い・・・トヨタ自動車
――やっぱり言われましたか。
水口 ええ。2Dのゲームはなんのプロモーション価値にもならないって。でも、3Dリアルタイムの映像を見せたらトヨタの宣伝部長さんの顔色がちょっと変わって、「じゃあフィアットがオッケーしたらウチもやろうか」って言ってくれたんです。それで、フィアットがオッケーしてくれて。まあ、フィアットには「トヨタもぜひやりたいと言っています」みたいなことを言ったんですけどね(笑)
――ハハハハ、なるほどね。うまいことそれぞれ動かしたわけですね。
水口 ちょっと背伸びしただけで、ウソは言ってないですよ(笑)。でも、結果的にみなさんすごい喜んでくれて。ゲームがヒットしたおかげで車やラリーの宣伝にもつながったと思うし。いろんなレース会場にゲーム機が置かれて、チャンピオンドライバーとファンの人たちが本作を通じて交流するみたいなことも起こせたので。うん、すごい満足感がありましたね。ゲームってすごいなあって思いましたよ。こうやって人々を巻き込んで熱狂させてね。
そういえば、スペインの田舎のショッピングセンターで見かけたんですけど、1台の『セガラリー』を子供がハンドルを握って、横でお父さんがアクセルを踏んで、おじいちゃんがクラッチを操作していたんですよね。こういう遊ばれ方をするなんて想像もしていませんでした。きっとこの人たちは夜、食事をしながら、このゲームの話するんだろうなあって。
世界で評価されることとは・・・
――面白かったよね、みたいな。いい話ですね。
水 なんか羽田のビルのホント狭い開発室で作ってたのが、こうやって世界に出ていくってすごいなあと。けっこうその辺から(ゲーム作りに)ハマっていきましたね。そのあとも『マンクスTT スーパーバイク』(注45)や『ツーリングカーチャンピオンシップ』(注46)を作って。『セガラリー』に比べるとそんなバカ売れしたわけではないですけど、今から考えるとけっこうな売上で、当時のアーケードは勢いがありましたね。で、『セガラリー2』くらいから、ちょっと自分の中でいろんなものがまた動き始めて。ちょうどセガ自体もドリームキャストで動き始めた頃でしたよね。
注45:実在のバイクレースである「マン島TTレース」を題材にした体感レースゲーム。
注46:ドイツツーリングカー選手権(DTM)を題材にしたレースゲーム。
――そして、『スペースチャンネル5』の大ヒットですけど、やっぱりMTVへの思いとか、ミュージックビデオとゲームとの融合みたいなものを考えて企画されたのですか?
水口 もともとの原案は僕じゃないんです。あれは、僕の同期だった湯田高志君(注47)と吉永匠君(注48)の原案だったんです。
注47:1990年セガ入社。『スペースチャンネル5』のディレクターを務めたのち、ソニックチームで『ぷよぷよフィーバー』『ソニックライダーズ』などを手がけた。
注48:1993年セガ入社。『スペースチャンネル5』ではゲームデザインディレクターなどを担当。そのほかの代表作は『きみのためなら死ねる』、『赤ちゃんはどこからくるの?』など。
『スペースチャンネル5』は自分の企画ではない
――そうだったんですか。
水口 ええ。彼らが『スペースチャンネル5』っていうアイディアを持っていたんです。それで、試作のビデオを湯田君が僕に見せにきて、「プロデューサーをやってくれ」って頼まれたんですよ。そのときに自分が見たのは、すごくスレンダーなファッションモデルのような女性が……のちの「うらら」のような、キャラクタライズされた感じじゃない、もっとクールな女性レポーターが音楽に合わせて宇宙人を撃ったりやっつけたりするという。ゲーム的にいうと音楽にあわせてタップするとミュージックビデオが進行するっていうもので、ゲームというよりもインタラクティブなミュージックビデオという感じでした。
――なるほど、最初はそんな感じだったんですね。
水口 そのときは「ちょっと考えさせてくれ」って言って半年くらいかな。そのビデオをしょっちゅう見ながらいろいろ考えたんです。多分このまま作っても、うまくいかないだろう。やっぱりゲームとしてもっと面白くないと、どんなに映像や音楽がすごくても一瞬にして通り過ぎてしまう。でも、こういう要素をもっと面白くさせるためのゲームのメカニズムってなんだろうって。
もうひとつ考えたのは、クールだけじゃ人はついてこないだろうなあということです。そこに何かもっと別な新しさを入れなきゃいけない。そんなことを考えていたときに、「ミュージカル」の面白さに気づいたというか、目がいったんですよね。
ミュージカルってお話があって、そこに踊りがあって、笑いがあって、涙があって、最後にすごい幸せな気分になれる。あの面白さはどこからくるんだろうと。もちろん、マイケル・ジャクソン(注49)のミュージックビデオなんかにもそういう力はあるんですけど、そういう要素を高いレベルでゲームと融合させるためにはどうするか、みたいなことを考え始めたんです。
それで、なんとなく「これはいけるかな?」って思い始めて、じゃあ一緒にやろうかとなったんですけど、そのときにこう言ったんですよね。「オレ、けっこうゲームを壊しちゃうかもしれない。湯田君が今考えてる企画から変わっちゃうかもしれないけど、それでもいい?」って。
注49:キング・オブ・ポップと称されたスーパースター。セガのゲームの大ファンで、『スペースチャンネル5』への出演を自ら要望したという逸話はあまりに有名。
――おお~~。
水口 このとき湯田君が「とにかく世に送り出したい」みたいなことを言ってくれて。それで、湯田君がディレクターで、僕がプロデューサーってことでスタートしたんです。でも、すごいクールな最初の『スペースチャンネル5』から、今の『スペースチャンネル5』になるまでにはひとことでは言えない、いろんなことがあったというか、トライアンドエラーの連続でした。
とにかく、スタッフのマインドセットを変えるために、いろんなことをやりましたね。例えば、笑いの要素をどうやってゲームの中に入れるか。動きからくるものとかセリフからくるものとか、いろいろありますけど、世界中でいろんな人がプレイすることを考えると、あまり言葉の面白さには寄れないですよね。そうなるとボディランゲージとかゼスチャーに寄せるしかない。それで、スタッフを全員集めて、週に1回か2回ワークショップをやり始めたんですよね。知り合いのパントマイマーに先生になってもらって、プログラマーもデザイナーも企画も経理も全員会社の真ん中に集めて。
パントマイムを取り入れてゲームの真髄をブレックスルー
――そんなこともやったんですか!?
水口 やりました。半年間くらい繰り返しましたね。劇団の練習と同じですよ。
――それは知らなかったです。
水口 でもね、これが大きかったんです。これがなかったら、多分今の『スペチャン』になってないですね。面白いものは分かるけど、じゃあ面白いものを作ってくださいっていうと、みんな手が止まっちゃう。人が笑うっていう感情はどこからくるのか、どうやったら笑いが起こるのかってことはすごく重要だったんです。
で、そのパントマイマーの先生がですね、みんなの前で「ここに見えないガラスの扉があるとします。向こう側から走ってきて、このガラスの扉を突き破ってポーズを決めて、最後にひとこと言って、みんなを笑わせください」って突然言うんですよ。
――そんな課題が出るんですか。
水口 そう、みんなが体育座りしている中でね。それで、「誰からやってもらおうかな。じゃあ、言い出しっぺだから水口さんからやってください」とか言われて「え?」って。
――それは大変なことになりましたね(笑)。
水口 「ええ~~オレに返って来たの? ブーメランみたいに?」みたいな(笑)。でも、言いだしっぺですから、とにかくやったんですよ。バーッと走っていって、扉を破ったつもりで「バーン」とかって。で、たまたまその辺に「どん兵衛」が置いてあったんで「どんべえーー!!」とか言って、こうポーズを決めたんです。でも、みんな「はあ~?」、「全然つまんねえ~」みたいな顔をしているわけですよ。それで、シーンとなっちゃって(笑)。
――アハハハ、それはキツいですね。
水口 僕も「いや~、こんなの全然つまんないですよねえ」とか言いながら、すごい気まずい感じでいたんですけど、そのとき先生にこう言われたんです。
「水口さん、今のまんまで全然オッケーです。ただ、ひとつだけ。“どんべえーー!!”って言ってポーズを決めたら、そのまま15秒間、微動だにせず、止まってください」って。
それで、言われたとおり、もう1回バーって行って「どんべえーー!!」ってやって、今度は15秒間止まったんですよ。そうすると、10秒くらいからみんなこらえ切れなくなってクスクス笑い始めて、15秒ほど経つとゲラゲラゲラになったんです。それで、先生が「ね?」って。
『スペースチャンネル5』秘話…笑いとは緊張と弛緩
つまり、笑いっていうのは「緊張」と「弛緩」なんですと。緊張している状態があって、その緊張が解けたときに人間はよく笑う、と。今のでいうとポーズを決めたときに「あれ、コイツ本当におかしくなっちゃったのかな」とか、「なんか止まっちゃったなあ」とか思って、見ているほうが緊張する。で、その緊張のやり場がなくなって、リリースするために笑うという。これもひとつの笑いなんですと。
これを生理的、身体的なものに置き換えると、例えばすっごく寒い日に、温かい風呂に入って緩んだときに笑いますよね?これを生理的ではなくて、思考的な事例に置き換えると、例えば「なぞなぞなーんだ」、「え、なんだろ?」っていろいろ考えているときは緊張して真面目な顔になるけど、「分かった!」という瞬間に笑っている、あるいは「正解です」って言われたときに笑っている。どちらも緊張状態がリリースできたから笑うという行為に及ぶんであって、身体的な緊張と弛緩も、頭の中での緊張と弛緩も、実は同じことなんだよねってなったときに、みんなの中でこうパパパパっていう電気が点く感じが。
――はあ~~~そうか、そこかあ~。
水口 そうです。ということは『スペチャン』で笑わせるためには、キメとかタメが大事なんだなってことをみんな言い始めるわけですよ。「タ~ララ~ラララ、ラ、ウー!」ってところで、できる限り止めよう。キメとかトメの瞬間にどう笑わせよう、みたいな方向にみんなのトライアンドエラーが向かっていったんです。
――そこからつながっていったんですね。
水口 セリフの場合はどうかというのも、いろんな試行錯誤がありました。どういうときにうれしい、頑張ろうと思うかとか。うまくいったら音楽が盛り上がって、みんなで「イェイ!」っていうのはオッケーだけど、それだけじゃなんか循環性が足りないと感じてたんですよね。そのときにディレクターとの交信……あの声は湯田君がやっているんですけどね。その交信の場面で「よくやった!」ってほめられたり、「何やってんだー!」って怒られたりすると、ここでまた気分が動きますよね。で、怒られると意外にうれしいとか、楽しいっていうことが段々分かってくるんです。
特に女性の意見で多かったんですよ、怒られるとなんかちょっとうれしいって。それで、ああこれって『スチュワーデス物語』(注50)だ、みたいな(笑)。「お前はノロマな亀だあ!」って怒られまくるけど、最後にホメられるとすっごい感動するという。人間ってホントいろんな要素があるなあって思いましたね。で、そのいろんな要素について考え始めたときに、学生のときに出会ったマーヴィン・ミンスキーの『心の社会』とつながったんです。
注50:1983~84年にTBS系列にて放映された堀ちえみ、風間杜夫主演のテレビドラマ。ドジでおっちょこちょいなスチュワーデス(当時の呼称)訓練生が教官のスパルタ特訓に耐えながら成長していくというスポ根的展開やキャスト陣の大げさな演技が受け、一大ブームとなった。
怒られても、最後は褒められることが『心の社会』
――すごいところからつながりましたね(笑)。
水口 いや、ホントにつながっちゃうんですよ。人間ってなんだ、心ってなんだって考えると、そこにはいろんな欲求がある。その欲求からゲームデザインのことを考えたときに、「結局、ゲームって何を設計しているのかな」って考えるようになって。やっぱり人間の欲求を設計しているんだな、再設計しているんだなっていうところにいきついたんですね。
そうすると、今度はゲームデザインと人間の欲求の融合みたいなものをちょっと実験的に測り始めて。最終的に「うらら」というイコール自分である主人公は、どういう欲求を満たすためにこのゲームをやっているんだろう。一番の欲求は何だろうみたいな。そこで「宇宙で一番の人気者になる、宇宙一のレポーターとして認められる」っていうところにいくんです。
じゃあ、「認められたいのはなんで?」ってさらに分解すると、いろんな他の欲求が生まれてきて、それをまたさらに分解すると、そのためのアクションが見えてくるんですよ。「どうやったら人気者になれるの?」→「視聴率を取らなければいけない」→「視聴率を取るためにはどうすればいいの?」→「宇宙人を倒さなきゃいけない」みたいな。
そうすると、宇宙人を倒すことで、みんなが盛り上がって画面が華やかになっていけば視聴率が上がるはずだよな、とかなりますよね。この意識をスタッフみんなが共有できていれば、キャラクターたちが行進する場面で、デザイナーが「明らかに視聴率が上がるような盛り上がりを見せてくれよ」って言ったとき、スタッフたちも「分かりましたあ」みたいな話になるじゃないですか(笑)。
――ハハハハハ。そうですね、はい。
水口 もう、いろんなことが循環し始めたなあと思って。この『スペースチャンネル5』というプロジェクトの前と後で、自分たちの中の気づきのレベルは大きく変わりましたね。
――はぁ~~、いや、すごいですね。それが『Rez』につながるわけですか?
水口 いや、『Rez』と『スペースチャンネル5』はほぼ同時に作っています。多分、この時期は僕の人生の中で一番大変なときだったと思いますね。家にはもちろんほとんど帰らず、会社にずっと住み続けてるような感じでした。いっときたりとも他のこと考えたくなかったというか。しかも、『Rez』は何回も遭難しかかりましたからね(笑)。
「俺は絶対諦めねえからな!」発言
――この頃の日本テレビの特番『スーパーテレビ情報最前線』で、水口さんがスタッフに「俺は絶対諦めねえからな!」と、かなり強い口調で言っている場面があって、僕はそれがすごく印象に残ってるんですよ。
水口 ハハハハ、けっこう凄んでいるヤツですよね。あれはね、当時の僕の部屋です。夜中の2時か3時に『Rez』のディレクターの小林潤君と話をしていたんですけど、もう眠くて眠くて頭の中とかぐっちゃぐちゃだったんですよ。そんな中で、なんだったかなあ、なかなか面白くならない時があってね。
――そうだったんですか。でも、すごい強烈だったんですよね。「ああ、この人すごいなあ」って。あの番組を見ていた人はみんなそういう印象があるはずですよ。
水口 テレビの人はああいう場面を逃さないですよね。いや、あのドキュメンタリーを撮っている間もですねえ、8割、9割はみんな和気あいあいとやっているんですよ。もちろん、ああいうツライというかシリアスな場面もありますけど、それは残りの2割くらいです。
だから、僕からすると「え、こんな感じじゃないよね?」だったんですけど、ディレクターさんは「テレビ的にはこういうところを使いたいんですよね」って。そのディレクターとは今でも仲良しなんですけど、和気あいあいなところよりも、どれだけ苦労して大変な思いをしているかっていうところのほうが見たいと。まあ、確かにそうですよね。
――でしょうね。それは分かります。
水口 でも、夜中の2時とか3時にミーティングなんて今じゃ考えられないですね。今、僕が逆の立場だったら、「そんなプロジェクト入りません」って絶対言ってます(笑)。でも、当時はみんな若かったですからね。ほとんどが20代で僕も30代前半くらいで、もう楽しくてしょうがなかったです。あと、『Rez』と『スペースチャンネル5』を同時にやっていたから、多分アタマがおかしくならずに済んだんでしょうね。
――それはどういう意味でしょうか?
水口 『Rez』ってやっぱり本能的に深いところへ入っていくというか、そこを抜けないと作れなかったんですね。このビートに身体が反応して動く、その連続が気持ち良さを作って、それがトランス的な気分になるとか、何かを超越していく感じになるとかね。あるいは、それが映像と融合してっていうのは、かなりアブストラクト(抽象的)な世界じゃないですか。そのアブストラクトな世界を体験に変えるっていうのは、かなり苦しい作業なんですよね、
その作業は発掘とか海底のお宝探しにちょっと似てて、絶対にここには何かあるってことだけは分かっているんだけど、どこを掘ればいいのか分からない。「ここじゃない?」って掘ってみて、いろいろ実験するんだけど、なんか違うなあと。「じゃあ、ここ?」ってまたやってみて、「あ、ここに何かあるね」となっても、それで完成ではなくて、まだ何か足りない。何が足りないんだろうって、ずっと悩みながらやっていたので、ホントにもうスタッフも焦燥感にあふれていて。
でも、そんなときに『スペースチャンネル5』の方にいくと、みんな明るく楽しく「イェ~~」って感じで(笑)。それだけでなんとなく気分がね。同じ音楽をテーマにして作ってますから共通性もあるし。多分、スタッフ同士でもお互いに励まし合っていたと思います。つらいけど頑張ろうぜ、みたいな。だから、あのときはいろんな意味でちょっと奇跡のような状況で、今でもスタッフひとりひとりの顔が浮かんできますね。
みんながやり遂げていた素晴らしい時代
――よくやり遂げましたよね。あの時代に、そのふたつを。
水口 それを言ったら、みんなやり遂げていたじゃないですか。それこそセガの本社を見ると鈴木裕(注51)さんとか。小口さんも名越さんもそうだし。みんなやり遂げていたから、意地でもやり遂げないと恥ずかしくて羽田本社の会議に顔出せないみたいな感じがありましたね。
注51:株式会社YS NET代表取締役。『ハングオン』、『スペースハリアー』、『バーチャファイター』、『シェンムー』など、セガ時代に数々の伝説的作品を生み出したゲームクリエイターで、現在は『シェンムー3』を開発中。
――でも、本当に新しいものを次から次へと、ゲームという限られたエンターテインメントの中に表現してこられましたよね。僕はその頃にはセガにはもういませんでしたけど、水口さんがやっていることは見ていましたし、よくこうも今までのゲームとは違う斬新なものをプロデュースできるなって思っていましたよ。
水口 何でしょうねえ……最初のイメージはすごくぼやけているんだけど、「ここには何かあるぞ」っていう漠とした直感があって。実は何もないんじゃないかと、あきらめたくなったりもしましたけど、最初の直感は当たっていると思えるようになりましたね。その直感は間違ってなくて、あきらめなければいつか必ず答えとか方法を手にすることができるっていう。
最初の頃はそこまでいきつくのに、すごい時間がかかっていましたが、最近はその時間がだんだん短縮されていっているような気がするのは……いいことなのかな? もしかすると、よくないことなのかもしれませんね。
――それがよくないと思うのは、あまりにもいろんなものを感じすぎたとか、知りすぎてしまったということでしょうか。
水口 う~~~ん。いや、知りすぎて悪いことはないと思いますね。ただ、新しいイノベーションというか、何か新しいことを起こすためにはまたちょっと自分自身の居場所とか、そういうものを考えなきゃいけないタイミングに来てるのかなあっていう気がしています。
でも、ゲームっていうプラットフォームはやっぱり好きですね。世界中の人と「体験」でつながれる最大のプラットフォームでもあるし、そこで自分もいろいろ活躍できるっていうのは本当に幸せなことだと思っています。この先、他のこともいろいろ挑戦すると思いますが、これだけはやめられない感があります。
――時代的に言えば、今回偶然『Infinite』で水口さんのやりたかったことがまさに目の前に迫ったというか、実現できたという感じがしますが、ご自身としてはどうですか。
水口 それは正直あります。やっぱり、VRの登場は待ち望んでましたね。でも、これも始まりにすぎないですし、頭の中では5年後とか10年後のことがいつもよぎるというか、想像しています。みんなが喜んで何かをしているようなイメージとか、みんなで感動しているような光景とか。それはもちろんゲームだけの話ではないだろうし、僕らが想像もしないようなジャンルやプラットフォームが出てくるだろうなあと思いながら。ただ、自分の今の興味は共感覚的なものに変わっているので、そのテーマでいろいろ掘り下げていけたらいいなあとは思いますけどね。
――いいですね。PC版の『Rez Infinite』が出て。次はGoogleのDaydream(注52)という、いわゆるワイヤー(※接続するための結線)のない世界を考えられているようですけど、またさらに世界が広がるんじゃないですか?
水口 広がるでしょうし、そこからくる新しいインスピレーションもたくさん出てくると思います。VRってもちろんすごいし、みんないろんなものを作っていて、どんどん進化しているんですけど、まだ第一波だと思うんですよね。ARとかMRとかもいろいろ続いてくるでしょうし。
『Pokémon GO』もしかりですけど、ARやMRになると現実に存在しているものとの繋がりが出てきますよね。例えば、この部屋の空間の中でとか、あるいはそのペットボトルとか時計とか。もっと複合的にいろいろなものがいろいろな技術と結びついていって、VR、AR、MRの未来が始まるんだと思います。
注52:Googleのスマートフォン向けVRプラットフォーム。
――ますますやりがいがありますね。
水口:自分がどこまでやれるか分からないですけどね。でも、こういう流れの中で一緒にやってくれてるスタッフのみなさんも、いろいろ多岐にわたっていて、世代もどんどん広がっていってますから。
――水口さんもゲーム業界では年長の域に入ってきてると思うんですけど、若い人の知見とかそういったものに触れて感じるもののはありますか。
水口 ありますね。20代とかの若い人たちのレベルがどんどん上がっている気がするんです。同じ年齢でも20年前の25歳と今の25歳ではずいぶん違っていて、当然今の25歳のほうがすごくレベルが高い。で、そのレベルが上がるスピードがさらに速くなっている気がしていて、そういう意味ではあんまり年の差とかを感じないですよね。あるのは経験の差だけで、感性の差っていうのは実はほとんどないんじゃないかなあと思うことが多いですね。だから楽しいですよ。孤立感がないっていうか、仲間が増えたって感じです。
シナスタジア表現を極めたい
――それでは最後の質問になります。水口さんが考える、水口さんが次に作りたいと考えているのはどういうものでしょうか。
水口 う~~ん……なんて言うかな……あきらめが悪いのか、まだ満足できていないのか……。
――いや、あきらめが悪いのはよく分かってますけど(笑)。
水口 ハハハ、とにかく『Rez』、『Child of eden』(注53)とやってきたシリーズのその先。シナスタジア(注54)の3作目というのは自分の中ではすごい大きいテーマで、頭の中ではもう始まっています。今まで作ってきた『ルミネス』なども、シナスタジアの表現のひとつだと思っていて、あれも全然まだあきらめていないし、まだまだ進化させたいです。多分これはもうライフワークなんですね。
だから、ゲームの外でも来年からちょっと新しいチャレンジをしてみたくて。自分の残りの時間で何をやろうかなって考えたとき、やっぱりシナスタジアっていうテーマをすごく掘り下げたいんですよ。それはゲーム以外でもいろいろ……もしかしたらそれはアートかもしれないし、空間のデザインかもしれないし、あるいは全然違うエンターテインメントかもしれないし。うん、やっぱりそういうことをやっていきたいですね。それが全部つながっていくと思います。
注53:映像と音楽が五感を刺激する新感覚のシューティングゲーム。2011年にUbisoftから発売されXbox 360版はキネクト、PS3版はPS Moveでの操作が可能になっていた。
注54:文字に色がついて見えたり、音に味や匂いを感じたりするなど、通常とは異なる種類の感覚を生じさせる現象のことで「共感覚」ともいう『Rez』シリーズでは、この概念がコンセプトとして掲げられている。
――素晴らしいです。まさに「ザ・水口哲也」ですね。
水口:ホントですか!(笑)
――今日は貴重な時間を本当にありがとうございました。
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ご覧いただき、ありがとうございました。
写真提供:北岡一弘
編集協力:仁志 睦
出展:エンタメステーション
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