演劇の境界『東京令和心中◉ビニ傘地獄篇』主宰・脚演インタビュー
早稲田は学生演劇が盛んな大学です。
文学部には演劇映像コースが設置され、大学の近くには小劇場があり、六大演劇サークルと呼ばれる学生団体が活発に活動しています。
本記事は、その六大演劇サークルの一つ「劇団森」の企画公演『東京令和心中◉ビニ傘地獄篇』を取材したものです。
物語の舞台は、架空のレイワ・トーキョー。
「死の雨」が降り続け、ビニール傘で溢れた街で、主人公であるロミオは、女優の幽霊ジュリーに恋をします。
幽霊たちの芝居小屋に宿る過去への郷愁、架空の戦後というSF的な世界観、そして、今この「令和・東京」で上演/観劇している私たち。
これら過去・未来・現在の三つの物語が混ざり合ったのが『東京令和心中』の世界でした。
このような世界観がどうやって作られたのか。
また、学生として演劇をするとはどのようなことなのか。
主宰の小野さん、脚本・演出の小川さんにインタビュー取材を行いました。
*以下、敬称略
主宰と脚演
そもそも主宰と脚本・演出(以下、脚演)とは、どのような関係なのでしょうか。
『東京令和心中』のパンフレットには、以下のようなコメントがそれぞれ掲載されていました。
一般的に、脚演は作品の内容面の責任を負う役職であり、主宰は公演の運営全体に責任を負う役職です。主宰と脚演を分けず、一人が二役を兼任する公演もあります。
しかし、『東京令和心中』のパンフレットには、両役の分担をあえて意識させるような内容が書かれていました。
それにはどのような意図があったのか、伺いました。
小川さんの語った通り、パンフレットに書かれた言葉は、現実と虚構が混じった、『東京令和心中』による演劇の独自性を表しているようでした。
ウソとホント
『東京令和心中』は虚構と現実の間をスリリングに描いた作品でした。
それが特に顕著なのは、物語の幕引きです。
黒船教団と呼ばれる怪しい集団が登場し、ドンチャン騒ぎの末、トーキョーの街を、つまり舞台を、実際に破壊してしまいます。
セットの壁が破られ、暗転したのち、暗闇の中でこんな会話が交わされます。
『…え、本当にやったの?』
『だって脚本にそう書いてあったから…』
『だからってこんな…』
『じゃあ脚本が悪いんじゃない?…』
再び明転した舞台では、ボロボロになったセットの骨組みが取り残されています。
そこに、「脚本演出・小川」役の役者が登場し、「こんなことになってしまって…」と謝罪を述べる。
腹を立てた客が劇場を出ていく。実は、その客も役者、つまり「サクラ」です。
筆者は一観客として、このメタ演出は「面白い仕掛け」として楽しみました。
しかし、小野さんも小川さんも、以上のような表現に対して逡巡する部分があったと言います。
小野さん、小川さんが直面した葛藤は、学生として演劇をすることの難しさでもあると感じました。
学生演劇の葛藤
学生演劇は、それぞれ違うものを目指す学生同士の共同作業です。
必ずしも将来的に演劇を続けていくことを目指す人ばかりではなく、演劇への考え方も、求めているものも、みんな違っています。
だからこそ、職業として演劇する場合とは異なる衝突が起こることがあります。
インタビューの間、小野さんと小川さんは非常に自省的で、今回の公演を謙虚に振り返る場面が多々ありました。
しかし、一観客として公演を観た筆者からすると、『東京令和心中』はセリフの勢い、驚くような演出、手の込んだ時間軸など、こだわりの詰まった舞台だったと思われました。
お二人がこれからどのように演劇や表現という行為に関わっていくのか、あるいは決別するのか…見てみたいと感じました。
最後に、『東京令和心中』という公演のタイトルにまつわるお二人の会話を引用します。
終わりに
取材に伺ったのが4月、記事を書き終わったのが7月。
驚くほど時間が空いてしまいました。
それはひとえに、人が悩みながら作り上げた作品に対して何かコメントするということに、想像以上の抵抗を感じてしまったからです。
インタビュー音声を聞き直しながらグダグダと悩み、つい執筆を引き伸ばしてしまいました。
取材に応じてくださった小野さん、小川さんには心から感謝しています。
初対面かつ得体の知れない筆者に対し、踏み込んだ内容まで誠実に話してくれました。
インタビューの中には、『東京令和心中』という個別の作品に限ったことではなく、学生演劇全体、表現という行為全般に関わる葛藤や面白さが現れていたと思います。
読者のみなさんがその葛藤や面白さを感じ、より演劇を楽しむきっかけにしていただければ幸いです。
(取材・文:とり)