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長崎観光入門①長崎の歴史

長崎の歴史を俯瞰する

女子短大の図書館にもある「日本大百科全書」のWeb版「長崎(市)」の項をChatGPTにまとめてもらったのが次の文章。

中世末、長崎小太郎が鶴城を構え、長崎甚左衛門が開港しポルトガル船が来航。豊臣秀吉の時代には朱印船貿易が盛んに。江戸時代にはキリシタン文化が栄え、禁教後は商業が中心となり、幕末の開国後は近代化が進み、1945年には原爆被害を受けた。

貿易・多文化・造船・原爆・平和、というのがよく出るキーワード。

原爆の惨禍から平和都市へ
昭和の大戦前大都市だったので核攻撃
水産・石炭・造船の産業で大都市へ
貿易減少で水産・石炭・造船に転換
海外との貿易その他交流で多文化

では、海外との接点ができたのは…

長崎は、日本の「頂点」にあったから。


ちょっと待って。日本の頂点って、地図上の頂点なら、北海道の稚内とかじゃない?と思う方。

写真は日本最北端の地。偶然ながら同じ二等辺三角形。

ふつうはそう考える。でも、長崎ができた中世末期や、江戸時代初期は必ずしも「北が上」というメルカトル図法の地図ばかりではない。江戸後期の伊能忠敬の時代はまだ先だ。


左の図は「大日本国図」を手書きで写したもの

九州が上にある上記の地図概念では、その先にアジアの島々や海辺の地域が広がる。

長崎空港から飛行機で飛び立つと、この長崎半島・島原半島が横たわり、先に海が広がる風景をみることができるときがある。


最初の三角形であえてつくりなおすとこういう概念図

地政学という考え方がある。とりわけ国際政治を考察するにあたって、その地理的条件を重視する学問だ。これの結果の積み重ねが歴史になる。前期のような地理的関係にあることから生まれる歴史をここでは「長崎の地政学」と呼んでみる。

「頂点性」の維持・発展が長崎が持続するために不可欠。

中心から遠く、福岡よりもさらに端っこにある辺境の地のイメージ

「長崎の地政学」で考えれば、長崎観光の将来は(福岡空港を活用した形その他の)アジアからの旅行者。(「地経学」なのかも…)


地震があった能登半島でもわかるように、一般に、日本では大都市が半島の先に形成されることは珍しい。(注:水田農業と関係あるのだと思う。)日本各地の半島をみたときに、先に大きな都市が形成されているのはまれ。蝦夷地(北海道)と本州を結ぶ函館、世界とつながっていた長崎の2つ。


半島の先には大都市はなかなか形成されない


実際には中国は事実上海禁政策に近かったので、外国勢力はインド方面から登場する欧州諸国のみ


本筋とはそう関係ない話だけれど、長崎は比較的新しい都市である。

長崎の歴史のキモは、「開港により貿易都市として生きてきた」「禁教・鎖国があっても、貿易都市としての性格は変わらず都市としてはマイナーチェンジ」「開国による影響が徐々に出て貿易都市ではなくなる」「造船・石炭・水産(食品産業)、とりわけ造船をはじめとした重工業の役割が大きなまちとなる」「(その都市モデルの限界を予感していたのか)新しい形を模索したのが100年前の大正期」「現在も転換を模索」というところ。


長崎の歴史を「時系列」でみていく。
①ヨーロッパがやってきた

長崎の歴史は、長崎単体(あるいは国内だけ)でみてもよくわからない。


長崎港からみる湾口

長崎の歴史は、世界史とドッキングしてみてはじめて意味を帯びる。

ポルトガル人たちの要望を受けた長崎開港は、ポルトガルがマラッカ王国(現在のマレーシア)を滅ぼしてから60年後。

マラッカ(マレーシア)の中心地オランダ広場。平戸の中心部に雰囲気が似ている。

ヨーロッパ(ポルトガル)は、アフリカ・モザンビーク、インド・ゴア、マラッカと近づいて来て、マカオの居住権を獲得し、長崎にも到達した。

マラッカを押さえたポルトガルは、長崎へアプローチ。

時系列の長崎史②長崎に食い込むヨーロッパ、アジアに飛び込む日本

ヨーロッパは長崎を飲み込み、さまざまな反作用。同時に教会が多数長崎に設けられ、「小ローマ」の様相

くんちの奉納御朱印船

日本人も東南アジア各地に広がる。グローバルパワーだった日本。

日本ASEANセンターウェブサイトから転載
https://aseanpedia.asean.or.jp/partnership_history/

時系列の長崎史③禁教と鎖国に向かう長崎

行きつ戻りつしながら禁教・鎖国へ
二十六聖人

時系列の長崎史④500年に一度のまちづくり

長崎市役所のウェブサイトより。「100年に1度の長崎」

両サイドに寺院(当時は防災・防衛の拠点)を並べ、反乱や外敵の侵入を長崎で迎え撃つ。

最初の図にはめ込むとこうなる。

1808年の英国フェートン号が長崎・出島にオランダ船を偽装して突入し、オランダ商館員を拉致していった事件はまさに筋書き通り。

時系列の長崎史⑤栄華の港町・長崎

オランダ東インド会社の船や唐船が入港する豊かな都市として繁栄

意外と知られていないが、長崎が直接交易していたのは「オランダ東インド会社」の拠点があったインドネシア・ジャカルタ。幕末出島に植えられ現存する「デジマノキ」は東南アジア原産の木。

時系列の長崎史⑥押し寄せる異国船

ロシアの版図がアジア東岸に届き、イギリスがインドをほぼ平定し、アメリカが太平洋を渡ってくる時代となり、長崎にも異国船の来訪が相次いだ。

時系列の長崎史⑦産業都市長崎へ(※世界遺産の回で詳述)
~造船、石炭~

時系列の長崎史⑧産業転換を模索する長崎

授業では触れなかったが、造船・石炭・水産は、もし「昭和の大戦がなかったら」長崎の主力産業としての寿命はもっと短かったかもしれないと思っている。韓国中国の造船業の隆盛を見ると、人件費が安かった朝鮮半島南部沿岸や租借していた大連が造船業のメッカに早晩なっていたのではないかと思う。また、石炭は「満洲國」で露天掘りの炭鉱がみつかり、軍艦島などのような環境的に厳しい石炭産業は早々に消えていた可能性があると思う。水産についても、釜山や大連が拠点になっていたのではないだろうか。
そう考えると、たまたま敗戦で「内地」での造船・石炭・水産の拠点が必要になり長崎がその後も発展できたのではないかと思えてならない。今と似たような取組が為されている背景には、同じように、100年前の人々も、これら産業は長崎が将来的にずっと依存できる産業ではないと思っていたのかもしれない。

時系列の長崎史⑨世界初の核戦争の戦後と復興

時系列の長崎史⑩世界最先端の人口減少/「ひと」が重要な時代へ

ほぼ予想されたとおりのペースで人口が減少

ただ、長崎市は30万人台になったとはいえ、長崎都市圏は人口70万を超え、静岡市よりも大きな規模(面積的にも静岡市は長崎都市圏と同程度)。全国的に見ても「小さな都市」ではない。
ここから先の歴史をつくるのは(講義を聴いている)みなさんだ。

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