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イスラエル日記10日目
マサダ遺跡
この日はバスで移動して、死海のほとりにあるマサダ遺跡を見学しに行きました。
マサダはヘブライ語で「要塞」という意味があって、紀元前100年ごろに断崖絶壁の岩山の上に築かれて、その後ヘロデ大王が離宮として改修したんだそうです。
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頂上に着くと、岩山の上に広大に広がる遺跡と、見渡す限りの絶景が待っていました!
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Jesusの時代にユダヤ地方を治めていたローマのヘロデ大王は、この岩山の端っこに宮殿を築きました。
この日はあいにく宮殿部分に行くことはできなかったけど、上から横から、その宮殿跡を覗くことができました。
おそらく宮殿からは素晴らしい景色を眺めることができたことでしょう。
ヘロデ大王は、こんな風に一般の人が出入りできないような場所に宮殿を作って、プライベート感を確保したそうです。
そうして周辺の国々の要職につく人を招待して、接待や交渉をしたそうです。
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ヘロデ大王はよく、とんでもないところに立派な宮殿を建ててます。
カイサリアの海の上とか、エリコの川の上とかにも。
当然、建築には相当な技術、資金、労働力が必要です。ヘロデ大王はこうして自分の富や権力をアピールしていたようです。
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当時のローマ文明のすごいところの一つが水路システムです。
周りの山川から水を引っ張ってきて、ふもとに水を集める仕組みが作られて、集まった水はロバを使って山のてっぺんに運んだそうです。証拠として山のてっぺんから当時のロバの糞が見つかっているそうです。
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ユダヤ戦争
マサダ遺跡について外せないのは、紀元66〜70年に起きたユダヤ戦争での出来事です。
当時イスラエルを支配していたローマ帝国に対して、不満の溜まったユダヤ人が決起して反乱を起こしました。しかし結果としてローマ軍に武力で鎮圧されてしまいました。
そのユダヤ戦争の際、多くのユダヤ人が住んでいたエルサレムが陥落した後もこのマサダに約1000人のユダヤ人が逃げてきて立て篭ったそうです。
1万5千ものローマ兵が包囲するも、この地形に苦戦して攻めあぐねたそうです。
そこでローマ軍はどうしたか、、、。
なんと、ユダヤ人の奴隷を使い、土を盛って山の西側の崖を埋めて道を作って攻めたそうです!
それに要した期間はなんと3年!(一説には3ヶ月とする説もあるそうです)
こうして紀元73年にマサダが陥落して、ユダヤ戦争は終戦を迎えます。
ローマ軍がマサダに入って行った時、抵抗するユダヤ人はいなかったそうです。
なぜなら、敗戦を悟ったユダヤ人たちが集団自決をしたから、、、。
ユダヤ人にとって、マサダは今でもローマへの抵抗を象徴する聖地になっているそうです。
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そのスケールの大きさが少しわかると思います。
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100万ガロン、約380万リットルの水が貯められたそうです。
想像つかないけどとんでもない量です。
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マサダは建てられた場所も、上から見える景色も、残された遺跡もすごいスケールで感動しました。
そしてマサダで起きたユダヤ戦争のストーリーを知って、ユダヤ人の歴史にも興味を持つようになりました。
日本に帰ってきてフラウィウス・ヨセフスという当時の人が書いた「ユダヤ古代誌」という本を読み始めています。
死海でランチ
マサダ遺跡を後にして、死海のビーチに行きました!
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死海は海抜マイナス430mのところにある、世界で最も低い場所にある塩湖です。
塩分濃度は海の約10倍、30%もあるそうで、人が入ってもプカプカ浮いてしまいます。
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僕も死海でプカプカ浮く体験をしました。
不思議な感覚で面白かったです。深いところに行って垂直になった時が一番面白かったです。水の上(中?)に立っているような不思議な感じでした。
はしゃぎすぎて1人で沖の方まで行ってしまって、写真は一枚も残っていません、、、笑
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エン・ゲディ
ビーチを後にして、死海沿いを北上しました。今回は時間の都合でバスで通過しただけでしたが、エン・ゲディという国立公園をバスから見ました。
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ここは、ダビデがサウル王から逃げて、洞窟の中に隠れていた場所です。(サムエル記第一24章)
聖書の詩篇には、ダビデの逃亡生活の苦しみ、神に嘆き祈る言葉がたくさん書かれています。
ベッカが面白い事を教えてくれました。
「当時、ダビデはサウル王から狙われて逃亡の生活を送っていた。まさしく人生のどん底にいた。この死海は世界で一番低い場所にある。ダビデは物理的にも世界で一番低い場所にいたっていうことになる。」
なるほど!と思わされました。
クムラン洞窟
そのまま死海沿いをさらに北上して、クムラン洞窟に行きました。
ここはあの「死海文書」が発見された場所です。
(エルサレム日記9日目に「死海文書」について書きました)
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おそらく42,3℃はあったんじゃないかと思います。吹く風も熱風です。
この場所で見つかった写本・文書はエッセネ派のクムラン集団という人によって書かれたと言われています。
当時のユダヤ人たちは、宗教やローマへの態度によって色々な派に分かれていました。エッセネ派はその中でも、静かな人のいない場所にしりぞいて住み、信仰生活を守った人たちです。
クムラン集団の人たちは、このあたりにコミュニティを作って住み、信仰生活を守りました。そして彼らの特徴として、たくさんの聖書の写本を書いたそうです。
ここで発見された写本は、なんと旧約聖書のエステル記以外の全てがあったそうです。
その中でも多かった写本は、詩篇が36個、申命記が30個、イザヤ書が21個だそうです。どれも、荒野に関して書かれたものが多いのが特徴だそうです。
破片として見つかったのはなんと100,000個、その中でもイザヤ書40章3節の写しがたくさん見つかっているそうです。
このコミュニティのテーマ聖句とされていたと考えられています。
荒野で叫ぶ者の声がする。
「主の道を用意せよ。荒れ地で、私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
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手前はクムラン集団の住んでいた街の遺跡。
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当時、羊飼いがいなくなった羊を探していて、穴に石を投げたところ硬いものに当たる音がして、穴を調べたら壺に入った写本が出てきたと言われています。
クムラン集団のように、神の言葉である聖書を大切にして写し書いてきた人たちのおかげで、2000年たった今、私たちが聖書を読むことができていることを考えると感動です。
エリコ
クムラン洞窟群を後にして、エリコに向かいました。
ヘロデが川の上に立てた宮殿跡を見に行きました。
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エリコは当時、交通の要所になっていて、ローマが通行税を取っていたのでとても豊かな街だったそうです。
聖書には、Jesusがエルサレムに向かう途中にエリコに立ち寄ったときの2つのストーリーが書かれています。「盲目の物乞い」(ルカ18:35-43)と、「取税人ザアカイ」(ルカ19:1-10)の話です。
ベッカがこんな事を教えてくれました。
「聖書でこの2つのストーリーが並べて書かれているのはとても興味深い。とても貧しかった物乞いと、とても裕福だったザアカイ.
2人は地位も裕福さも全然違うけど、Jesusはどの人も救ったことが書かれている。」
なるほど、と思わされました。
つい、めっちゃ貧しくて汚い格好をしたホームレスや、めっちゃ金持ちで派手な暮らしをしている人なんかを偏見の目で見てしまいがちな自分ですが、Jesusはどの人も愛された事を忘れてはいけないなと思いました。
盛りだくさんの1日を終えて、大学に戻りました。
たくさん学んだことがあって、長文になってしまいました。最後まで読んでくれてどうもありがとうございます。
イスラエル日記11日目に続きます。