憧れの人に会った話。
もうかれこれ5年程前の話だと思う。
とある先輩俳優さんと新宿で飲んでいた。互いの近況を喋ったり、仕事の愚痴を語ったりと内容は他愛の無い物だ。そのごく当たり前な景色ですら、今では遠い過去に感じるのが不思議な所でもあるが。
一軒目の飲み屋を出て、もう少し飲もう、でももう腹はいっぱいだという局面に差し掛かった。そういう時におあつらえ向きなのが「新宿ゴールデン街」だ。
以前このエッセイにも書いた映画会社での丁稚奉公をしていた時代から、僕はよくゴールデン街で飲んでいた。思い出は数えたらキリが無い。店で働く人も、そこで飲んでいる人も実に不思議で変わった人が多かった。数多い飲み屋街の中でも「地元の常連」が少なく、かつ「誰とでも喋れる」という特殊な街だった事もあり、友達も沢山できた。その時の話もまたいずれ。
狭い路地にぎゅうぎゅうと肩を並べる店々は、満員電車のそれを彷彿とさせる。店構えには視覚に直接訴えかけるようなネオンの色気が漂う。よく「映画みたいな景色」と例えられるが、僕から言わせると逆だ。この景色が映画を作らせるのだ。原材料の街。それがゴールデン街。
先輩の幼馴染がそこで店をやっているという。店は2階にあり、ほぼ梯子のような急勾配の階段をのぼる。扉を空けると、6人も入れば満席じゃないかというカウンターが広がる。店内には70年代の古いロックがかかっており、壁に寄りかかった酒棚には、洋酒から日本酒まで有象無象に置かれる。白いポスカで名前を書かれたボトルも目立つ。
そしてその脇、酒棚の横には無数のステッカーが壁に直接貼り付けられていた。その多くがバンドのそれだ。ライブグッズ用のステッカーであったり、「入館パス」と呼ばれるライブ関係者だけがもらえるシール(これを貼っている事でライブハウスの裏口に入れる仕組みだ)であったり。その殆どがマジックペンで殴り書かれたサインと共にそこにあった。
ひと際目を引いたのを覚えている。
名前を出すことは差し控えるが、今でも僕が愛してやまないとあるバンドのメンバーによるサインがそこにはあった。かつて武道館の舞台上でその御姿を拝み、客席に居る僕が興奮したあの人のサインがあるのではないか。
「ココに来たことあるんですか?」
興奮気味にそう訪ねた。
「よく来るんだよ。しょっちゅう」
何という事だ。大好きな、憧れの人の行きつけ店に、ひょんな形でやってこれた。まったく人生とは何が起こるか解らない。くじ運が良いと言うべきか、日頃の行いの賜物か。上機嫌で酒がすすんだ。
そこから、1時間ほど飲んでいた頃だろうか。先輩と僕の2人しか居なかった店内に、3人目の客がやってきた。顔を見て驚いた。
件のその人ではないか。
当時(現在もだが)、「ギョーカイ」と呼ばれる世界の端くれに居る存在として、演者やプレイヤーといういわゆる「芸能人」に会った時に声をかける事がご法度である事は百も承知だった。特にこういう状況ではマズい。
例えば、道端ですれ違う程度であれば、まだ声をかけても眉をひそめる人は少ないだろう。「ファンです、頑張ってください」と端的に声をかければ、大抵「ありがとう」的な感謝の言葉が返ってくる。あとはすれ違い歩くだけ。大した労力も無い。
ところが今はバーに居る。今まさに入ってきた客だ。少なく見積もっても後30分はこの店に居るはずだ。声をかけてしまう事で、その30分を「オフの時間」から「オンの時間」にしてしまいかねない。そうなると向こうは同じ「ありがとう」でも感謝ではない、「勘弁してくれよ」が混ざったありがとうを発する可能性がある。それは至極恐縮。避けたいものだ。
しかし、そんな僕の想いに反してバーの店主は「声かけろ」と目配せをしてきた。よくみると、相当ご機嫌に酔っ払っている様子だ。確かに今なら、チャンスなのかも知れない。
思わぬアシストを受け、勇気を振り絞り、僕は声をかけた。緊張のあまりなんと声をかけたのかうろ覚えだが、「すみません、ファンなんです」と言った気がする。果たして返ってくるのは純度の高い「ありがとう」か、はたまた混ぜ物の多い「ありがとう」か…。
「あ、そうなの!嬉しいね、ありがとう。あ、コレ肉まん、食べる?」
皆さんも覚えておいた方がいい。時には「ありがとう」に肉まんが混ざる場合があるのだ。
その人は近くのコンビニで肉まんを5,6個買って持ち込んでいた。理由は解らない。きっと酔っているからだろう。少なくとも、その内の1つを頂き、僕は一緒に食べた。憧れのロックスターと一緒に並んで肉まんを食べたのだ。中々経験できないエピソードに違いない。
そこから、少し話をした。と言ってもミーハーに「あの曲が好きです」みたいな話題は避けた。「よく来るんですか?」とかそんな感じだったと思う。どちらかというと酔っ払った先方がひたすらに喋るトークを、ラジオの如く横で楽しく聴いていた印象だ。憧れの人が語る話は、どんな些細でも嬉しい。
程なくして、彼がトイレに離席した。そこで初めて現実感が湧いてきたのを覚えている。あぁ、俺今憧れのあの人と飲んでるわと。
丁度、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコヨコハマヨコスカ」がかかっていた。♪デレデデッデ♪のベースラインは誰でも解る。むしろ、大喜利の解答前にフリ曲として使われている印象で記憶している人も多いはずだ。
まさにそのときだ。「あんたあの娘の何なのさ」と語るあの場面でだ。店の扉がスパン!と開いた。
憧れの人が、フリチンで立っていた。
腹がちぎれる程笑った。聞けば、特に意味はなかった。音楽が丁度いい箇所だったから、なんかしなきゃとフリチンで戻ってきたらしい。
こんな事を書くのもアレだが、ロックスターのフリチンを見たという女性ファンはきっと実は少なくないのだろう。いわゆる出待ち文化に始まり「抱かれたい」という女性も少なくないはずだ。ロックスターもまた、モテたいという想いが根底にはある。需要と供給は合致するのだ。
ところが、憧れのロックスターのフリチンを見た男性となると途端に数が減るだろう。立ちションで隣り合っても中々見る物ではない。需要が無い。しかし僕には驚くべき形で供給された。
そう僕は、憧れの人と隣で酒を飲み、肉まんをもらい、フリチンを見た事があるのだ。それもすべて、たった一夜にして。
最近その人の曲を聴いた。相変わらず、何かの型に囚われない不思議な音を奏でる人だった。友人が「アメリカの西海岸な音だ」と形容した事がある。
でも僕には、新宿ゴールデン街の、肉まんとフリチンに挟まれた音に聴こえる事が誇らしい。