「今」はいつまで経っても「過去」のまま。
子どもの頃、水を掴もうとして延々と手のひらに水を流し続けたことがあります。きっと粒子が見えるんじゃないか、とか。形があるんじゃないか、とか。
流れるものを食い止めたい気持ちと、水とは何かを知りたかったんだと思います。
「どうして」が多い子どもだったせいか本を読むのが大好きで、とにかく本を読んでいました。そして同じくらい絵を描くのが好きでした。お陰で全く勉強にならない。よくここまで来れたものです。
大人になって、父がカメラをくれました。CanonのAE−1という機体で、それは子どもの頃から自分にレンズが向いていたカメラでした。まさか自分がレンズの後ろから覗くとは。
もう貰ったあたりからデジタルが出始めてきたんですが、KodakのGOLD100が相性が合いすぎて、デジタルは全然考えていませんでした。それに手が出せる値段ではなかったし。
その頃思っていたのは、「時間は水かもしれない。」でした。「今」って思った瞬間がすぐに「過去」になる。掴めなくて掴めなくて、「本当の今」がどこにもない。
そもそも今考えるとなぜそこにこだわっていたのかも分からないんですが、本当になんか得難いものがあるんじゃないかと思っていたんでしょうね。
そして撮り始めていくうちに「あの一瞬の空気を撮れたらいい。」に変化しました。
GOLD100が生産されなくなって、今使っているのはデジタルの一眼レフと、その時々で変わるフィルムを入れたAE−1。
デジ一も古いです。頂き物です。でも高性能とかじゃなくて全然良い。シャッターも絞りも、全部自分でいじって、その瞬間の空気と記憶を撮るためなので。
そうしてこれからも撮っていくと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?