夏休みの父との思い出の話。

夏になると思い出す話がある。

子供の頃、その人生は「初めて」でまみれていた。初めての海、初めての動物園、初めてのテスト、初めての恋。しかしあの時は気づかなかったが、僕の父もまた「父親が初めて」だったんだなぁと感じた話だ。

父はあまり家に居なかった。以前このエッセイにも書いた事があるが、放送作家として働く父は夜が遅く、昼前に動き出す生活が主だった。「おはスタ」を見てから学校へ向かう僕と妹にとっては、出会う事のない不思議な存在であった。存在は知ってるけど、いつでも会えるわけじゃない。トトロのような存在だ。

そんな父の父、僕にとっての祖父は父がまだ中学生の時に事故で他界している。当然僕は会った事が無い。父もまた、その記憶はおぼろげだそうだ。

父に、祖父の思い出を聞いた事がある。

祖父もまたロクに家に居ない男で、聞けば夜になるとジャズバーで「バンドネオン」を弾いていたそうだ。バンドネオン。楽器の中でも屈指のチャラさ。そもそも名前の響きがいやらしい。「バンドネオン」。さぞモテただろうに。羨ましい限りだ。

そんな祖父が珍しく、昼間から家に居た。まだ小学校低学年の父は、軍艦のプラモデルが好きでよく作っていたらしい。ところが、主砲だか副砲だかが折れてしまい、ピーピー泣いていたそうだ。それを見た祖父がゆっくりと父に近づいた。父は咄嗟に「怒られる」と身構えた。しかし。

「もっと面白い遊び方知ってるか?」

そう言うと祖父は「鉛筆のキャップ」を取り出した。銀色で尖った、鉛筆に装着するあの靴下のようなキャップだ。今はそんな事無いと思うが、当時のキャップはアルコールでコーティングがされ、引火性があったらしい。祖父はそれを利用してプラモデルで遊ぶというのだ。

キャップを鉛筆にはめたまま、ライターで火を点け、炙る。アルコールのコーティングも相まって、キャップは小さく燃え、次第に溶け始める。溶けた金属は、アルコールのコーティングを孕んだまま、ポタポタと垂れ、プラスチックで出来た軍艦に降り注ぐ。垂れた金属もまた燃えている。この熱により、軍艦はみるみるうちに溶け、どんどんと朽ちていく。それはまるで、戦闘機の爆撃を喰らいながらも生きながらえようと必死に抗う軍艦のそれのようだったと言う。

父は、大興奮したそうだ。

それまで「完成したら終わり」と思っていたプラモデルに、いわば本当の終焉をもたせ、更にそれをエンタメにしている。しかも、プラモデルを壊す遊びなのでチャンスは1回。その刹那もまた、なんとも色っぽいではないか。

これが父と祖父の数少ない思い出だ。いや、言わなくていい。僕も解っている。代わりに声を高らかに言おう。「いや、唯一のエピソードがそれかい!!」どう考えてもおかしい。

そう、父は「父親像」を持っていないのだ。まして中学時代を超えた息子との向き合い方、付き合い方など知る由もない。僕らが人生の初心者であったように、父もまた「父親」の初心者だったのだ。

あれは確か僕が中学生に入ったばかりの頃だったと思う。夏休みを利用して、家族で海へとでかけた。昔から大の海好きである父は、普段は全く家で出会えないが、夏休みの海旅行だけは欠かした事が無かった。僕も昔から沢蟹の捕まえ方や、「しっとこ」と呼ばれる小さな渦巻貝の食べ方をよく教わった。トトロは夏の海にだけ現れるのだ。

そんな海旅行での事。僕はすこーしだけ沖を泳いでいた。海に入った時の事を思い出してもらえば想像は容易いと思うが、つま先立ちで「トントン」とステップしていると溺れない程度の深さの場所だ。厳密には足は届いてないのだが、海に慣れていればまぁ何とかなる深さだ。

ゴロン、と音がした。

僕がステップに利用していた岩が崩れて転がったのだ。足場は無くなり、一瞬でそこだけが深さを増す。ほんの一瞬ではあるが、僕は溺れた。

驚きはした。けれど、もうこの春に中学生になった僕だ。「算数」から「数学」になった僕だ。もう泣いたりだとか、騒いだりもしない。「あっぶね!」で済む話だ。

ところが父は、驚く事に僕を抱き上げ、よしよしと頭を撫でたのだ。

いや、父よ。違うって。もうほら、中学生だし。みて? 全然平気だし。いや恥ずいし。ほら、遠くで子供も見てるし。ダサいって。やめてよ。

けれど、そこに僕は「子供を演じなければ」という責任感を感じてしまった。幼心に、父に恥をかかせたくなかったのか。或いは、中学生になった僕でも、父に初めて抱き上げられた事が嬉しかったのか。

僕は、嘘泣きをした。

ご丁寧に「びっくりしたよぉ」などとアドリブも噛ましてみた。毒を食らわば皿まで。やるなら徹底的にだ。

父は、僕をなだめながら浜へと上がり、コーラとカルピスどっちがいいか聞いてきた。もうシュワシュワだってとっくに飲めるというのに。

夏になると思い出す。あの時飲んだカルピスの味は、いつもと違う不思議な味だった。そしてその味を僕が味わう事はもう無いのか。

いや、いつの日か、息子が出来たら味わうのかも知れない。


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