本当は怖い八木節②
なんで話がいきなり八木節にとぶのか。
八木節の唄は、いわゆる「口説きもの」と言うジャンル。
何番まであるんだか分からない長編ストーリーで、盆踊り唄にもよくある。
で、こういう昔ながらのストーリーって、描写がけっこう残酷で。
特に、八木節の「継子三次」という物語の残虐描写は凄まじい。
まま子である三次が、まま母に苛め抜かれて、何と弁当に毒を盛られ、すんでのところで毒だと気づき、食べずに帰ったらまま母が「何で食べてねえんだ、このヤロー!」とブチ切れて、最終的に三次は釜で茹でられて殺されてしまうという極悪非道っぷり。
「本当は怖いグリム童話」とかが流行ってたころ、「昔の庶民の感性って残酷だったんだなー」「昔って命の価値が軽かったんだなー」とか思って。ハッキリ言って現代人としては全然共感できないワケ。
ちなみに私、現代人の中でもけっこう保守的な感性の人間で。
例えコメディであっても、「人の死」を笑いにするのはあまり好きではなかった。だから「北斗の拳」はダメ(「闘え!ラーメンマン」はシリアスだから良し)。大好きな映画「インディジョーンズ」でも、悪役が死んで観客がワハハと笑っちゃうシーンがけっこう多く、もちろん自分も笑っちゃうんだけど何とな~く後味が悪い。
「しょせん映画やし、カタいこと言うなや~」と言われそうだが、そういう性分なのでしょうがない。
そんな私が、人の首を刎ねて「カッコいいー!」ですぞ。昔の人がなぜ、「継子三次」や「グリム童話」が良かったのか、現代からは残酷でしかない、悪趣味としか思えないような描写を、庶民が求めていたのはなぜなのか。「バーフバリ」によって、こういうのが胸がすいてスカッとする、とか悪役は残酷に罰せられるべき、とかいう気持ちが、現代人の自分の中にも隠れてたんだな、ということに気づかされたのです。
そういうとんでもない力を秘めた―、いや全然秘めてない、むき出しにして襲いかかってくるような映画、「バーフバリ」。
「共感できなかった価値観に、共感できるようになる」、これが芸術の持つ偉大な力である。
この言葉を法と心得よ!
(おわり)