見出し画像

§10.6 カン詰め議員/ 尾崎行雄『民主政治読本』

カン詰め議員

 道理にもとづいて行動することを許せば,私党の結束はみだれる.そこで私党は党員が道理を見ないように,たえず彼等の良心に目かくしをしておかねばならぬ.日本の政党がことごとに党議と称して,議員の行動をそくばくするのは,議員を良心のないでくの坊にし十ぱ一からげの軍隊組織となし,頭数の勝ち負けで我意我欲をほしいままにする私党の本領をばくろした証こである.
 結束と称して議員を宿や待合にかんきんしたり,温泉場にカン詰にするなど,まるで昔のばくちうち仲間の喧嘩仕度のようなまねをしてまで強制せられた議員が,べつにふんがいするでもなく,世間もまたこれを非難しない.
 かくてこれまでの政党は自由の牢獄,良心の屠殺組合である.自由と良心を生命とする議員なら,とうてい安住することのできない化物屋敷である.
 一たい議員の使命は政府をかんとくすることである.この使命は政府党でも在野党でも同じことだ.政府党なるがゆえに,よくも悪くも政府の味方をしなければならぬと考えるのはまちがっている.内閣員以外の議員は,政府党であっても政府をかんとくする責任をもっていることを忘れてはならぬ.
 公党はそうであってはならない.ひとえに国家国民の利害休せきを念とする議員である以上,つねに完全に自由な良心の判断にもとづいて,議案の賛否を決するのが当然である.たとえその案の成否が,自党の内閣の運命に関する場合でも,その案の成立は国家国民のために不ためであると自分の良心が判断すれば,自党の利害なぞは眼中におかず,かんぜんとして反対する.それが公党の面目,議員の本分である.
 こういえば,封建思想の亡者どもは,例によってそれは理くつで実行はできない.そんなことをすれば,政党の結束が乱れるのみならず,党を結ぶ意味がなくなるというであろう.しかし,そういうことそれ自体が私党根性の告白で,そんなことはできないどころか,欧米の議会では,そんなことは珍しくも何んともないあたりまえのこととしてくり返されている.


←前:§10.5 “男を女にすることはできない”

次:§10.7 英米の政党を見よ→

目次に戻る


底本
尾崎行雄『民主政治讀本』(日本評論社、1947年)(国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438958, 2020年12月24日閲覧)

本文中には「おし」「つんぼ」「文盲」など、今日の人権意識に照らして不適切と思われる語句や表現がありますが、そのままの形で公開します。

2021年4月8日公開

誤植にお気づきの方は、ご連絡いただければ幸いです。

いいなと思ったら応援しよう!