エンタメ異人伝 Vol.10 上田文人
映画などで表現できないようなものを表現しないと、ビデオゲームの意味がない
黒川――幼少期のお話からうかがいたいと思います。出身は兵庫県とのことですが。
上田 そうですね。兵庫県のたつの市です。
――どのような町でしたか?
上田 あんまり特徴がないというか、いたって普通というか。それほど都会でもないし、田舎でもないしっていうような感じです。
――当時、夢中だったものや、のちの上田さんにクリエイティブの部分で影響を与えたようなものはありましたか?
上田 小さい頃から絵を描くのが好きで、自分でも得意意識を持っていました。あと、父親がけっこう遊びの道具を作ってくれるタイプの人だったんです。近くで竹を切ってきて、それを削って竹とんぼにしたりとか、弓矢や吹き矢を作ったりとか。
――おお、そうなんですね。お父様はどういったお仕事をされていたんですか。
上田 モノづくりとは関係ない仕事ではあるんですけど、手先が器用だったんでしょうね。もちろん、オモチャも買ってもらったりしましたけど、そうやっていろいろ作ってもらったことの方が記憶にあります。それで、僕も見よう見まねで、少し危ないんですけど、武器みたいなものとか魚や動物を捕まえる道具とか作ったりしましたね。
――上田さんの作品を拝見していると、動物との触れ合いや人との繋がりみたいなものをすごく感じるんですけど、それはやっぱりそうした幼少期の体験がルーツになっているところはあるのでしょうか。
上田 いままで受けた取材やインタビューでも言っているのですが、昔からさまざまな動物を飼っていたので、そのときの記憶をもとに作ってるっていうのはありますね。ただ、それをテーマにしてきたという意識はありません。他の人が持っていない自分だけのモノを探していったときに、そういえば動物をたくさん飼ってたんで、動物の生態や動きみたいなものは他の人よりも詳しいだろうし、そういうものを表現したら、きっとそこで商品価値が出せるんじゃないかなあと考えて作ってきたというだけです。
――そうでしたか。上田さんの作品には言葉は交わせないけれど、人と人との繋がりや、人と動物の繋がりを感じさせるものが内在している気がしていて、僕はそう思っちゃったんですね。
上田 よくそう言われるんですけど、自分としてはこれまで遊んできたビデオゲームの好みや不満に感じたことなどを反映しているにすぎないと思っています。たとえば、たくさんテキストを読むようなゲームはあまり好みではないとか。あと、僕はもともと美術をやっていて、最初は食べていくための仕事としてゲーム業界に入りました。自分が持っているスキルを活かせるものは何かと考えたとき、当時はビデオゲームが最適なジャンルというか業種だったんです。だから、それまでやってきたアートや美術では表現できないようなもの、あるいは僕は映画も好きなんですが、映画などでは表現できないようなものを表現しないと、ビデオゲームという業種を選択した意味がないなってことを思っていて。そういう意識から今のような表現に繋がっているんだと自分では思っていますね。
作品は自分の一部を表現しているに過ぎない
――少し話を戻させて下さい。絵を描くことが好きだったということで、大阪芸術大学(大阪芸大)に進学されるわけですけど、もともと美術方面に進みたいというのがあったんですか?
上田 いえ、そうでもなかったですね。高校時代はデザイン科だったので、ファインアート、純粋美術よりも、どちらかというとデザインのほうが好きだったんです。ですから、あまり美術方面に進む、みたいな意識はなかったんですが、美術部にいたこともあって美術担当の先生が進学を勧めてくれたんです。
――高校卒業後はデザイン系の制作会社や代理店などへの就職を考えられていたと伺っています。でも、先生の勧めがあって、ちょっと道が変わったというか、より自分が表現できる方向にいったというわけですか。大学時代はどうでしたか? オートバイや野外活動をさかんにされていたというのを読んだことがあるんですけど。
上田 はい、あんまり真面目な方じゃなかったと思いますね。
――どんなオートバイに乗られていたんですか?
上田 そのときは中型免許しか持ってなかったので、原付と400ccのオートバイに乗ってました。オートバイは若い頃から、ずーっと乗り続けてますね。
――僕が上田さんに持っているイメージは絵を描いたりとかそっちのほうで、オートバイが好きというのは少し意外な気がします。
上田 そう思われているんだろうなあっていうのは自分でもなんとなく感じています。そういった自分が作ったモノのイメージで見られがちなんですけど、それはあくまで自分の中の一部分を表現しているにすぎません。普段はオートバイに乗ったりしますし、ゲームでいうとファーストパースンシューティング(FPS)とかもやったりします。
――授業などに関してはあまり真面目な学生ではなかったということですが、なぜでしょうか。
上田 大学に入るまでは具象絵画(注1)っていうのをやってたんですね。ところが僕が進学した大阪芸大の美術学科は、抽象絵画(注2)というか、自分の内面にあるものを表現するみたいな、テクニックというよりももう少し感性に寄った表現を推奨する学科だったんです。でも、僕は高校ではデザイン科だったこともあって、自分の内面にあるものを表現するっていうことをあんまりしたことがなかったんです。それで、ちょっと空回りするというか、最初はあまり楽しくなかったんですね。そういうこともあって、学校の授業に関してはあまり真面目じゃない学生になっていったのかなあと思います。
注1:対象物を具体的、具象的に描いた絵画を指す。いわゆる抽象絵画の対概念的な用語。
注2:具象絵画の対概念的な用語で、対象物を見た目にとらわれず独自の視点で描いた絵画を指す。ピカソのキュビズムなどが有名。
インベーダーゲームが家にあったのを覚えています
――とはいえ、大学時代や青年時代は得るものがすごく多かった時期だったでしょうね。AMIGA(アミーガ)(注3)を買われたのはその頃ですか?
上田 そうですね、技術一辺倒ではなくて今のゲームデザインに繋がるコンセプトを考えたりや企画提案することはその時得た経験が大きいと思います。ただ、AMIGAを買ったのは大学を卒業してからですね。僕が大学生の頃はまだコンピューター自体がさほど普及していなくて。唯一、学校にあったのもモノクロのマッキントッシュで、授業で選択すれば週に1時間使えますとか、そのくらいでしたね。
注3:1985年に発売されたコモドールのパーソナルコンピューター。強力なグラフィック機能が欧米で人気を呼び、映像や音楽編集などに広く利用された。ゲーム機としても人気が高く、『レミングス』などが話題を集めた。
――ゲームと出会ったのはその頃ですか?
上田 もっと前です。任天堂のファミリーコンピューターが出たのが中学生のときですから。
――そうでしたか。ゲームとの最初の出会いはいつ頃になりますか。
上田 実家が喫茶店で、当時の喫茶店ってゲーム機を置いてたんですね。インベーダーゲームが流行ったとき(注4)、店にあったのを覚えています。ただ、家にあるからといって好き勝手に遊べるわけではなかったです。やってみたのも1回だけで、確かあんまりいい点数を取れなかったんですね。それで、アーケードゲーム、特にシューティングゲームに対する苦手意識みたいなものが芽生えてしまいまして。
注4:いわゆるインベーダーブームが起こったのは1978年で上田氏が7~8歳くらいの頃。
――そうだったんですか。
上田 あと、あまり見返りがないものに、お金を使うってことに抵抗があったというか。近くにドライブインがあって、そこにアーゲードゲームがたくさんあったんですけど、そういったものはやらずにクレーンゲームばっかりやってました。何か景品が出てきたりするのであればやってみようと思うんですね。なので、当時流行っていたアーケードゲームは実はあんまりやってないです。自分の中で遊んだ記憶があるのは任天堂の『パンチアウト!!』(注5)やATARI[1] [2] の『STAR WARS』くらいです。
注5:ボクシングのチャンピオンを目指して、タイプの異なるさまざまなボクサーたちと戦うボクシングゲーム。アーケード版は主人公がワイヤーフレーム表示だった。
僕はセガが大好きで…
――家庭用ゲームにどっぷり向かい合った時期っていうのはあったんですか?
上田 これもいろんなところで言っているんですけど、僕はセガが大好きで。初めて買った家庭用ゲーム機はセガ・マークⅢ(注6)だったと思います。『スペースハリアー』(注7)がやりたかったんですよね。
注6:1985年にセガが発売した家庭用ゲームハード。セガの人気アーケードゲームが多数移植され、多くのセガマニアを生み出した。
注7:1985年に発売されたセガのシューティングゲーム。疑似3D的な画面構成や操作に連動して稼働する体感型の筐体などが人気を博した。
――それはうれしいですねえ。ありがとうございます。
上田 当然、そのあとにファミコンだったり、ディスクシステムだったりを買って、いろんなゲームを遊んでいったんですけど『パンチアウト』や『スペースハリアー』は単に面白いゲームというよりは、そこに奥行きのある世界があって、そういうゲームを好んでやっていましたね。
――その当時の年齢でゲームがかもし出す世界観なりに感情を持つっていうのは、ずいぶん大人びている気がします。10代前半だと何かを壊すゲームとか、何かを達成する喜びみたいなものを優先しがちじゃないですか。
上田 振り返ってみると、世界観というような言葉に置き換えられるんでしょうけどね。当時は先ほども言ったクレーンゲームじゃないですけど、自分のお金を投資する対象として、それに見合った体験ができるのかどうかを気にしていました。『パンチアウト』はワイヤーフレームで今の3Dゲームの主観視点に近くて、シミュレーター的な印象がありましたから。『スペースハリアー』も同じで、そこにある世界に触れてみたい、体験してみたいということから、お金を入れてもいいんじゃないかっていう風に感じてたのかなあと思います。アーケードゲームに関してはそういう視点で見てましたね。
――家庭用ゲームで何か当時印象に残っているものはありますか?
上田 ディスクシステムが好きでしたね。何が好きかって言われると説明が難しいんですけど、ロムカセットの変化しない固い世界よりは書き換えができたりとかセーブ領域がたくさんあったりとか、そういうところにロマンを感じてたのかなあと思います。ディスクシステムのゲームでは『ゼルダの伝説』はもちろんとして、[3] 『スマッシュピンポン』(注8)が好きでしたね。コナミの『ピンポン』を任天堂さんが権利を買って出してたゲームだったと思うんですけど。
注8:コナミの『ピンポン』の移植版で1987年にディスクシステム向けに発売された。フォアとバックなど多彩な打ち分けが可能で本格的な卓球を楽しめる。
ソニーが主催するアートコンペで入賞
――大学卒業後はどうされたのでしょうか。やはりデザイン系の会社に就職されたとか?
上田 大学を卒業したあとすぐには就職せずに、個人で美術の活動をしていました。
――就職はしなかったんですね。
上田 そうなんです。当時の美術系の学科ってごく一部がゲーム会社に就職して、あとは美術の先生になるっていうのがパターンで、それ以外はあんまり進路がなかったように記憶してます。こんなこと言ったら学校に怒られるかなあ(笑)。
――就職しなかったことに対して焦りはなかったんですか?
上田 自分的にはあんまり焦りはなかったですね。いくつかアルバイトをしながら美術の活動をしてました。そうしたときにソニーが主宰するアートコンペで入賞したんです。それまでの人生の中で玄人にきちんと評価されたっていうのは、それが初めてだった気がしますね。
――明和電機(注9)さんや、新規性の高いアートが多く輩出したコンテストですよね。そのときはどういうものをお出しになったんですか?
上田 動物がテーマになってる作品でしたね。美術作品って、かけたお金以上の価値を作り出す、っていうのが基本なんですけど、僕らが作ったのは制作費よりも断然安く見えるような表現で。田舎の軒先にある、ニワトリを飼っているような古びた汚い小屋っていうんですかね、そういうものを作ったんです。わざと汚したりとか、錆びさせたりとか、あえてボロボロの材料を使ったりとかして。それで、その中に機械仕掛けのいろいろな仕組みを入れて、センサーだったり外から操作したりすることによって、その中にさも動物がいるような気配を醸し出す、みたいな作品でしたね。
注9:土佐信道、土佐正道兄弟を中核とする中小電機メーカーを模した現代芸術ユニット。
――はあ~~~(感心)。
上田 なぜ、そういう表現を選んだかっていうと、小難しい美術表現じゃなくて、誰もが興味を持ってくれるものにしたかったんです。そういうものってなんだろうって考えたときに、ペットショップや動物園で、大人から子供まで動物に釘付けになっているのをよく見るじゃないですか。それで、僕は動物に詳しいということもあって……まあ、さっき言った話に近いんですけど。
――その作品は写真とか残っているんですか?
上田 残ってますね。[4]
普通のゲーム会社に就職するのはイヤだった。ワープ、セガAM2研志望
――ぜひ見てみたいですね。そのあたりから今度はコンピューターに傾倒していったわけですか?
上田 そうですね。ちょうど同時期に、さっきお話したAMIGAを買って独学でCGを学びはじめたんです。ただ、あくまで美術表現に使いたいというのが理由でした。ビデオアートみたいなものの先駆けというか、そういうもので美術表現をやっていけば、新しい可能性があるんじゃないかなあと。それで、AMIGAを買ったはいいんですけど、自分がもともと好きだったゲームだったりアニメーションだったり、そういうものにどんどんのめりこんでいってしまって。
――ハハハハ。就職しようと思われたのは、何がきっかけだったんですか?
上田 同時期に、さっきお話したソニーのコンペで入賞したんですけど、まだ大阪に住んでいたこともあって、なかなか収入に繋がらなかったんですよね。それで、ちゃんとしたフルタイムの仕事をしようということになって。じゃあ何がいいかって考えたときに、ビデオゲームの世界だったら自分のやりたいことをこう……それほど抑える必要なく、楽しく仕事できるんじゃないかなあという。
――ビデオゲームといってもプログラムもあればグラフィックもあれば企画もありますけど、そこは最初からグラフィックでと考えられていたんですか。
上田 そうですね、そのときは自分がゲームデザインをするなんて発想もまったくなくて、3DCGやCGアニメーションとかだったらできるんじゃないかなということで。とはいえ、美術をやってたんで何かこう……普通のゲーム会社に就職するのはイヤだっていうのも内心あったんです。なので、就職したこともない人間にも関わらず、その当時脚光を浴びていたワープ(注10)とかセガのAM2研(注11)とかに行きたいなと。
注10:1994年に飯野賢治が設立したゲーム開発会社。代表作は『Dの食卓』、『エネミー・ゼロ』、『リアルサウンド 〜風のリグレット〜』など。
注11:『アフターバーナー』、『スペースハリアー』、『バーチャファイター』シリーズなど数多くの人気作を生み出したセガの開発分室「第2ソフトウェア研究開発部」の通称。
――おお、そんなことを考えられていたんですか(笑)。
上田 淡い期待を持ってましたね。
――セガにはエントリーされなかったんですか?
上田 しなかったですね。当時のセガは中途で採っていたんでしょうか。
――採ってましたけど、どちらかというと新卒のほうが多かった気がします。
上田 そうですよね。そういう求人を見た記憶がないので。
僕がワープについて話すのはちょっとおこがましいかなと思って…
――ワープは「ファミ通」の広告を見て応募したっていう話は事実ですか?
上田 事実です。「ファミ通」の広告でしたね、うん。
――どのようにしてエントリーされたんですか。自作のポートフォリオみたいなものを送ってみたとか?
上田 そうですね。当時は独学でCGをやっていたんですが、もっとCGを作れる時間を増やしたいっていうのがありまして、大阪日本橋の小さなCGプロダクションでアルバイトをしていたんです。社長の趣味みたいな範囲でやってるCGプロダクションだったんですけどね。そこの機材を使ってコツコツ自分の作品を作ってたんですが、それがある程度まとまったタイミングと「ファミ通」でワープの求人を見たタイミングがちょうど一致して、それをビデオに撮って送ったのがきっかけですね。
――すぐに返事が来たと聞いていますが。
上田 そのとおりです。それで面接に行って、すぐに来てくださいって話になって。東京で住む部屋とかもワープが準備してくれました。当時のワープは恵比寿の駅前にあったんですが、そこから徒歩で5分ぐらいのところに。
――そんな近くにですか。
上田 はい。仕事どっぷりの日々だったんで、すぐに帰って寝て、またすぐに来れるようにっていう考えがあったんだと思うんですけどね。
――当時のワープはどんな会社でしたか?
上田 僕が入社したときはまだ社員が16人しかいなくて、男ばかりでしたね。
――ワープに関しては、これまであまり、当時の仕事の話をされていないような印象を受けるんですが。
上田 そんなことはないんですが……僕がワープについてあまり話さないのは、振り返ってみたら実はそれほど在籍期間が長くなかった、っていうのもあって。
――1年半くらいですよね。
上田 そうですね。もっと長くいた同僚もいるんで、僕がワープについて話すのはちょっとおこがましいかなと思って。でも、楽しかったですね。初めての東京だったし、お金をもらってクリエイティブな仕事をする、モノを作っていくっていうことも初めてだったんで。ワープは当時のゲーム業界の中では、特にとんがった表現をしていたと思うんで、そういうのも楽しかったですし、文化祭みたいなノリに近かったと思います。
――上田さんの好みだったり、今まで遊んできたものに会社のテイストが近かったんですかね。『Dの食卓』(注12)であったり、開発に参加された『エネミー・ゼロ』(注13)もそうだったと思うんですけど。
さまざまなトライが可能だったワープ時代
上田 それらの作品は『MYST(ミスト)』(注14)などから影響を受けて、BGMがあんまりないとか、パズル要素が強いとかそういう表現を選んでたと思うんですが、僕もその影響を受けた部分があったんでしょうね。僕がのちにに作ったタイトルもパズル要素が強かったり、環境音だけで何かを表現したりしていますが、「あ、こういう表現も可能なんだな」とか「こういう表現で喜んでくれるお客さんがたくさんいるんだな」っていう風に認識できたのはワープ時代があったからだと思いますね。
注12:1995年に3DO向けに発売されたインタラクティブ・シネマ。謎の古城からの脱出を目指すというアドベンチャータイプのゲームで、当時としてはまだ珍しかったフル3Dによる画像や映画的な演出が人気を博した。
注13:1996年にセガサターン向けに発売された、宇宙を舞台にしたホラーアクション。敵であるエネミーの姿が見えず、音を頼りに敵の位置を探知するという斬新なシステムが話題を呼んだ。
注14:ミスト島と呼ばれる謎の島を舞台に様々な謎に挑んでいくパズルアドベンチャーゲーム。疑似的な3D世界や実写テイストの美麗な画像は当時としては非常に斬新で、のちのゲームに多大な影響を与えた。
――飯野賢治さん(注15)はいろいろ強烈なエピソードをお持ちの方ですが、一緒にお仕事をしてみてどうでしたか。何か影響を受けたところはありますか?
上田 もともとメディアにたくさん出られていた方で、大阪に住んでた僕からすると、東京で第一線で仕事をしているっていうだけですごく遠い存在だったわけです。でも、実際に会ってみると、何て言うんでしょうね……言葉にするのは難しいんですけど、考えていることや、使っている道具がそんなに違っているわけではないんだっていうところに勇気づけられたというか。自分もゲームを作ろうと思う、きっかけになった感じはしますね。
注15:『Dの食卓』『エネミー・ゼロ』などを手がけたゲームクリエイター。独自性の強いチャレンジブルな作品を次々に生み出し、マスコミへの露出も多かったことから時代の寵児となった。2013年2月に死去。
飯野さんとの仕事が自分の進路を決定づけた
――遠くからだとすごい天才性が見えるけど、実際に近くに寄ってみたら自分とそんなに変わらないんじゃないかと。
上田 そうですね、同じように苦労したり、同じような悩みを抱えたりしながらモノを作っている。お客さん側だったときは、ゲームに限らず商業作品っていうのは、常にベストの選択をしているというか、レベルデザインにしてもグラフィックにしてもシナリオにしても、これ以外ないっていう突き詰めたものを提供しているんだ、って感じてたんですけど、必ずしもそうではないと。締め切りがあるからこうなってしまったとか、たまたま偶発的にこういう表現になりましたってことがたくさん含まれていてもいいんだと。むしろ、そういうものが結果として優れたものになってるっていうことを肌身で感じられたっていうのは、その後の自分の進路みたいなものを決定づけたというか、すごく大きかったと思いますね。
――そうしたことは何百人もいるような大きな会社やプロダクションであったら、なかなか感じにくかったかもしれないですね。『エネミー・ゼロ』のオープニングを見ると、上田さんはじめ3人の方でCGの部分をやられているじゃないですか。そうしたコンパクトな人数でダイレクトな仕事ができたことが大きかったんでしょうね。
上田 確かにそうかもしれませんね。それまでは特別な人や特別なところが作っていて、とても自分にはできないと思っていたんですよ。それはワープだけに限らず、これまで自分が尊敬してきた人もきっとそれほど特別な人では無いんだろうと。
――今は逆にそう見られている立場ですよね。でも、上田さん自身も特別な存在ではないと。みんなと同じように苦しんだり悩んだり、いろいろありながら作っておられると。
上田 まさにそのとおりですね。自分も含めてみな試行錯誤しながら作っていて、それが偶然評価されたり、そうじゃなかったりって…ことをやっているんだと。それを実際に現場で体験できたから、自分もゲーム制作にチャレンジしてみようかなって思えたというのはありますね。
――それらを体験したことによって、自分でもできるんじゃないかという気持になれたということですね。それで、ワープをお辞めになったわけですか。
上田 そうですね。自分の作品と呼べるものを作りたいと。ワープにいる限りは飯野賢治さんの作品を手伝う、サポートするっていう形ですから。それはそれで楽しかったんですけどね。飯野さんは僕に対してすごく気を遣ってくれて、同い歳ってこともあって、「上田さん、飯野さん」みたいな間柄でしたから。社員旅行で海外に連れていってもらったりとかしましたし。
主人公が「ローラ」だから「オーロラ」を見にいった
――確か社員全員でオーロラを見に行きましたよね?
上田 アラスカですね。そうそうそう、アラスカ行きましたね。
――アラスカでしたか。確か、白は白でもいろんな色の白があるんだから、それを経験するためにオーロラを見に行くっていうのを何かのインタビューで読んだ記憶があります。
上田 『Dの食卓』が終わって『エネミー・ゼロ』を作るってときで、主人公がローラ(注16)って名前だからダジャレ的にひっかけてっていうのもあったと思います。
注16:『エネミー・ゼロ』のヒロインである金髪の美人女性。『Dの食卓』シリーズでも主人公となっており、ワープ作品を象徴するキャラクターだった。
――そういう理由もあったんですか(笑)。
上田 だと思います。結局、オーロラは見られなかったんですけどね。でも、楽しかったですよ。今は仕事でいろいろ海外にいったりしますけど、初めての海外だった社員旅行のアラスカが一番楽しかった記憶がありますね。
――すごくいい時代に、いい場所で、いい経験をされたんですね。
上田 そうですね。それで、1年半くらい働いて、そこそこ収入が増えて貯金もできたので、だったら半年から1年くらいは自分の作品作りに没頭できるんじゃないかなと。で、ワープを辞めて、コンピューターを買い込んで作り始めたのが『ICO』だったんですよね。
――でも、よくひとりで始めようと思いましたね。
上田 いえ、最初はふたりでした。同じくらいのタイミングでワープを辞めた人間が何人かいたんですけど、その中のひとりと一緒に。でも、そうしていると、またお金が尽きてきてみたいな。
「バーチャファイター」とソニーコンピュータエンタテインメント(SCE)
――その頃にSCE(現SIE)のほうから、どうですかって話になったんですか?
上田 退社してパソコン買って自主制作(今でいうインディー)を始めたタイミングで、ちょうどインターネットが普及し始めたので、個人でホームページを作ったんですね。そこで自分が作ったCGだったり作品を公開していたんですが、そうするといろいろお声がけしてくれる人たちがいて、その中に当時のSCEのCGアーティストがいたんです。そういえば、黒川さんもご存じの寺田克也さん(注17)ともホームページで知り合いました。当時、今もですけど『バーチャファイター』(注18)が大好きだったんです。『バーチャファイター』繋がりでできた人脈っていうのもけっこうあるんですよ。
注17:『バーチャファイター2』や『探偵 神宮寺三郎』シリーズなどのキャラクターデザインを手がけたイラストレーター、漫画家。
注18:1993年にセガから発売された世界初の3D対戦格闘ゲーム。ポリゴンで描かれた3Dキャラクターのリアルなアクションは当時のゲームファンに大きな衝撃を与え、ゲームの3D化を一気に推し進めることとなった。
――そうだったんですね。ありがとうございます(笑)。
上田 それで、寺田さんに作った画像を送って直接意見をもらったりしていたんですね。こんな角の生えたキャラクター考えているんですけど、どうですかねとか。当時はまだ『ICO』って呼んでなかったな。タイトルはなかったんですけど、今のような世界観のものを作っていたんですね。
――そんなこともされていたんですね。すいません、存じ上げなかったです。
上田 そんな時に、たまたまワープで使っていた「パワーアニメーター」っていうCGツール、今でいうMaya(マヤ)(注19)なんですけど、それを使える人をSCEが探していて、アルバイトだったか業務委託だったかな? とにかく、そういう話をもらったんです。僕の方もそろそろ貯金が尽きそうだったし、自分の作品を作りながら働けて、ある程度収入が期待できて、かつ自分のスキルも磨けるような仕事だったので面接に行ったのが最初です。
注19:ハリウッドをはじめ、映画やゲームなど映像制作の現場で広く使用されているプロ仕様のハイエンドCG作成ソフト。
――先方は『エネミー・ゼロ』に関わった上田さんとは分かっていたわけですよね。
上田 そうでしょうね。初めて行った面接で佐藤明さん(注20)とか……吉田修平さん(注21)もいたのかな?
注20:SCE設立メンバーのひとり。プレイステーション事業の立ち上げに深く関わり、SCEの営業、内部開発ソフトの責任者などを務めた。
注21:佐藤明氏らと共にSCEの設立に参画。現在はSIEのゲーム開発事業の責任者でワールドワイド・スタジオ プレジデントを務める。
ワープを辞めた人間に興味があった…?
――それ、もう決まりというか、来てくださいっていう面接じゃないですか(笑)。
上田 いや、来てくださいというよりも多分ワープ……当時ワープってセガサターンで、いろいろ話題を呼んだじゃないですか(注22)。そんな会社を辞めた人間ってどんなヤツなんだっていう興味があったんじゃないんですかね。
注22:当初『エネミー・ゼロ』はプレイステーションで発売される予定だったが、飯野賢治氏はSCE主催のイベントである「プレイステーション・エキスポ」にて唐突にセガへの移籍を発表。世間を大いに驚かせることとなった。
――でも、ちゃんとスタッフロールに載っている方だし、その人が今フリーでやっているってなったら、それは何か一緒に作れそうだと思うんじゃないですか?
上田 う~ん、どうだったかは分かりませんが、ワープじゃなければそういう風にはならなかったのは確実でしょうね。ただ、元ワープなんですということは、あまり自分では言いたくなかったというか、元ワープっていう冠で何か仕事を取ったりしたくないってのは当時ありましたね。やっぱり作ったもので評価されたいっていうのが強くあって。当時は「LightWave3D」(注23)っていうCGツールを使って自作のCGを、さっきも言った自分のホームページで発表していて、それもそこそこ評価されてはいたんですけど、そのLightWave3Dをうまく使いこなす人っていうのも満足できないというか。やっぱり自分が作った作品メインなのが理想なんじゃないかなと。
注23:ゲーム、アニメ、CMなどの制作に広く利用されている3DCGソフトウェア。操作がシンプルで価格も比較的安価であることから個人での利用も多い。
機材と場所を用意するからSCEで作ったらどうか?
――なるほど。
上田 で、SCEに面接に行って『エネミー・ゼロ』を作ってましたみたいな話をしつつ。じゃあCGの仕事をどうですかって言われたんですけど、いやワープを辞めたのも自主制作、インディーで作品を作りたいがためなんでフルタイムは無理です、週に何日かだったら来れますっていう話をしたんです。でも、SCEとしてはフルタイムが希望だったみたいで、だったらそのためのパソコンとか買うし、場所も用意するからSCEで作ったらどうですかって(佐藤)明さんに言われて。おいしい話だと当時は思ったんです。
――それはおいしい話でしょう。
上田 おいしい話なんですかね。だってゲームを作れるかどうかはまだ分からなかったですし、今考えてみると”青田刈り”みたいな感じですよね。そういえば、仕事場所が青山一丁目の山勝ビルっていうところで、隣が山内一典さん(注24)率いる『グランツーリスモ』のチームだったんですよ。確か、『1』を作ってた頃……『モータートゥーン・グランプリ』(注25)の後だったと思います。その頃に『ICO』の企画について山内さんと元セガの鶴見六百さん(注26)たちに意見をもらったのを覚えていますね。僕はゲームを作ったことがない……ワープには所属してましたけど、やってたことはゲームデザインに関わるところではなくて、あくまでCGムービーの演出やアニメーションの部分ですからね。そんな自分の考えている企画がどうなのかっていうのを。
注24:『グランツーリスモ』シリーズのプロデュサー。現在はゲームソフト開発会社であるポリフォニー・デジタルの代表取締役プレジデントを務める。
注25:カートゥーン調で描かれたキャラクターたちが登場する3Dレースゲーム。1994年にプレイステーション向けに発売された。
注26:セガ、SCEなどで活躍したゲームクリエイター。SCEでは『クラッシュ・バンディクー』シリーズや『ラチェット&クランク』シリーズなどの日本側プロデューサーを務めた。
――それで、どう言われました?
上田 悪くはなかったと思います。特に山内さんからは、いいコメントをもらえたのを覚えてますね。
――それは、いわゆる映像プレゼンみたいな形だったんですか?
上田 最初に映像を作っているはずなので、映像と企画書を見てもらったんじゃないかと。自分でいうのもなんですけど、映像としては当時のCGレベルよりも高いものが作れていたと思います。なので、今振り返るとゲームの企画やアイディア云々というよりも、映像表現だったり演出の部分で説得力を持たせられたのかなあと思いますね。
――SCEに入られたのは「ゲームやろうぜ!」(注27)(※)とか、SCEがゲーム制作に興味がある人たちに広くトビラを開けていた時期ですかね。
注27:SCEが1995年から1999年にかけて実施したクリエイターオーディション。新たな才能を持ったクリエイターの発掘を目的としたもので、プレイステーションフォーマットのソフト制作環境を提供するなど広く門戸を開放。『どこでもいっしょ』や『XI[sai]』などの斬新なタイトルが生み出された。
僕はどっちかというとセガの方が好きだったんで(笑)
上田 そのちょっと前ぐらいですかね。ただ、僕はどっちかというとセガの方が好きだったので(笑)。
――ありがとうございます……って僕が言うのも変ですけどね(苦笑)。
上田 当時のプレイステーションってコアゲーマーからするとファミリー向けというか、もう少し広い大衆向けのゲーム機っていう印象でしたからね。プレイステーションが100万台いけるぞ、みたいな頃よりもうちょっと前の時代で、『パラッパラッパー』(注28)とか『IQ』(注29)とかまだ出ていなくて。こんなことを言うとアレですけど、尖ったゲームが少ないな、っていう印象でした。ですから、「ホントはセガの方がいいんだけどな」みたいな気持ちで面接に出向いたのを覚えてますね(笑)。それで『ICO』の原形となるものを作っているあいだに、プレイステーションの方がグググっと伸びてきて。「へええ~、そうなんだあ」って感じで見てましたね。
注28:ミュージシャンの松浦雅也氏、クリエイターの伊藤ガビン氏らが手がけた1996年発売の音楽ゲーム。いわゆるリズムアクションゲームの元祖というべき作品で、ペラペラなキャラクターやポップなグラフィックなども話題を呼んだ。
注29:迫りくる巨大なキューブを消していく1997年発売のパズルゲーム。スタイリッシュな3D空間が舞台になっていてアクションゲーム的な要素をあわせ持つなど、従来のパズルゲームと一線を画す斬新な内容で人気となった。
――そのときはもうすでにSCEの社員になられていたんですか?
上田 最初に自主制作で作りたいって言ったときは3カ月契約でしたね。とにかく3カ月で自分の作りたい映像を作りますということで、機材とか買ってもらったんですけど、結果として4カ月くらいに伸びたのかな? それで、完成したものを見せて、じゃあそれをゲームにしましょうって話になったときに社員になれって言われたんです。僕は自由度がなくなるんじゃないかと思って頑なに拒んでたんですけど、それじゃあゲームを作るスタッフは貸せないみたいな話になったので、しぶしぶ「分かりました、じゃあ社員で」っていう形に。そこからゲーム制作がスタートしたという感じですね。
大阪芸大卒がたくさんいるチームだった
――社員になったと同時にスタッフィングもされたわけですか?
上田 はい、9人くらいだったかな。今はもう記憶がさだかではないですけど、少人数でスタートしました。人がいないんで僕の大学時代の友人たちも引っ張り込んだりして。たまたま大阪芸大の同期が社内にいたという偶然もあったりしたので、大阪芸大卒がたくさんいるチームだったですね。
――『ICO』を作り始めたとき、自分の中ですでにゲームのイメージみたいなものは、かなりあったんですか?
上田 最初はゲームっていうイメージがあんまりなくて、とにかく物語性があるものを作りたいと。ただ、いきなり映画を1本まるまるっていうのは……当然CG前提ですが、当時のPCのスペックを踏まえると不可能だと思ったんですね。ですから、まずは何かしらのパイロットムービーっていうんですかね。その世界を切り取った映像を作れば、いかようにもできるんじゃないかと考えて、それが結果的にゲームになったわけです。なので、ぼんやりゲームになればいいなっていう考えはあったかもしれないですけど、ゲームデザインとしてしっかりとした骨子があったかと言われるとそれはなかった気がしますね。
――僕が思うに上田さんはビジュアルや世界観などがまず先にあって、それをプログラマーとかスタッフたち伝えて作ってもらうポジションというか、ある種ディレクター的なポジションだと思うんですけど。
上田 そうですね。
紙ではなくて実際にCG映像として提示できたっていうのがよかった
――だとすると、周りを動かすために上田さん自身の持っているビジョンを明確に見せることが重要になると思うんですけど、そのあたりはどのようにされていたんですか?
上田 今は少し変わってきてますけど、やっぱり作って見せられるっていうことができていたのが大きかったと思います。実際にキャラクターモデルを動かして、コリジョン(注30)と接触したらこんな動きにしたいんですとか。エフェクトにしてもそうですし、レベルデザインにしてもそうですし、こういう風にしたいんだというのを、紙ではなくて実際にCG映像として提示できたっていうのがよかったのかなあと思いますね。
注30:モデル同士が衝突したときの挙動をシミュレーションする機能のこと。
――でも、それはすごく時間がかかって大変じゃありませんか? もちろん、絵コンテだって絵心がいるし、書くのも大変ですけど、こういうシーンがこうなってカットインしてこうなるっていうのを動画で見せるとなると、すごく労力がかかる気がします。
上田 それが実はそんなに大変ではなくて。もちろん、現代のゲームグラフィック表現で、こういう風にしたいんだというのを最終形に近い形で提示するとなると、やはりそこそこ時間がかかると思います。でも、当時のゲームのグラフィックってのはポリゴン数も少なかったですし、使えるテクスチャーのサイズも小さかったんです。レンダリングも早くて、ホントに片手間でできてしまうものでした。それに自分はすごくせっかちなところがあって、手が早いのでサクっと作ってサクっと見せてっていう。それでも、なかなか伝わらないのが現実なんですけど、紙に書いたり言葉で説明するより、ずっと正確だったっていうのはありますね。
――『ICO』に関しては最初から、ゲームの最後の部分まで考えられていたんですか? それとも最初はビジュアルと世界観ありきで、後から物語というか展開を考えられたのでしょうか。
上田 そこらへんの記憶はあやふやなんですけど、確か当時考えていたのは男の子と女の子がふたりで旅をする。で、最後に女の子がその男の子のことを覚えているのかどうか、みたいなのをオチにしたいなと。結果として、それとは違った結末にしたんですが、ぼんやりとしてあったのはそのくらいです。手を引っ張る、手を繋ぐという部分に関しても、一応そのパイロットムービーの中に手を繋いで引っ張るっていうシーンはあったんですが、それをメインのゲームメカニックにするみたいなものは当初なかったですね。
最初にぼんやり考えていたのは、『バイオハザード』みたいに背景をプリレンダーにして(注31)、そこに主人公の少年がNPCである女の子を守りながら進んでいくっていう。そういったゲームを作るっていうのがスタートだったと思います。じゃあ、どうやって連れていくのか、どうやってエスコートするのかっていうところで「手を繋ぐ」というメカニックが出てきたんです。そのあとに、言葉が通じないとか、そういった設定部分ができていったっていう感じですね。
注31:『バイオハザード』などで使われていた、プリレンダーの2D背景画像の上に3Dのキャラクターを配置する方式のこと。背景のアングルや距離などを変えることはできないが、美麗な映像を表示できるというメリットがあったためPS初期からPS2初期にかけて、よく利用された。
リアルな頭身のキャラクターが出てきてリアルな動きをするゲームが大好き
――ゲームの中でのふたりの繋がりが、すごく人間的な感じがするんですよね。手を繋ぐのもそうですし、セーブのときにふたりでソファに座って休むとかっていうのも。ああいうところも、ご自身でイマジネーションされていったんですか。
上田 そうですね。僕は『アウターワールド』(注32)だったり『プリンス・オブ・ペルシャ』(注33)だったり『フラッシュバック』(注34)のような、リアルな頭身のキャラクターが出てきてリアルな動きをするゲームが大好きだったんです。自分が作るとなったときも、そういうディティールにこだわったゲームがお手本にあって、かつ自分はアニメーションのスキルが高いっていう自負もあったので、それらを究極に突き詰めたものだったら、それ以外の部分がさほどではなかったとしても商品価値が出せるんじゃなかろうかっていう考えがあったんだと思いますね。
注32:フランスのゲームメーカーであるデルフィン・ソフトウェアが開発した1991年発売の横スクロールアクションゲーム。SFテイストのハードな世界観やシビアな難易度がゲームマニアの支持を集めた。
注33:捕らわれの姫を救うため、さまざまなトラップが仕掛けられた王宮を進んでいくアラビアンナイト風のアクションアドベンチャー。キャラクターのリアルな動きと多彩なアクションが話題を呼んだ。
注34:『アウターワールド』を手がけたデルフィン・ソフトウェアが開発した1992年発売の横スクロールアクションゲーム。
――キャラクターの息遣いを感じるような気がするんですよね。自然につまづく、転ぶ、肘をかくみたいなところとか。細かいっていうと申し訳ないですけど、よくここまでのことをゲームの中で再現しようとしたなあと感じましたよね。
上田 それは多分、そういうゲームが好きだっていうのがあるし、ちょうどその頃ビデオゲームに飽きつつあったというのもあって。似たようなゲームがいっぱい出ていて、ナンバリングタイトルがたくさんあるからこそ、もっと新しいゲームを作ったほうがいいんじゃないかみたいな。そういう閉塞感を感じていたのかなと思いますね。
――『ICO』はゲージとか表示されないし、次にこれをやりなさいっていうのもないし、ゲームの中での自由度を感じさせるというか、その点でもすごく新しさを感じさせましたよね。そういう部分もご自身が感じていた不満、不平みたいなものを上田さんなりに形にしたものだったんでしょうか。
上田 不満だったり好みだったりもそうですが、自分が集めたこともあって、チームメンバーの大半がビデオゲームを作ったことがない人だったんですね。なので、例えばキャラクターのアニメーションでいうと格闘ゲームみたいなフレーム単位の駆け引きyや調整、グラフィックでいう頂点カラー(注35)だったりUVマッピング(注36)だったりっていう当時の繊細なゲーム屋さんの職人技みたいなものを求めても、とても無理でしょうと。たとえ頑張ってできたとしても、そういう職人がたくさんいるチームには勝てない、違ったところで勝負しないといけないっていう発想があったんだと思います。それで、細かい動きにこだわったり、パラメーターではない形でプレイヤーに訴える方法を模索した中で、あの表現を選んだっていうのはありますね。
注35:3DCGにおいてポリゴンの各頂点に割り当てられるカラーのことで、おもにキャラクターや地形などの立体感を出すために使用される。
注36:平面の画像を不規則な形の3Dモデルに貼り付けるための方法。
セールス的には、『ICO』はあんまり売れなかったですからね
――なるほど。感性とビジネスのバランスが素晴らしいですね。
上田 う~~ん、でもセールス的には、『ICO』はあんまり売れなかったですからね。もちろん、自分たちは売れると思って作ってたんですけどね。ちょうどその頃、『ハリーポッター』が人気でリアルファンタジーというか、海外ファンタジーみたいなもののブームが来ていたんです。『ICO』はよく海外のゲームみたいだって言われてまして、かつリアルファンタジー路線ということで、これはけっこう売れるんじゃないかなって期待があったんですが、結果として、さほど売上はいかず。あんまり売れなかったなあと思ってたんですけど、数カ月ぐらいしてから、ぱらばらと海外のアワードにノミネートされたよみたいなニュースが入り出して。そこからですね、ゲーム自体の評価が大きく変わったのは。
――ところで、僕の深読みかもしれないですけど、『ICO』って恋愛の「恋」の逆読みとか、そういう意味あいが含まれているということはありますか?
上田 それはないです(笑)。いろんな意味は込めてますけど、その意味はなかったですね。
――ごめんなさい、勉強不足で(笑)。
上田 『ICO』っていうのは当初は仮タイトルで、もともとは「イコン」とか「アイコン」が、アイディアの元としてありました。男の子の年上の女性に対する崇拝に近い憧れのような気持ちを表したみたいな。当時は他にはないタイトルだったっていうのもあって、最終的に『ICO』になりました。でも、振り返ってみると、わけわかんないタイトルですよね。ゲームの内容を端的に表していないし、今考えると違うほうがよかったのかなとも思いますね。
――でも、斬新でしたよね。ちなみに、ヒロインのヨルダという名前は夜とか闇を象徴するとか、そういう意味もあるんですか? これも僕が勝手に考えているだけなんですけど(笑)。
上田 開発の終盤までキャラクターの名前はなかったんですよ。アイテムにしてもそうです。武器として出てくるのも、なんてことない角材と剣だけですからね。
――そうですね。
当時の上司、小林さんの後押しがきっかけになった『ICO』
上田 それで、周りからアイテムやキャラクターに名前をつけるべきとか、さんざん言われまして。大作RPGが流行っていたこともあって、アイテムに大層な名前をつけるのが当たり前な時代だったんですね。キャラクターに名前がないというのも、今でこそありますけど当時は考えられなかったんです。で、いろいろとやかく言われて、仕方なく「分かりました。じゃあヨルダでいいです」って。
キャラクターの名前だけでなく、他の部分に対しても”ゲームとはこうあるべき”みたいな当時のゲームセオリーに当てはめようとする意見は結構あって、それを説得することに忙殺されて制作自体の進みの悪い時期もあったんです。
そんななか、当時の上司だった小林康秀(注38)さん[5] に「上田の思うようにやれ」の一言に後押しされて、やりたいことをあまりスポイルすることなく実現できたことで『ICO』があのような少し変わったゲームとして完成する大きなきっかけになったんですよね。
注38:SCEを退職。現在は独立し、スマイルコネクト・イー株式会社を設立
――そうだったんですね[6] 。
上田 名前でいうと、当初「イコ」っていう少年の名前自体もなくて、ずっと「少年」、「少年」ってチーム内ではは呼ばれてました。でも、体験版か何かを出したときに『ICO』っていうタイトルで、男の子が主人公のゲームなんで、プレイヤーたちがその主人公のことをイコ、イコって言い出したんです。だったらイコでいいかなっていう。そういえば『ワンダと巨像』も発売する段階で初めてつけたタイトルでしたね。
――最初は「ニコ」だったんですよね。2番めの『ICO』っていう意味でしたっけ?
上田 そうですね。まあ、ネクスト『ICO』だったり、数字の2っていう意味もありましたし。あとは、先ほどもいったようにネットワークを使ったゲームを考えていたので、ネットワークの『ICO』っていう意味でも「ニコ」って呼んでましたね。
ゲームのセオリーだったり、暗黙のルールだったりを排除しようと思った
――そのあたりの世界観がブレることなく、ある種の上田ワールドを展開し続けるっていうのはすごく素晴らしいことですし、いいと思うんですけど、違うものにチャレンジしたいという気持ちはなかったんですか?
上田 ありましたね。『ICO』が終わったあとに僕が提案していた企画はコントローラーを使わないゲームでした。僕はもともとゲームをやらない人に遊んでほしいと思って『ICO』を作ったんですね。それこそ『パラッパラッパー』だったり『IQ』だったりっていうのは、そういうカジュアルユーザーに受け入れられたと思うんで、ああいうものを自分も作りたいと。ゲームっぽくないものっていうのをひとつのテーマとしていたので、ゲーム独自のセオリーだったり暗黙のルールだったりを排除しようと思ったんです。
でも、『ICO』は。結果的にあまりセールスに結びつかなかったんで、ちょっとあきらめみたいなものもあって、よりゲームぽくない方向性のアイデアとしてボタンの多いコントローラーは避けたいと。で、コントローラーを使わないゲームってなんだろうって考えたときに、思いついたのがペンを使ったタッチパネルだったんです。CGの世界ではもうタブレットがありましたからね。あとはヘッドマウントディスプレイを使ったゲーム。そのふたつを考えていて、当時の上司に話したのを覚えていますね。
――タッチペンでの操作となると、任天堂DSがイメージできますが…(笑)。
上田 いや、当時はまだ出てなかったんです(注39)。
注39:『ICO』の日本での発売は2001年12月6日で、初代ニンテンドーDSは2004年12月2日に発売された。
――ああ、まだでしたか。
上田 任天堂DSが出る前でしたが、そんな企画にオッケーが出るわけもなく。他にもそういうアイディアはあったんですが、まだ現実的ではないってことになって。じゃあ、当時自分はネットワーク対戦ゲームを好んで遊んでいたので、そうしたネットワークを使ったゲームだったら、まだ作る意味があるのかなと思ったんです。
それで、そういうものを作るのであれば今度は『ICO』とは違ったものを、と。『ICO』はゲームをやらない人に遊んでほしいと思って、いろいろな試行錯誤してきたんですけど、次はもっと売れるものにしたいということもあって、もう少しゲーム寄りにしようかと。アクションゲームというっていう体にして、敵と戦うっていうところをしっかり作りましょうとか、ゲージとかがあってもいいかなとか。そうやってスタートしたのが『ワンダと巨像』でした。
ネットワーク対戦で、みんなで一緒に巨大なモンスターを倒すゲーム
――当初はどんなゲームを考えられていたのでしょうか。
上田 もともとはネットワークで複数プレイヤーがログインして、巨大なモンスターに集団でよじ登って一緒に倒すっていうものだったんですね。でも、当時はネットワーク技術を持った技術者がいなかったんです。ネットワーク専用ゲームというものもまだなかった時代で、スタンドアローンとネットワーク両方をパッケージングしないといけないということもあって、両方作るのは不可能だろうと。だったらスタンドアローンに絞ってっていう流れで『ワンダと巨像』になっていったんです。
――『ワンダと巨像』は巨像を倒すという、ある種の暴力性といいますか、ゲーム的な戦う要素がすごくフィーチャーされています。当時、『グランド・セフト・オート』をすごく遊ばれていたっていう話を読んだことあるんですけど、そうした他のゲームから影響を受けたということはありましたか?
上田 影響というよりも、やはりビデオゲームのプレイヤーは、わかりやすく剣でモンスターを倒すみたいなものを少なからず求めているんじゃなかろうかっていう考えの方が大きかったです。
ただ、当時のRPGとかにあったような、パーティーを組んで、ちっちゃなモンスターを集団で倒すというようなビジュアルはあんまり恰好よくないなっていうのはありました。もっと強大な敵にひとりで立ち向かう主人公みたいなビジュアルの方が格好いいし、自分が主役になるんだったらそっちのほうがいいよね…みたいな。自分が表現するものとして戦うゲーム、敵を倒すゲームを選んだとしても最低限そうしたいっていうのがありました。
――こちらも作る過程でいろいろ苦労されたと思いますが。
ゲームのなかで、不自然ではないかたちの世界を表現したい
上田 『ICO』のときとはまた違った苦労がありましたね。『ICO』は先ほども言いましたけどテクニカルに長けたスタッフが少ないという前提でスタートしたので、あまり技術的に高いものっていうのは期待していなかったんです。ですが、『ICO』が完成したことによってスタッフのスキルも上がったし、技術的に長けたスタッフが存在しているってこともわかったんですね。
それで、次に何を作るのかってなったときに、次は技術的により高度なものにチャレンジしてみたいっていう欲が出てきまして。なので、『ワンダと巨像』では変形コリジョン(注40)っていう新しいアイディアを思いついたり、シームレスに広がる読み込みがない世界の実現を目指したりしたんですが、これらの部分でかなり苦労したのを覚えていますね。
注40:主人公のワンダが巨像にしがみつき、よじ登るというインタラクションを実現するための描画方式。巨像の動きに合わせて巨像の表面の衝突判定モデルが変形することから、このように呼ばれた。
――『ワンダと巨像』が特に象徴的ですが、上田さんの作品にはよく橋があって最後に壊れたりとか、橋がすごく何かと何かのシーンをつなぐ重要な意味を持っているような気がするんです。それは意図的というか、上田さんの何か思いみたいなものがあるのでしょうか。
上田 それも稀に聞かれるんですよね。似通ったモチーフを選ぶのは何かしらのテーマ、哲学に根差したものがあるんじゃないかとか。まあ、哲学といえばそうかもしれませんけど、ゲームを作っていて、なるべく不自然でないように世界を表現しようとすると、橋のような形状が都合が良いっていうのが正直なところですね。見えない壁という不自然な表現を避けてプレイヤーの行動を誘導するとか、ある程度行動できる範囲を狭めるとか。ある場所からある場所を通らせる自然な展開だったり演出を行いたいとなると、今の自分が持っているネタの中では橋になってしまうっていうのが正直なところです。
――でも、すごくいい演出な気がしますね。僕は表現の制限だとは思っていなくて、キャラクターにそこを通らせることが成長というか、何かが変わっていくことの象徴みたいに捉えていたので、すごくいい効果かもしれませんね。
上田 そう言っていただけるとうれしいですけど、僕はビデオゲームにおける演出表現っていうものはまだまだ制限だらけのがんじがらめなイメージがあります。守らないといけないルールがたくさんありすぎて、プレイヤーに対して伝えたいテーマとか、何かを感じさせたいみたいなところまで方法論が到達できているとは自分では思えていないですね。
例えば、『ICO』でいうと男の子に女の子を守らせたい、女の子が男の子を信じて飛ぶみたいなことをさせたいんだけど、それをプレイヤーの意志で行わせるには、どういう背景の構造を作っていくのがいいんだろうかと。そういったことを消去法でいろいろ組み上げていった結果、ああいうステージ構造になったというだけで、まずテーマありきで作っているわけではないんですよね。
ゲームデザインは主人で、キャラクターは僕(しもべ)という主従関係
――でも、そのバランス感覚がすごくいいですよね。そこがすごく上手く作り上げられている感じがします。
上田 それはきっと自分でいろんなセクションの作業をおこなっているからだと思いますね。例えば、シナリオライターだったり、アートディレクターだったりが別にいて、そういう人たちが上げてきたものを組み合わせるとなると、どちらかが出っ張っていた場合、どちらかを折って組み合わせるしかないんですよね。でも、シナリオの人はシナリオに自信を持ってるし、アートの人はアートに自信を持ってるわけで、それを折って組み合わせるっていうのは、なかなか難しいんです。でも、僕の場合はどちらも担っているので、折ってうまく組み合わせることができる。そこが大きいのかなあと思いますね。
なので、よく言うんですけど、やっぱりゲームデザインが主人としてあって。世界観、設定、キャラクターデザインなどは、ゲームデザインのための僕(しもべ)なんだとみたいなそういう主従関係でやってますね。ゲームデザイン的に何かしら問題があったり不整合があった場合は、シナリオやキャラクターデザインやアートの部分に調整をかける。その意味では、どちらかというと昔のゲームの作り方に近いじゃないかなあと思いますね。
――なるほど~~いや、それはすごいですね。時間がかかるのが分かる気がします。
上田 誤解はされたくないんですけど、変更しやすいような形で作っているっていうのもあるんですよ。アートの部分でいうと、実はそれほど工数をかけてないっていうのもありますし。
――そうなんですか? アートの部分なんて工数がすごく掛かっている感じがしていましたけど。
上田 でも、例えばキャラクターの数は圧倒的に少ないのもそういった理由もあります。
――ああ、そうかあ!
上田 あまり言いたくはないですが、背景のバリエーションも他のゲームに比べると相当少ないと思うんですよね。そこを泣いてもゲームデザインの筋を通したいみたいなのはあります。膨大なユニークアセットで、それらのつじつまを合わせながら作っていって、後でちゃぶ台返しをするとなると大変なんですよ。だから、キャラクターは徹底的に少なくして背景も……例えば『人喰いの大鷲トリコ』も同じ背景のパターンの組み合わせで作ってるんで、レベルデザインに修正が入ったとしても、そのブロックを組み換えるだけで対応できる。実際はそんなに簡単ではないですが理論上はそういう作り方をしてますね。
アイデアとデザインの両方のバランス感覚を満たす
――なるほど~。僕は『ICO』の敵を倒したあとのふわ~っとした黒いモノとかに、いろんなイマジネーションを感じるわけですよ。上田さんなりの異形のものというのは、そうした目に見えるような見えないようなものだ、みたいな風に思っていたんですけど、それは作りやすくするためにそうしている部分もあったりするわけですか。
上田 そうです。それがすべてとは言わないですけど、アイデアとかデザインはそういうものだと自分では思ってます。両方を兼ねるというか、両方の条件を満たすというか。いいデザインっていうのはそういうものだと思っています。
――まさに宮本茂さん(注40)がおっしゃっているようなことですよね。なるほど、素晴らしい。ただ、僕はああいう子供の頃に怖かった何かみたいなものを感じさせるところが、上田さんのイマジネーションのすごいところなのかなとも思うんですけど。
上田 いろいろな理由があります。例えば『ICO』の敵でいうと、どこでも出現して、どこで消滅しても不自然ではないっていう要求を実現できるデザインアイデアです。ただそれだけではなくてミステリアスな部分を持ったものというか、含みを持ったデザインのものを選びがちっていうのはありますね。分かりやすい表現ではなくて、言葉は悪いですけど少し煙に巻くというか、そういう表現を好んでしまうところが。それは多分、現代アートをやっていた悪い癖かもしれませんね。
注40:『スーパーマリオ』シリーズ、『ゼルダの伝説』シリーズをはじめとする数々の名作を世に送り出したゲーム業界の生ける伝説。現在は任天堂の代表取締役 フェローを務める。
SCEを辞めた理由
――ちょっと話を現実的に戻しますが、SCEをお辞めになったのはなぜだったんでしょうか。
上田 理由はひとつではないですけど、自分のキャリアであったり、作りたいものであったり、作り方であったりの部分で、よりよいモノを作るためには独立した方がいいんじゃないだろうかと。答えだけでいうと、そうなります。
『ICO』や『ワンダと巨像』の時代は、社内的に優先度がそれほど高くないプロジェクトだったということもあって比較的チームの自由度が高かったんですが、当時制作を進めていた『人喰いの大鷲トリコ』の時代になってくると、さまざまな要因も重なって、座組であったり制作環境のコントロールがチーム主体でできない状況になっていったんです。
そういう理由もあって、独立することにより会社との関係をもう少し対等に近づけることができれば、よりよい制作環境にもっていけるんじゃないかっていうのもありました。 それと、SCEでは1年毎更新の契約社員に近い形だったんですね。
方向性としては「ちゃんと売れるものをみんな作りましょう」、「売れたらちゃんと還元します」っていう。それは僕的にもすごくモチベーションが上がるし、自分たちにも厳しくなれるので、いいなあと思っていたんです。そこをもっと突き詰めて、ビジネスに対しての責任を持つっていう意味でも独立してプロジェクト全般に責任を持ってやったほうがいいんじゃなかろうかってのはありましたね。
――でも、リスクもあるしお金のこともあるし、躊躇はなかったですか。
上田 それはないですね。SCEに入るときもそうでしたけど、普通は社員になれって言われたら「よろしくお願いします」となることが多いと思うんです。でも、先ほど話したように当時の僕はまったくそんなことは思わなかったんですね。気持ち的にはその頃とあんまり変わってなくて、そういうところが、歳を取っても変わらずあるのかなあっていう風に思いますね。もちろん、いろいろな人に相談した結果ではあるので、僕の独断で「はい、辞めます」っていう形ではなかったですけどね。
自分たちがプレイヤーとして楽しめるものを作るというのが第一
――となると、もう新作はかなり進んでいるわけですか?
上田 そこはまだ言えないんですけど、そうですね。いろいろ考えて動いてはいます。いずれいい時期に発表したいですね。
――ゲームの世界でいうとスマートフォンが主戦場になるとか、ライフスタイルそのものが変わりつつありますけど、上田さんとしては家庭用ゲームや、オンラインを中心にコンテンツを考えているというコンセプトは変わらないんでしょうか。
上田 変わらないコンセプトがあるというよりは、自分たちがプレイヤーとして楽しめるものを作るっていうのが第一にありますね。流行りのものや売れてるものを作るっていうのも決して間違ってはいないし、それを否定する気はないです。ただ僕の場合、ゲームを作っていくのは大変だと思っていて、自分たちがどうしても遊んでみたいとか体験してみたいというアイデアじゃないと、その大変さを乗り越えられないというか、なかなかモチベーションが続かないんです。なので、スマートフォンだったり、まったく違ったジャンルのものでも、いちプレイヤーとして僕が遊んでみたいなあと、そういうものがあったらいいなあと思うものであれば他の表現にもチャレンジしてみたいなと思います。
――上田さんの作品は、発表から完成まで、すごく時間がかかってしまうことがありますけど、それは自分が作りたいものを作るためで、どうやっていいものにするかということに、ご自身やスタッフのモチベーションを費やしているからなんでしょうか。
上田 結果的にはそうですね。ただ、作っている自分たちからすると、当たり前のことを当たり前にやるっていうのを繰り返しているだけです。もちろんできるだけ高品質なものを作りたいっていう気持ちも当然ありますけど、作っているときはあんまりそういう意識はなくて。むしろ最低限これくらいはやっておかないと、お客さんが手に取って遊んでくれたときにクレームがくるんじゃないかっていう恐怖心で作ってますね。なので、飛びぬけて高水準なものを時間をかけて作っているっていうよりは、このままじゃ出せません、出せないから仕方なく時間がかかってしまったというのが自分たちの認識ですね。
結果的に時間がかかっているものが多いですけどましたけど、『ワンダ』にしても『トリコ』にしても、『ICO』より短く作ろうというか、そういうタイムスケジュールを目指して考えていた企画でした。結果的にはその通りにはなってないですけど、期間をかけないといいものが作れないとはまったく思わないです。むしろ、モチベーションだったりテンションだったりを維持するためにも、できるだけ早く形にして、できるだけ早くリリースしたいという気持ちは常にありますね。とはいえ、中途半端な出来損ないみたいなものを出すのだけはやっちゃいけないと思いますから、そういう選択はしないですけど。
――今日はとてもいいお話を聞かせていただきました。どうもありがとうございました。
取材:黒川文雄
取材協力:仁志睦
写真撮影:北岡一弘
出展元:エンタメステーション
今回も過去のエンタメステーションに掲載された上田文人氏のインタビュー記事を復刊させました。御高覧ありがとうございました。通常の業務の合間に復刊(写真を探し、当時のワードテキストなどを自分のデータファイルから探して校正して、再度アップしています)しており、時間が掛かっております。まだあと20名くらいのクリエイターの方の過去のインタビュー取材記事をアーカイブとしてアップする予定です。
以下はお礼と、当時のヘッダー紹介記事しかありません。この活動に賛同いただける方のみ、支援として有料購入をいただければ幸いです。あくまでもこの活動は黒川文雄個人として、残すべき取材記事を復刊させているに過ぎないのです。御高覧ありがとうございました。
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