人海にて遭難せり
「あの人は目が違う。生き生きして、汗をいっぱいかくけど、匂いなんて全然気になんなくて、隣でご飯をいっぱい食べてくれる」
「あの子はお花というよりもお華。あの子と話す男の子達はいつも顔が緊張している。親しくなれば気さくだから、嫌味がなくて私の推し」
「あの人の笑い声は大きくてうるさい。私のつまらない話でも笑うし、あんなに笑顔を振りまいて疲れないのかなって思うけど、仕事で追い詰められてる時もそんな感じだし、それがあの人の自然体なんだと思う」
「新入社員のあの子は素直。ズレたことをたまに言うけど、忖度しないから感じがいい。漫然な空気を入れ替えてくれる」
だから、私がここに居ていいのか不安になる。
でも、仕事ができないあの人も、不細工なあの人も、ずっと機嫌が悪いあの人もいる。私はマシな方。
だから、大丈夫。
導火線に火のついた爆弾が私の頭の中にある。爆発しないように丁寧に扱うけど、周りと比べれば不安が募り、それが加速する。これが弾ければ私は泣く。それだけじゃなく、もっと何かわからないけど、わからない状態になる。そんな恐ろしい状態なんてなりたくないから、破裂する前に周りと比べて心を落ち着かせる。
人を見下して安心するなんて私は性悪だ。でもきっと誰でもそうだ。きっと私だけじゃない。人を見下して快感が得られるなんて人は少ないだろうけど、誰だって安心はするはずだ。それを否定する奴なんて単なる嘘つき。
鶏口牛後って四字熟語もあるくらい昔からそんなふうに言われてるし、結局人間は集団で優位な立場にいれば精神的に健康なんだ。
ああ、何も知らない子はきっと楽だろう。
褒められたことを素直に受け取って自信につなげていくんだ。その方がきっと人生幸せ。逆剥けなんて気にしなかったら勝手に治ってる。穿り返したりちぎったりするから酷くなるんだ。私はもっと巨人になった方がいいのかもしれない。社会のあれやそれは単なる些細なことのように感じるだろうから。
だけど、そんなの無理な話。もういい大人だし、人の言葉には裏があるって知っている。行間を読むだったり、眼光紙背に徹すだったりもううんざり。傷つかないためには仕方ないけど、何にも気持ちよくない。
世間的にみれば大したことはないのに、そんなことを気づいてしまう私の少しの賢さが幸せの邪魔をする。そんな中途半端な賢さだから不安と安心を右往左往してしまうんだ。
足跡なんて観察しても人のことを少しも知れないのに、私は相手の足跡ばかりを観察する。
おっきな方が強そう。すごい子もだいたいおっきい足跡。だから私も足跡をおっきくしよう、なんて。
私は無力。
綻びそうになった日はお風呂に入る。頭まで浸かって心も溶けて、イルカのように口から泡を出す。水中をうねりながら上がってく気泡が水面で弾ける。
ここが海だったらいい。海はいいから。上下左右関係なしに自由に進める。道なんてどこにもない。サメは少し怖いけど、ちょっとくらいの大きさの魚だったら私の気分次第で遊んであげる。
ただ、息苦しさはやっぱりある。一人は寂しいから。戻れないなんて思うと、慌てて呼吸さえ覚束ない。誰かが投げた浮き輪を必死に手繰りよせる、それが藁でも同じように、スイミングスクールで習ってたことなんて全て忘れてしまって。
私に魅力がないのは能力がないから、私に能力がないのは必死でないから、必死でないと能力なんてできやしない、能力がある人はみんな魅力がある。
私が一人でいないために、私は必死にならなければならない。私は常に誰かの望んでいる私にならなくてはならない。でなければ、だだっ広い海の中で私は一人になってしまう。
私は一人では生きていけない。
誰にも望まれない人になる不安を抱えるくらいなら、私は私を失ってもいい。
ただ、きっといつか。