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内田 樹「いま私たちが学ぶべきこと」【全文公開】

内田 樹(うちだ・たつる)――神戸女学院大学名誉教授・凱風館館長。
1950年東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程中退。専門はフランス文学・哲学、教育論、武道論など。主著に『レヴィナスと愛の現象学』『私家版ユダヤ文化論』『日本辺境論』など。

 いきなり「ちゃぶ台返し」をするのも申し訳ないのだけれど、「いま私たちが学ぶべきこと」という問いの立て方が「ちょっと違う」ような気がしたので、それについて書くことにする。たぶん、すごくわかりにくい話になると思うので、覚悟して読んで頂きたい。
 「学ぶ」というのは一言で言えば「別人になること」である。だから「私は学ぶ」という文型を私はどうもうまく呑み込むことができないのである。それは「学び」がほんとうに起動した場合には、「私」という主語はもう同一性を持ちこたえることができないはずだからである。

 「呉下の阿蒙」という話がある。三国時代の呉の国に呂蒙という将軍がいた。勇猛な武人であったが、惜しいかな学問がない。主君の孫権が「将軍に学問があれば」と嘆じたのに発奮して、呂蒙はそれから学問に励んだ。しばらくしてのちに同僚の魯粛が久しぶりに呂蒙に会ってみると、その学問の深さ、見識の広さはかつての彼とは別人であった。魯粛は「君はとてもかつて『呉下の阿蒙』と呼ばれていた人とは思えない」と驚嘆した。これに対して呂蒙は「士別れて三日、すなわちさらに刮目して相待すべし」と答えた。士たるものは三日会わないでいると別人になっているぞ、と。
 私が子どもの頃には時々この話をする年長者がいたが、ある時期からいなくなった。単に漢籍の知識を重んずる風が失われたということではなく、人間が知的に成長するというのは「別人になること」だという知見そのものが失われたためだと思う。
 知的成長ということを現代人はたぶん「知識の量的増大」というふうに考えている。人間としては何も変わっていないのだが、脳内の情報ストックが増えている状態を「成長」と呼び習わしている。だから、何日経って会おうともとりわけ「刮目する」必要はない。「入れ物(コンテナ)」は同一で、「中身(コンテンツ)」が増加しているだけだからだ。
 でも、それは「学び」とは違う。学びというのは「入れ物」自体が変わることだからである。「刮目」してまみえないと同一性が確信できないほどに人間が変わることだからである。学びが深まれば、話す内容が変わるにとどまらず、表情も、声も、挙措も、着付けも、すべてが変わる。
 呂蒙将軍は学びを深めたあともおそらく以前と変わらぬ卓越した武人であっただろう。けれども、その戦い方は歴史的知見に裏づけられ、人間性についての洞察に満ちたものに変わっていたはずである。単に武勇に学識が算術的に加算されたのではない。武勇のあり方そのものが変わったのである。戦術は奥行きと厚みを増し、用兵は縦横無尽のものとなり、ただ一言で兵たちの人心を掌握するカリスマ性を身に付けた。そうでなければ「刮目する」には値しない。だが、いま「学び」という語に、私たちはそこまでの全面的な人間の刷新を期待していない。
 与えられた「いま私たちが学ぶべきこと」という問いには、「学びの主体が別人となることが学びである」という複雑な仕掛けを前にしたときの当惑が(申し訳ないが)感じられなかった。それで「ちゃぶ台返し」から話を始めることになったのである。意地悪をしているわけではないので、ご海容願いたい。
 「私たち」に知的に「欠けているもの」がある。それを充填したい。ついてはそのリストを作りたいということが「いま私たちが学ぶべきこと」という論題の趣旨であるなら、私はそのような営みを「学び」と呼ぶことができない。それはむしろ「補充(supply)」と呼ぶべきだろう。「補充」なら「入れもの」は同一性を保ちながら、「中身」だけが増えてゆくありようを正しく伝えられる。

 教育の目的が「学び」から「補充」になったのはいつからだろう。一九七〇年代くらいからだろうか。私が子どもの頃は「学ぶプロセスで子どもたちは別人になる」という考え方の方がむしろ常識であった。それはおそらく久しく日本の基幹産業が農業であり、教育もまた農業の比喩でとらえられていたからだと思う。
 子どもたちは種子である。土に蒔かれ、水や肥料を与えられ、陽光を浴びて育つ。台風や病虫害のせいで、枯れてしまうこともあるが、さいわい生き延びることができたものは秋には「実り」として感謝の声を以て迎えられる。そういう植物的な比喩に即して久しく教育は語られてきた。種子が熟果になること、「別人になること」が教育の目的であることに違和を感じる人はいなかった。
 だが、基幹産業が農業から工業に遷移するにつれて、教育を語る言葉もまた工学的なものに変わった。人々は自分が見慣れたシステムに即して現実を記述するものなのだ。
 子どもたちは工場で製造される工業製品のようなものだと見なされるようになった。集められた原材料が工程表に従って加工され、そこにいろいろな部品を付け加えられ、ベルトコンベアの終点では仕様書通りの製品が納期までに、注文個数だけ揃う。それが教育というものだと人々が信じるようになったのは、基幹産業が農業から工業に変わったからである。
 なるほど基幹産業の遷移が教育にダイレクトに反映するのだな、ということを実感したのは九〇年代に「シラバス」というものが大学に導入された時である。シラバスには「この授業の履修終了時点で学生はどのような知識や技能が身についているか」が明記される。その目的を達成するために第何週に教師は何を教え、学生たちは何を習得するのかを逐一書かなければならない。その週にシラバスに書いていることを教えなかったら、あるいはシラバスに書いていないことを教えたら、それは「工程管理上のミス」であってペナルティの対象になると言われた。
 ふざけたことを言うな、と私は激怒した。それは私がさしたる計画もなしに教壇に立ち、その時に思いついたことべらべら話すという授業をしていたせいである。
 でも、仕方がないのである。私が教壇に立ち始めた頃、こちらが周到に講義ノートを準備して万全を期して教場に臨むと、なぜか学生たちは次々と眠ってしまう。どれほど理路整然としたノートでも、むしろ準備が十全であるほど学生たちの集中力は落ちる。どうしたらよいのか。
 ある時、その日の朝、西宮北口駅ホームで見聞きした奇妙な出来事について学生たちに「ねえねえ、こんなことがあったんだよ」と話をした。内容は忘れたが、とりあえず誰でもいいから誰かに話したかったのである。すると、ふだんは教室の後ろの方にたむろして、私が教室に入った時点ですでに「寝の体制」に入っている学生たちががばっと顔を上げて、私の話に聞き入ってくれた。
 なるほどと思った。学生たちは「既成のセンテンスの再生」ではなく、「今ここで、即興で行われるライブ演奏」が聴きたかったのである。たしかに授業なんだから聴いてもらわなければ話にならない。だったら、準備はそこそこにしておいても、その場でいま思いついた「鮮度の高い話」で引っ張った方が学生たちの集中力は高まり、教育効果も上がる。そうわかってから後はずっとそういう授業だけをしてきた。
 だから、学生たちによる授業評価アンケートでは、「シラバス通りの授業をしている」という質問項目の得点がつねに最低だった。でも、あとはおおむね最高点であった。工程管理の徹底と授業満足度の間には統計的な相関はないということである。

 何より激しい怒りを覚えたのは、シラバスは教師と学生の間の教育商品の取引についての「契約書」のようなものだと言われた時である。教育を商取引の比喩で語ることは最大の禁忌である。そのような基礎的事実さえ知らない人間たちが教育の制度設計をし、教育政策を起案しているのかと思って、絶望的な気分になった。
 考えてみればわかる。商取引においては、消費者は自分の前に置かれた商品については、その価値や有用性や費用対効果を熟知しているということになっている。たとえ知らなくても、「知ったような顔」をすることになっている。店員の袖をとらえて、商品について「何も知らないのです。ぜひ教えてください」と叩頭する消費者はいないし、説明を受けた後に「ありがとうございます」と一揖する消費者もいない。みんな「そんなことはとっくに知っているよ」という顔をする(知らなくても、そういう顔をする)。バザールでの売り買いと同じで、「商品に対して欲望を抱いていない」と思わせることが売り手を譲歩させて、値引きのために有効だと思っているからである。
 教育が商取引なら、商品は「履修単位」、貨幣は「学習努力」に相当する。だとすれば、学生=消費者は「最低の学習努力で単位を履修すること」を義務づけられる。最低の代価で商品を買うことは、消費者の権利というよりはむしろ義務だからだ。そうしないと需給バランスに基づく適正な価格形成は行われず、市場経済は成り立たなくなる。だから、授業に際しても、もし学生たちが賢い消費者としてふるまうなら、これから教えられることに対してできるだけ欲望を抱いていないように見せることを義務づけられるのである。
 こういった舞台装置が「学び」にとって有害無益であることは誰にでもわかるはずである。でも、ある時期から教育を商取引のタームで語ることがふつうになった。保護者や学生は「クライアント」であり、大学は「店舗」であり、「市場のニーズに応えて」、「消費者に選好される教育プログラムを展開すること」が学校の仕事だと真顔で言う人たちが学内外を埋め尽くすようになった。そのようにして日本の学校教育が壊滅的なことになったのはご案内の通りである。

 教育を商取引のスキームで語ることの最大の問題は、「消費者は変化しない」ということである。消費者は経済活動を通じて決して別人になることがない。スーパーマーケットに入ってゆく買い物客は入った時と出てゆく時で同一人物である。買い物かごの中の商品は増えているけれども、買い物をした人間は(財布が軽くなった以外)まったく変化していない。変化しないというより、変化することを禁じられているのだ。買い物をする前に感じていた「欠如(want)」が、商品購入によって「補填(supply)」されただけである。スーパーの中で何時間過ごそうと、何日過ごそうと、何年過ごそうと、消費者は決して別人になることはない。なってはならない。入店時点の「欠如」が商品購入によって「補填」されたという以上の変化はあってはならない。買い物かごに商品を一つ放り込むごとに買い物客の表情が変わり、声が変わり、物腰が変わり、語彙が変わり、価値観が変わり、欲望の布置が変わり……ということは絶対に起きない。起きてはならない。だから学びを「商取引の比喩」で語ってはならないのである。

 私たちは、この世にそのような学的領域が存在するということさえ知らなかった学問を「図らずも」学んでしまうという仕方で学ぶ。少なくとも呂蒙においてはそうだった。主君孫権に「将軍に学問があればなあ」と言われたとき、呂蒙は学問が何であるか、それにいかなる有用性があるのかを知らなかった(知っていれば言われる前に学び始めていただろう)。だが、孫権のその一言を奇貨として、呂蒙は学び始め、別人になった。
 もう一度繰り返すが、学びというのは、学んだ後に学ぶ前とは別人になっていることである。学び始める前には自分が何を学ぶことになるのか分かっていなかったことが、学び終えたあとに回顧的に「わかるようになる」というのが学びの力動性、開放性、豊饒性なのである。
 だから、「いま私たちが学ぶべきこと」があるとしたら、それは世の中には「学びというものがある」という原事実それだけなのである。
 私自身は武道や能楽など、いくつかの芸事を「学んで」きた。学び始めて合気道は半世紀、能楽は四半世紀に及ぶ。学び始めた時点で、私は自分がこれから何を学ぶことになるのかほとんど何もわかっていなかった。自分がそれからあと会得することになる技術を呼ぶ名詞を知らなかったし、その後に操作できるようになる身体部位を感知したことがなかった。「気海丹田に気を集める」ことも「胸を落とす」ことも「手の内を替える」ことも、ある日そういうことができるようになっている自分を発見するのである。「そういうこと」ができるようになりたいという「欠如」が先行して、それを「補填」したのではない。この世にそのような身体部位があることも知らず、それを操作する技術があることも知らないにもかかわらず、稽古を積んでいるうちに、ある日できるようになっているのである。
 もちろん稽古にはきちんとした教育体系がある。それは「先達についてゆく」ということである。ただし、どこに行くのか、どういう経路をたどるのか、いつ何が身につくのか、何も情報が事前には与えられない。ただ「先達」の背中を見ながら歩き続けるだけである。自分が踏破すべき行程のどこにいるのか、目的地に到達するまでにどれだけの歳月を要するのか、何もわからない。自分が修行していることの意味を叙する語彙も、その価値を考量するものさしも自分にはない。そこから「学び」は始まる。でも、それが武道や宗教や芸能における「修行」なのである。
 私が知る限り、西欧の言語には「修行」に類する単語が存在しない。長くアメリカで坐禅の指導をしてきた曹洞宗の禅僧藤田一照師に以前「『修行』に相当する単語が英語にはありますか?」と訊いたことがある。「ない」というのが藤田師のお答えであった。trainingもexerciseもpracticeも違う。どの語も、それを修することで「何を」達成するのか、その目標が事前に開示されているからである。「修行」は違う。踏破すべき全行程を一望俯瞰する「神の視点」に想像的に立って、そこから自分の今・ここを語ることは修行者には決して許されない。
 私は武道と能楽の他にも禊祓や滝行などの「修行」をしてきた。そして、その経験を通じてこれが教育システムとして非常に優れたものであるということを深く確信している。この世に存在することさえ知らなかった学知や技能を習得できるという開放性・豊饒性のうちに「学び」の神髄はあると私は確信している。けれども、日本の教育者で私のこの考えに同意してくれる人は非常に少ないと思う。教育政策を提言する政治家や政策を起案する官僚の中にはたぶん一人もいないだろう。それでも、私はこれからも同じことを言い続ける。

―『學鐙』2023年夏号 特集「いま私たちが学ぶべきこと」より―

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