「考える」ということ。
「1+1=2」
シンプルにこれもいいんだけれど、なんで2になるのか考えたい。
「1+1=1と1」でも良くないかとか。
祖父は戦争経験者で、シベリア抑留者だった。
いつも遠くを見る目で戦争のことは語らず、戦争に関することを聞いたのは祖父が酔ったときに「ハラショー」とか「ダワイ」とロシア語をぽつりぽつりという時くらいだった。
祖父は自分が中学生の時に亡くなったのだが、もっといろんな話を聞きたかった。
きっと祖父は全部自分の中にしまって、言わずに閉じ込めたのだろう。
そんな祖父はわずか幼稚園に入った位の自分にも「まず見て考えてみろ。」という人だった。
勿論答えを隠したりはしないのだが、観察や思考することを教えたかったのだろう。
子どもはよく吸収する。
おかげで小学生になっても、中学生になっても、今になっても観察と考えることの癖がついた。
そして人に尋ねるのがちょっと下手になってしまったかもしれない。
そして考えることが多すぎて、勉強にならない。
決して勉強が得意な子どもではなかったのだ。
まず「どうして九九を覚えなければいけないのか?」というところで躓いた記憶は今でも新しい。
みんなが新しい九九を覚えて「俺ご褒美シール、ここまで行ったもんね〜。」というのが不思議でならなかった。
今思えば面倒臭い子どもである。
常に何を考えているか聞かれても困るのだが、ふとした日常の中に不思議は溢れている。
それを「なんだろう。」「どうしてだろう。」「なんでそんなこと言うんだろう。」「何が発端なんだろう。」とか、誰に話すでもなく考えるのだ。
考えることは財産だ。
誰に分かってもらえなくても。
幼い頃の祖父との散歩道。
たくさん発見があったであろう、その時の自分。
その感覚をずっと見失わないでいきたい。
多少みんなとの感覚のズレは否めないけれど、考えることは楽しい。
沖縄のビオスの丘に行った時、鶏や水牛、山羊に出会った。
のびのび過ごす姿が羨ましかった。
彼らの目線で世界を見てみたら、どうだろうと思ったのもコロナの前の話。
不自由な今の生活にあっても、きっと違う目線があるはず。
自分の中には。
分からないけれど。
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