蝉の一生
冷蔵庫で冷やしたお茶を水筒に詰め替えた。冷感タオルも首に巻き、寝ている妻を起こさないように静かに玄関の扉を閉めた。朝七時十分、自転車で駅に向かえば余裕を持って会社に間に合う時刻。昨日から気の早い蝉が梅雨にもかかわらず鳴き始めていた。
大人になった今となっては大した意味のない記憶だけれど、この自信無さげな蝉の声は高校時代の私を思い出させた。懐かしいようで、しかし、毎年思い出し、風化しない。肺の底に溜まった一匙の空気。それが鼻に抜けて現れる季節だった。
朝、丸坊主の彼は私の家の前で待っていた。私が自転車で彼の隣に並ぶと勢いよく漕ぎはじめてスタートするのが暗黙のルール。それでも毎日チャイムと同時に門を通過するほどギリギリの登校になった。私を待たなくてもいいと何度も言ったが、「この習慣はもはや義務だ」と彼は笑うのだ。私を急かすこともなくただ純粋に楽しんでいた。その理解できない彼の行動のおかげで、私は高校の3年間で皆勤賞をとることになった。
初春に彼がtwitterでバズったことがあった。ミームに乗っかったダンスの動画だ。その際にフォロワーは一気に増えた。それから月に何度か彼はバズった。誰にも教えていない私のサブ垢にも投稿が流れてくるほどだった。羨ましさがないわけではないが、高三のモラトリアムに駆られてか、私は彼に冷ややかな気持ちもあった。
「俺も承認欲求満たされたいからtwitterの伸ばし方教えてくれん?」
「承認欲求?」
「ほら言われてるじゃん。フォロワーが多いと承認欲求が満たされるって」
「その感覚がよくわかんないんだよね。たぶん、」
信号が変わり、私は彼の返事を待たずに自転車を走らせた。しかし、彼はすぐに追いつき、「本気やればお前の方が人気になると思うよ。センスもあるし、顔がいいのはやっぱり強いから」と息を切らしながら言った。そして続けて
「基本は真似。自分を出したいなら有名になってからやればいいよ」と言った。
「承認欲求が満たされないなら別に興味ない」と私は応えた。
グラウンドが見えてきた頃、シャツは汗で体に張り付き、呼吸は荒くなっていた。覆い茂る葉に隠れた蝉がどこかからうるさく鳴いていた。
「じゃあ、お前が昨日twitterに投稿したやつって誰をパクったの?」