若い人が死ぬニュースを聞くといつも悲しくなる

一日を生きるたびに死ぬ日は近づいている。これは当たり前だけれど、実感することはあまりない。夭折した著名人の年齢をたまに耳にして、あぁ自分はながく生きたなぁと耽るが、寝てしまえば忘れて、あたかも死ぬ日がこないと思いながら今日を過ごしていく。別にそれが悪いことだとは思わないのだけれど。

必ずしも人の死が悲しいわけではない。『人は死ぬとどうなるのかわからない。知る由もないことを無暗に恐れないでいい』『死ぬことは生を受ける前の状態にもどることであり、生きている状態が特異なのだ』などと哲学者が教えてくれもするだろう。だからというわけではないが、

私にも悲しくない死を体験したことがある。

私の祖母は離島の集落に一人で住んでいた。十年ほど前に夫を亡くしたけれど、親族も近くに住んでおり、また人付き合いを好んでいたので、常に賑やかだった。その年の夏、彼女は風邪を長引かせてしまった。近くの親せきが面倒を見てくれていたので、困ったことは無かったようだ。治った後も寝たきりだったせいか足を動かすのが億劫になり家に閉じこもるようになった。しかし、相変わらず口は達者で人を家に招いていたようだ。ただ、祖母の元気はどんどんなくなっていき、その冬に彼女は入院した。祖母は病院のベッドで、「いつ死んでもいい」と優しい顔で看護師に話していたようだ。そして、朝方に大往生を迎えた。自由奔放な人だったがとてもきれいな終わり方であった。祖母に会えなくなったことを寂くも思うが、それだけでなく、嬉しさという真逆の感情をも抱いていた。なぜなら、

寿命を全うした彼女の死に方は理想のように思えたからだ。

病床についている祖母が看護師と話している姿を想像すると、自然と笑顔になっていたのだ。


老体を死に至らしめるのは簡単で、少しのきっかけさえあれば、死が顔を出す。祖母の場合は夏に風邪を引いたことが原因だ。誰もがいずれ死ぬのだから、祖母の風邪のことを不運だったなんて言わないだろう。しかし、若い人の死は風邪のように些細な事象がきっかけでなく、それらが幾度にも積み重なる不運によって起こる。そして、いつの間にか死の淵まで追いやられるのだ。

恨まれるような性格ではなく、特別に体を酷使したわけでもなく、責任感の強い頼りになる人であるし、安全運転を心がけている、そんな普通の人が突然に死ぬ理由は、10秒早く家を出ていたらぶつからなかっただろうトラックや、違う病院で検査していたら早期発見できただろう病気、たまたまスマホの充電を忘れていた時に発生した災害という不運な出来事の重なりである。彼らは導かれたように死の淵へ向かっていくのだ。身体の強さも心の強さも人づきあいのよさも関係なく、ただ、少し運が悪いだけで。

その不運を私は悲しまずにはいられない。

勘違いしてはならないが、彼らは同情するような人生を送ったわけではない。「これから様々な未来があったろう」「もっと生きたかっただろう」「これから楽しいことがたくさんあったろう」などと言葉をよく聞くが、これは大きな間違いだ。彼らの人生で不運なのは終末の出来事だけである。そこまでした生活は終末に関係なく色褪せない。彼らの将来の生活を空想し、もっと楽かっただろうにと想像するのは、彼らが生きてきた人生を憐れむ行為だ。

人生に対して同情されれば私なら腹が立つ。勝手に俺の人生を可哀そうと思うなと怒鳴りつけたくなる。私は成し遂げたことが何もないまま終わってしまうが、多くの人に支えられて幸せだったと、やせ我慢してでも言ってのけるだろう。終末にかかわらず、他人の人生は憐れむものでない。

私は若い人が死ぬニュースを聞くといつも悲しくなる。彼らの寿命を全うできないほどの不運な一日を想像して私は悲しい。

あぁ、嫌だ。若い人には生きてほしい。

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