GAKUルーツ《田故知新》VOL.4
このところの暖かさで田楽座のまわりの雪も解け、伊那谷の景色もかなり春めいてきました。雪かきスコップ、もうしまっちゃっていいかなあ~
さて、今回のGAKUルーツは!
田楽座の舞台創造の拠点・稽古場『創造の館』が建設&竣工した1980年代後半~1990年代前半の田楽座新聞よりピックアップ。
歴代の先輩が稽古を重ね汗を流し、舞台作品を創り、そして全国から何百何千人もの芸能lover田楽座loverを迎えてきた、稽古場『創造の館』。
自分たちの文化発信拠点をつくるんだ!という壮大な夢に向かって奔走した先輩たち、資金繰りにご協力ご支援くださった本当に大勢の方々のおかげで今の田楽座の活動が成り立っていること。
日々感謝の心で稽古せよ、ですね!!!
この創造の館の「建設ニュース」連載から抜粋して記事をご紹介します。まず、この創造の館を設計した山住さんの寄稿から。建築と建築史に興味のある方、きっと深くうなずくこと間違いなし。
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1986年9月1日
【建設ニュース】
『稽古場の設計にあたり』 建築家 山住博信
第一期工事の建設に始まり、いよいよ念願の稽古場の建設が具体的な形で動き始まろうとしています。……
昨年の暮れより建設地である現在の施設の南西側の土地の実測と基本計画案の作成に携わり、望まれている稽古場の在り方や、民俗芸能の行われて来た歴史性をも含めて、私なりに整理をしてみたいと思います。民俗芸能の発展と継承を掲げて健康で明るく底抜けに楽しい舞台を目指して、全国的に活躍している田楽座の今後の舞台や、屋内外空間における演技内容が観る人にどのような感じ方で鑑賞され、関り合っていくのかを考える上でも、単なる体育館的な「稽古場」ではいけないと考えられます。……
基本計画案では、間口十間奥行七・五間の大空間を木造で組む事とし屋根の形は、力学上最も安定性と合理性を兼ねた三角形の形をとり、天井近くには、日本建築(民家)のもっている梁組みを格子状に組む事により美しさと横力を伝えるように、計画しました。……
日本建築特有な建築空間である中間領域を持った空間(庇下空間など)を稽古場に取り入れる事にして、柱の上部から小屋組みを受けるのぼり梁(丸太)を掛ける事にしました。更に、屋外空間でもなく屋内空間でもない空間領域は、日本文化の曖昧性の建築的空間化と考え、……
そして、柱を通して外部から観るという民俗芸能が舞台だけではなしに外界とのつながりの「場」においても、実験、研究していく上でも手がかりになるのではないかと考えています。
民俗芸能の継承と発展を掲げて二十年余、伊那の大地で根を張っている田楽座に、民俗芸能の今後を探る上で、あるいは舞台をより以上発展させていく上で、多様性をもった建築空間での稽古場が今一番求められているのではないかと感じます。
次に、創造の館が「田楽座員の専用稽古場」ではなく「地域の文化拠点」でありたいと当時から思い描いていたことが分かる記事。
**********************************1987年3月1日
【建設ニュース】
……住民が誰でも気軽にいろんな催しものをやれるホールも、又必要となるでしょう。
田楽座の稽古場は、その気軽なホールの一つとなるのかもしれません。稽古場といっても、予算の都合で諸設備が完備されたものとはならないでしょう。高烏谷山の高台(八百米近く)にあって、町から少し離れていますが、
「個人コンサートをしたいけど」「家族づれで見れたり、聞けたりするところはないかしら・・・」「婦人会でちょっと催し物したいンだけど」「夏に休みを利用して涼しいところでシャレたコンサートでも」「サークルで本番前の練習をしたい」など、空いている日程を見つけて使える、そんなみなさんへの〝場〟とはなるでしょう。
1987年10月1日
【建設ニュース】
……創造の館ができたらどんな事をやろうかと皆いろいろに考えています。例えば年に一度、富県の九〇〇〇番地でお祭りをしよう。今、九〇〇〇番地に住んでいるのは、田楽座とたかずや鉱泉とたかずや保養園の子ども達、戦後人が住み始めたので、お祭りがありません。いつも他人にはお祭りを見せているのに、その子供はお祭りをやったことがないなんて変ねえということなのです。
また、地域の人と一緒に学習会、小さなコンサート、寄席と夢は次から次へと出てきます。……
1988年11月1日、いよいよ地域へのお披露目となった「創造の館 竣工式」の記事が綴られます。
最後を締めくくる一文は、
「さあ、田楽座よ、本当のプロになれ!」