ある虐待の記事のこと
先だって、ある方と児童虐待の話をしていた時に、ふと、私の子どもがまだ幼かったころに読んでいた子育て雑誌「プチタンファン」の記事を思い出した。
その雑誌には、ほぼ毎回のように、子育てに悩む母親たちのさまざまな悩みが投稿されていた。その中で頻繁だった投稿は、子どもを強く叱ってしまう、というものだった。
ある母親は、「どうしても子どもを叩くことをやめられない。やめたい。でも、叱っているうちに、どうしても手が出てしまう」と書いていた。それに対して別の母親が「自分もそうだった」と言い、自分はどうしたかを投稿していた。子どもを叩きそうになると「1、2、3……」と大きな声で数をかぞえる。そうすると、その間に冷静さが少し戻ってくるんだ、と。
子どもを叩いてしまうという行為は、どこか直線的なイメージがある。そしてその記事を読んだ時に感じたのは、「1、2、3……」と数をかぞえることで、その直線が折れ線になるような印象だった。
人間の身体には複数の関節がある。だから、たっぷりと水が入ったコップを、水がこぼれないようにそっと持ち上げて口元まで運ぶことができる。関節があるから、対象にソフトランディングすることができ、行為がなめらかになる。
アフォーダンス理論(生態心理学)という知覚の理論がある。
この理論の中に、マイクロスリップという概念がある。
人間の行為、たとえばコップをつかむという行為をつぶさに観察すると、手のひらの形が、コップの取っ手を掴む直前で、取っ手の形に合わせて微妙に変わる。マイクロスリップは、「スリップ」とはいうものの、錯誤でもミステイクでもなく、環境の情報(アフォーダンス)を探索するための、行為の小さな変化のこと。
我々が何かを話そうとして、「えっと…何て言えばいいかな…」というようなことがよくある。言いたいことがあるのだが、それを正確に言い当てるための言葉を探っているのである。これは思考(言葉)のマイクロスリップである。
マイクロスリップには、どこか「ためらうこと」という印象がある。
ためらうこと、例えば「言い淀むこと」には、複数の関節が入っている。
行為は、あるいはなめらかな行為と見えるものは、小さな凸凹、起伏、つまりはマイクロスリップの連続なのだろう。
「1、2、3……」と数をかぞえること。
その母親が日々の葛藤の中で編み出したこの工夫は、叩いてしまうという直線的な行為に、とてもぎこちない形ではあるけれど、ためらいを持ち込むことだったのではないか。
そしてためらうことは、丁寧に生きることの別名なのではないか。
日々、TVやネットで流れる様々な暴力のニュースに、心底うちのめされ、暗澹とする。
ささやかでも、自分自身の中に、心のバランスを保つための抵抗の拠点をもっておきたい。
(文責:いつ(まで)も哲学している K さん)