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ココがすごいぞ聖徳太子②

昨日は夕方から川で飲み、川でインスタライブをしました。そのインスタライブの最後に、

「では、飲み直しますー。」

と言ったのですが、飲み直しすぎてしまい、noteを書けませんでした。聖徳太子だったら、絶対にこんなミスはしないだろうなぁと思います。

というわけで、聖徳太子のお話です。よろしければ①からどうぞ。

前回は『冠位十二階』という制度が、日本における『公務員のはじまり』というような内容でした。

残る2つは、

604年 十七条の憲法の制定

607年 遣隋使を派遣

『十七条の憲法』は、日本で初めての『憲法』です。

憲法とは、権力者が守らないといけないルールです。冠位十二階でたくさん一般人を役人に採用したので、その役人達が守るべきルールを作ったわけです。

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バシッと現代語にすると、

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こうなります。

憲法と聞くと、ややこしい言葉で『条文』がたくさん並べられているものと思いがちですが、それは厳密にいうと『憲法典』というもので、本来の憲法とは、歴史、文化、伝統などを踏まえて、

「こういうお国柄でいこうねー!」

という『スローガン』を表したものなのです。

そして、憲法では第一条に、一番大事なことを書きがちです。この憲法では、

『以和為貴(和を以って貴しと為す)』

現代語でいうと『人の和を大切にしなさい』ですが、もっと噛み砕いていうと、

「みんな!仲良くしよう!!」

です。小学校のクラスの目標みたいですが、なぜこれを一番に持ってきたかというと、第二条に『仏教を深く信じなさい』とあります。

この頃、日本に仏教が輸入されて、聖徳太子も仏教が大好きだったので、どんどん仏教文化を取り入れていきます。聖徳太子と一緒になって、仏教の輸入を進めていたのが『蘇我氏』という豪族(権力者)です。しかし、以前から日本には『神道』という神社系の宗教があり、それを『物部氏(もののべし)』という豪族が支持していました。

結果、蘇我氏と物部氏が争いだすのですが、それを止めたのが、この憲法です。聖徳太子は、仏教を大切にしながら、神道を否定しなかったんです。これによって、日本国内での『宗教戦争』が防がれたといわれています。

宗教戦争って、話し合いで決着がつかなくて、相手を皆殺しにするまで終わらないんです。ヨーロッパ諸国では、対立する宗教を弾圧する戦争によって、1000年の苦しみを味わったこともあります。それを、憲法によって防いだわけです。

そして、戦争ではなく、話し合いを重んじるという、日本の伝統も、この憲法からはじまりました。

やっぱり、鬼賢いですね。


そして最後が『遣隋使を派遣』です。

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出ました!初代遣隋使『小野妹子』さんです。

この妹子さんは、聖徳太子に『とんでもない内容の手紙』を持たされて、当時の中国『随』に派遣されます。その手紙には、

『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す』

と、書いていました。妹子さんは、

妹「聖徳太子さん、、これ、あっちの皇帝に渡して大丈夫ですか?ってか、僕、生きて帰ってこれます?」

と思いました。

太陽は東から昇ります、中国から見て、日本は東です。なので『日出ずる処の天子』とは、天皇のことです。そして、日本から見て西にある中国は、日が沈むので『日没する処の天子』とは、中国の皇帝のことです。

その当時の中国は、東アジア全体を牛耳っていて、中国と、その子分しかいない感じなっていました。そんな国に対して、ちっちゃい日本が、

「天皇と皇帝やったら、微妙に天皇のほうが、日出ずってて偉いと思うけど、そこは言いっこ無しにして、対等にやったら付き合ってあげてもいいよ。」

と、まさかの上から目線でカマしたんです。もちろん、中国の皇帝はブチギレましたが、結果的に対等な外交ができるようになります。たぶん、妹子さんが、現地で相当がんばったと思われます。


これにも憲法の第一条『みんな!仲良くしよう!』が関係していて、

「日本はみんなと仲良くする国だ!だから、誰の子分でもない!」

と宣言したというわけです。

もしもここで、中国の子分になっていたら、今の日本は無かったことでしょう。そして、対等な付き合いをすることで、諸外国に『日本』という国を認めさせることにもなりました。


ということで、今の日本に多大な影響を与えた聖徳太子さんのお話でしたが、昨今の歴史学会では

『聖徳太子は実在しなかった』

という説が主流になりつつあって、歴史の教科書から、姿を消すかもしれないらしいです。

んー、嫌やな。めっちゃ好きやのに。



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