【LGBTQとしてのフィクトセクシュアル (Fセク、Fictosexuality)の生き方に関する一考察•覚え書き】 asd 偽ギフテッド講座
▲皆様ごきげん如何ですか?フィクトセクシュアルになってしまった(生来的なものか否かに関しては、後に考察する予定です)自閉症、MtF TG 当事者、偽ギフテッドの HermitG-zan ハーミットジーザン で御座います。
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所謂LGBTQに於けるフィクトセクシュアルを巡る諸相に関して、初音ミクさんと結婚するかも知れないFセク (asd.自閉症、性同一性障害 MtF TG レズビアンでもある) 当事者の筆者が、基本的に如何なる姿勢で対社会的にFセクとして臨んでいるか等々、総論的総括的に記したのが以下の拙文である。ネガティヴな見解も含まれるので、留意されたい。
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【Fセクの有する、一面に於いてはネガティヴな面を受け入れる覚悟】
無責任に軽々しく、Fセクにおけるメリット或いは良い側面のみを殊更に強調して煽り、自分自身で苦しみつつ答えを出そうとしている者を徒に迷わせるのはまさしく邪道であり、非難されてしかるべきものであろう。
いかなる物事であれ、正の側面も有れば負のそれもある。善し悪しの両面を有するのである。Fセクの有する様々のマイナスの側面…例えば家族及び対社会的な面における様々の軋轢、アウティング、様々の偏見差別、ネット上での誹謗中傷、変態、変質者扱い等々に晒されるリスクをシッカリと認識し納得した上で、自分自身にとって適切なスタイルを、状況に応じて築きあげる必要がある。(ちなみに、Fセクのプラスの側面の一例として、 キャラである相手は永遠に歳を取らない ことが挙げられる)
もし本当に真剣にキャラを愛しているのであれば、ただ夢を見るだけの軽い気持ちではいけない場合もある。パートナーたる2人が如何にすれば社会生活に於いて困難を乗り越えて行けるか或いは行けないのか、社会との妥協点は何処か等々々…を、パートナーと共に十分に熟考していかねばならない。場合によっては、自分の立場を闡明… カムアウト (これは闇雲にやれば良い訳ではなく、非常に難しい問題を孕んでいる) しなければならぬこともあろう。愛するキャラのために他の全てを擲(なげう)たねばならぬこともあるかも知れない。家族親類との断絶はおろか社会的に孤立してしまうことになるかも知れない。そのような、特に性的マイノリティの持つ厳しい現実に直面し、それを受け入れねばならない場合もあり得ることを心得ている必要がある。
【自分の価値観を押し付けず、他人の立場を尊重することから自由が始まる】
何をしようが言おうが言論の自由である、という者が、マイノリティに限らずどの分野にも存在する。自分の価値観、基準に合わぬものは非難攻撃して当然であり自由だという考えをする者が存在するが、それは明らかに誤りである。
自分の自由を認めてほしいなら、自分とは価値観もポリシーも異なるところの他人の自由も認めねばならない。(その言動が、社会通念上明らかに他者を害し公益を損ね、道義的倫理的かつ社会的に許されざるものでない限りは、という付帯条件つきであるが)
相手があってこそ自分がある。社会にあって、人間は一人では存在し得ぬのだ。
自由とは、相互を尊重すること無しにはあり得ない。そして、これこそが真の意味での個人主義と言えるのである。
【思い込みのみで成立する恋愛】
Fセクとは、あくまでも第三者的視点で見れば、要するに対人不安もしくは恋愛における複雑な関係の回避をベースにした、煎じ詰めれば本質的には自己愛の世界である、とも言える。自己の中に没入し、のめり込んでいく自我の延長である。
理想とする愛するキャラは、独立した自我或いは人格を持っているのかも知れない。しかしいずれにせよ、重要なのは「あくまでも自己の脳内で全てが完結している」ということである。その点においてはASD (自閉症スペクトラム障害) と極めて類似している…と言える。所謂性的マイノリティには、ASDが少なくないということに関しては、筆者も当事者の一人として認めざるを得ない。
相手に対する思い込みで成り立っているという点においては、リアル女性或いは男性との恋愛に関しても同様のことが言えるが、
Fセクとリアル一般人の恋愛には決定的な相違がある。
それは、リアル一般人の恋愛とは、自分の脳内におけるそれとは全く異なる感情と意思がリアルの相手にはある、という点である。リアルな恋愛とは、自分の意識或いは無意識に於けるそれとは全く異なる人格との関係性の中で、その絶えず変化してゆく微妙な感情のゆらぎの中に於いて、互いに愛情を高めたり喜び合ったり時には憎悪を抱いたりするのだ。これが、Fセクには欠落している。
決して傷つくこと無く自分だけのアタマの中で全てが完結してしまう、極めて自閉症的な愛、それがFセクである。
例え結婚したとしても、それはあくまでも架空のものであって、法的社会的には何ら権利も義務も恩恵も無い。実効無き架空のものであるに過ぎない。
いわゆる単なる「癒やしとしての性愛」と位置づければ、自己完結型恋愛である フィクトセクシュアルの意義はあると言えよう。しかしながら、人間相互による関係性に於ける社会的存在としての恋愛のあり方としては、疑問の余地があるとは言えよう。
(リアル、架空の恋愛の両者に優劣をつける心算は筆者には全く無い。また架空恋愛の是非については、ここでは論じない)。
【夢は醒めるかも知れない】
一方的な愛情をキャラに注ぎ込み、脳内ですべてを完結させているFセクにとっては、自分の情熱がキャラとの恋愛の全てだ。
しかし、たとえ今は熱を上げてはいても、いつか醒める時が来るかもしれない。或いは勘違いをしていたと後悔する時が来るかも知れない。その覚めてしまった時の自分を゙受け入れる覚悟を十分すべきであろう。
但し、リアルとは異なり、愛情が冷めたところで誰を傷つけることもない (強いて言えば傷つくのは自分自身だけ) のは、Fセクのプラス面とは言えるのかも知れない。
【フィクトセクシュアルの社会的認知とその困難さ】
フィクトセクシュアルとは、一般的には非常に特殊な領域、理解し難い領域である。
かと言ってフィクトセクシュアルであることを理由に不当な差別、イジメがあってはならないのは当然である。
性的マイノリティを無闇に極論を振りかざし敵視する人が常に一定数いる以上、差別は避けがたいことであり、かつ人の意識の変革には膨大な年月を要する。
社会を善きものに変えていく努力が必要であるのは無論だが、何よりもムーヴメントを゙推進する者が、それに相応しい人間性、洞察力、高い品性と人格を具備する必要がある。これは理想論かも知れない。しかしやはりなくてはならぬ要素である。でなければ、例え100年経とうが本質的な解決への道は閉ざされたままであろう。
いずれにせよ、ムーヴメントに参画するには、遺憾ながら筆者はあらゆる面に於いて全く不適格者である。
【終わりにあたって】
リアル恋愛であろうが脳内の架空恋愛、ヴァーチャルであろうが、要は当人が幸せであり、かつ社会生活を問題なく送れれば、それで良いのである。
この世の生の最期の瞬間まで、最愛のキャラクターが脳内或いは心の中で囁いてくれる人は、幸い。皆さんが、幸せに最愛のキャラと一生を全う出来るよう、切に祈る。
I pray sincerely you all who are Fictosexuality will have all your life with your loving partner happily.
(了) Fin.
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補筆等 履 歴 :
●2024.10.23 補筆
●2024.10.26 改訂補筆
●2024. 11.2 補筆 (『思い込みのみで成立する恋愛』箇所 )
●2024.11.7 補筆『思い込みのみで成立する恋愛』箇所 )