いじめが起きたら。教員としての思いと対応
起こしたくない、けど。
担任として、最もツライ思いをしたのは、いじめの対応。
多くの教員がそう思っているのではなかろうか。。
ある一人の児童が何人ものクラスメイトからいじめられた。
こんな出来事があったのは完全に私の失敗だったと思っている。
未然に防げたのではないか。
いじめがエスカレートする前に気づけたのではないか。
もっと子どもと私が話しやすい関係になっていたのなら・・・
周りの子が「いじめはやってはいけないことだ」「これはだめだ」「何とかしないと」「できれば注意したいが、さすがに言えないので先生には言おうか」と思ってくれていたら。
後悔は山ほど。
結果的に被害者となった子どもは今はとても元気に過ごしている。
担任として本当に申し訳ないことをした、という自責の念があるが、心理的にも落ち着いていることから、まずは解消されたかな、と思って安心することができた。
いじめはどんなクラスでも起きてしまうのだ。
ベテランの先生であっても。授業が素晴らしい、学級経営も心から尊敬する先生であっても。
集団だから・・・
人間の本能だから・・・・
しかたないんです。
だから、教員も、保護者も、みんな、子どもを守るために。
勉強しなくちゃいけないと思う。
そんなわけでこの本は超超オススメ。教員も、保護者も、ぜひ読んで。
情報収集を徹底して行う
教員として、起きてしまった以上はすぐに行動しなくてはならない。
保護者からの電話、子どもからの訴え。アンケートとか、他にもさまざまきっかけはあるけども、「いじめが発覚した!」となったら、即行動。
情報収集を始める。
だから、授業は中止する。
だめかな?
同僚に、休み時間に聞けと言われることもあった。
いや、無理です。だって、目の前で困っている子がいる。
授業なんか楽しくできるわけがない。
長引くときは、1時間まるっと自習にしたこともあった。
しかたないと思う。
子どもの心と体にかかわる緊急のことだからだ。
そんなわけで、情報収集ってのはこれ。
加害者と被害者が誰なのか。
いつ、どこで起きたか。
どんな内容なのか。どんなことをされたのか。
きっかけは?
今までのことは?いつから?
おそらく、学校のホームページにも書かれていることだと思う。
この聞き取りを徹底しないと、いじめ解決は全く成り立たない。
メモは必死になって細かくとることをお勧めする。
事実の食い違いが多発
被害者と加害者を読んで事実を確認していくが、
話していくうちに「食い違い」がよく起こる。
特に事実を言葉で正しく表現するというのは、小学校低学年にとっては本当に難しい。
そして、自分はやってしまったが、やっていないと思いたいという思いから、
していないという一点張り(本意ではないにしても)も起こってしまう。
ここまで来たら、
〇クラス内でいじめ行為を見ている子の証言
〇無記名アンケート
これしかないんだと思う。
または、証拠をつかむ方法として「録音」というのも本書で示されている。
正直、教員としては「こ、これは・・・」とドキドキしてしまうものだ。
ただ、本書によると、今はいじめの証拠集めとしては常識になっているらしい。本当かよ。
でも、保護者側からしたら、(加工でもしない限り)いじめの様子がそのまま録られているので、ある意味安心するかもしれない。いや、ゾッとするな。
謝罪の会
被害者と加害者(保護者も含む)、学校の関係教員が集まり、
「ごめんね」「いいよ」を行う。(のが一般的)
最近では「ごめんね」「いいよ」はかなり批判的な風潮。私もそう思う。
ごめんねと言われたらいいよと自然に子どもたちは言ってしまうのだ。
どこでそんなのを習ってきたのか?
幼児期や小学校低学年のときに大人が言っているのかもしれない。
そんな気がする。
ごめんねと謝ったらいいよと言ってくれる。が、そんなことはない。
許せないものは許せない。
実際に私が担任した児童には、そういう子はたくさんいた。
何かしら反応を示すよう声をかけると、「許さない」と話す児童もいた。
「次から気をつけてね」と許す児童もいたが、内心どう思っているかはわからない。
「ごめんねと言われたらいいよって言うんだよ」これは絶対に教えるべきでない。
「ごめんねって言ってみよう。許してくれるかもしれないね。」なんかこれも違うような気がする。
泣いて謝る子もいるが、泣いたからといって加害者は許すかというと、そうとは限らない。
教師として教えたいのは、世の中はそう甘くはないということだ。
謝れば許してくれるなんてあまりにも優しすぎると思う。
何か罪を犯したら警察に捕まり、場合によっては逮捕、処刑される。
話し合いによって解決したいのなら、相応のことをしなければならない。
いじめは被害者の心にずっと残るから。
じゃあ謝罪の会って何だろう、と考えてみたが、
結局私はよくわからなかった。
著者が示しているのは、
教育者による一種の通過儀礼のようなものでしかない。
被害者側の意思表明をする場にしてしまおう。
ということだった。
まあ、正直、「謝ったか謝ってないか」とか、一連のいじめ事案を「共通認識できた」という事実を作るには大事なんじゃないですかね。教員としては必要かと。じゃないと叩かれるので。
これで加害者がいじめてしまったことの重大さを痛感するのだと思う。
謝っただけでは何も解決しないということに気づくと思う。
過去は変えられない。
いじめをしてしまったらもうどうしようもないのだ。
謝ったら解決ではない
何をもって解決か。謝ったら解決ではない。
文科省が示しているようだ。
いじめ行為が止んで、被害者が心身の苦痛を感じていないこと(目安は3か月間)
だそうだ。
謝罪の会が終わった後、関係者はホッとしてはいけない。
その後もよく子どもの様子を見ることが大切だろう。
私の過去の経験では、いじめが再発したこともあった。
別の子どもが加害者になったり、同じ子どもがまたいじめたり。
いじめをきっかけに、子どもが学校に来れないこともあった。
謝罪したからといって、そう簡単に子どもは元気にならない。
大人は防げなかった分、子どもが立ち直るように手立てを講じなければならない。
正直、これは本当に疲弊する。
保護者に電話、学校での様子を報告。クラスの様子を注視。休み時間もこまめにチェック。児童生徒の関係を把握。
何か子どもに変化はないか、常に気を張る必要がある。
だから、常にチームで動く必要がある。
担任を孤独にしてはいけないと思う。
周りの同僚も、助けていかないといけない。
いじめが起きたとき、学年主任は常に隣で協力してくれた。
管理職とも一緒に話し合って、保護者への説明のしかたや解決するための方法を一から話し合い、共通理解をした。
保護者に協力も求めた。子どもを助けるという目的は保護者も教師も一緒だ。
結果的に、当時はなんとかクラスも落ち着き、立て直せたと思っている。
理想は、いじめが起きないクラスを作ることだ。
でも、今のところ、私は運だと思っている。
どんなによいクラスを作ったとしても、別の集団は存在するからだ。
きっかけは学校とは限らないからね。