日本の馬
一ノ谷の戦いで、源義経は「鹿がこの崖を降りている、馬でも降りれるはずだ」と言って崖を馬に乗って降り、平氏を奇襲して屋島に追いやった。長篠合戦では武田の騎馬隊を打ち破るために、織田信長は千丁とも三千丁とも言われる火縄銃を大量に使用した。
この二つの戦いで主役級として登場する馬に注目してみたい。
義経ら源氏が馬に乗って崖を降りられたのは理由がある。当時の馬は小さかったということだ。馬というと競馬で使用されるサラブレッドの印象が非常に強いが、日本の馬はそれほど大きいものではなく、現在のポニー程度の大きさしかなく、平均体高が130センチ程度である。そのため、重心が低いので鹿と同じ急な崖を降りられるということだ。
また、長篠合戦では武田の騎馬隊が突撃できないように、織田信長は馬防柵を設けた。さらに打ち破るために三段構えの鉄砲隊を準備したと言われる。武田の騎馬隊が無敵とも称されたのは、集団で馬に騎乗した軍団が早い速度で突進してくるため、対峙する側としてはその恐怖から列を乱して敗走するからである。
とここまで書いたが、一ノ谷の戦いで馬を使用して崖を降りたのも、長篠合戦の武田の騎馬隊も史実としては疑問視されている。先述の通り、日本の在来馬は体高が低い。馬具が装着された状態の小さな馬に成年男性が、しかも重い鎧などを着て乗るとどのようなことになるのか想像してみてほしい。当然馬は早く走ることもできない。そして日本の牡馬は比較的気性が荒く、牡同士だと喧嘩をしてしまうため、馬が集団で行動することができない。このため、集団で早い速度で進撃をする武田の騎馬隊も存在しなかったということになる。
日本の在来馬は走る速度はあまり早くないが、短足で重心が低く力が強いため山道や坂道での歩行に適しているため、輸送や農耕に利用されてきた。戦争に利用されることもあったが、日本人にとって馬は日常生活の一部であり、家族でもあったのだ。東北地方では曲り家とよばれる、人と馬が一緒に住む家も存在している。
しかし、体の大きく、移動速度の速いサラブレッドが輸入されるようになると、在来馬は急激に数を減らすようになり、現在生息している在来馬は2000頭を切っている。
大西 将樹(おおにし まさき・地歴公民科)