出来ない事の話。

年始に発表された無情報の新作に向けて、珍しく「シナハン」という作業を分厚く行なっている。
「シナハン」とは「シナリオハンティング」の略で、簡単に言えば取材である。関連書籍や、場合によっては現地に出向くパターンもあるのだが、今回はひたすらに本の虫と化している。
蛍光ペンをすぐに忘れる僕の本は、片耳が殆ど折れている。折り過ぎてどの箇所が大事か解らなくなりそうだが、それだけ学びの多いシナハンだったと自分に言い聞かせている。

昔から勉強は苦手だった。一方でウンチクが大好きな少年であり、余計な知識ばかり溜め込む性格でもあった。そのせいだろうか、この「シナハン」はあまり苦ではない。
どちらかというと、楽しくて仕方ないと思っている。40本以上書いてやっと見つけた1つの「自分の書き方」に驚嘆している。こんな手があったのか。もっと早く教えてくれよ、と。

この気づきの遅さには明確な理由がある。
「苦手意識」だ。
自分は「勉強が出来ない」と決めつけていたせいだ。

よく「売れるにはどうしたら良いですか」と聞かれる。
相手は若い俳優であったり、同じ作家であったりと様々だが、言えるのはたった一言だ。
「知らん。むしろ、教えてくれ」。
むしろそんな「必勝法」みたいな法則は存在しない気もする。もっと複雑に、いろいろな要素の絡み合いが結果を生むと思う。

ただ、この仕事をやっている上で「売れない理由」は少なからず解るようになって来た気がする。
それがこの「出来ない」事だ。

先に言っておくが、出来ない事があるというのを責める気は毛頭ない。仕方がないのだ。誰にだって出来る事と出来ない事がある。では何がいけないのか。
僕は、「出来ない」をそのままにしてはいけないと常々思うのだ。

「私、◯◯出来ないので...」とよく口にする人がいる。
そうすると、そこで終わってしまうのだ。
始まりも何も無い。
出来ないからといって責められる事もないだろう。
ただ、かと言って褒められる事も無いのだ。

ではどうすればいいのか。
「出来ない」を「出来る」にすればいいのか。
簡単に言いやがって、それが1番難しいのだ。
と思うだろう。果たして、本当にそうなのだろうか。

今皆さんの頭の中に自分が出来ない事を思い描いて欲しい。そしてそれが何故出来ないのか、理由を考えて欲しい。
例えば「英語」としよう。英語を話すのが苦手だ、英語が出来ないとする。何故出来ないのか。英語圏に生まれなかった自分の悲運を嘆くのか?いや、それでは意味がない。日本生まれで英語を日常的に使いこなす人など五万と居る筈だ。
では何故出来ないのか。
答えは簡単だ。
出来ようとしてないからだ。

「出来ない」と言う人の殆どが、そもそも「出来る」になろうとすらしていない。
まるで英語が出来る人というのは、潜在的に、或いは瞬間的に英語を学んだと思ってるようで、「自分にはその才能や機会が無かったから出来ません」と平気で言うのだ。
何を言う。出来ないんじゃない。
君は、やってないじゃないか。

僕は自分の舞台作品の為に都度都度作曲をする。
「よく曲なんて作れますね」とよく言われる。
僕から言わせれば何を言ってるのか解らない。
作る必要と作りたいという思いがあったから、出来るまでやっただけだ。今でも作曲が出来るとはあまり思ってない。ただ、出来ないで終わらせる事が嫌なので、出来るまでやってるだけだ。

何となく、伝わるだろうか。
出来ない事なんてないのだ。
出来るまでやるかだけなのだ。
まして今やこれだけの情報が無料で閲覧出来る。調べれば良いだけではないか。

少し偉そうに書いてしまったが、僕にだってどうしても出来ない事は、ある。
例えばそれは「バンジージャンプ」だ。高い所が苦手な僕は、それが「出来ない」。「出来る」にする努力はしていない。
しかし、これは僕の「出来るようになりたい」に全くもって含まれていない。
少なくとも今までの人生で、バンジーが飛べないせいで困った事も無ければ、今後もそんな予定は入りそうにない。

だから、自分の「なりたい」には必要な「出来る事」を列挙し、その中に「出来ない」が含まれてた場合、「出来る」となるまでやる。それだけだと思う。

根性論や体育会系のソレではない。
皆難しく考えすぎだと言いたいのだ。
例え出来るまでに10年かかったとしても、出来ないより良いではないか。

この世に出来ない事は殆ど無い。
あるのは、出来るまでやらなかった自分だけだ。
そんな事に気付かされ、突き動かされるように猛勉強をしている。果たしてこの量の本を読破して、且つ執筆に間に合うのだろうか。
否、出来ない事はこの世に無いのだった。

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