【歌詞・和訳】レディオヘッド「ノー・サプライゼズ」について
レディオヘッドの楽曲「ノー・サプライゼズ」は、1997年発売の3rdアルバム『OK コンピューター』に収録され、翌1998年にシングル・カットされた。
作詞作曲のクレジットには彼らの楽曲の例にもれず、トム・ヨーク、ジョニー・グリーンウッド、エド・オブライエン、コリン・グリーンウッド、フィル・セルウェイとメンバー五人全員の名前が書かれている。
詳しく調べれば具体的な作曲者が分かるかもしれないが、私は現時点で知らない。メンバーがそれぞれアイデアを出し合っているのだと思い込むことにしている。
私がレディオヘッドの名前を知ったのはおそらく高校生の時で、村上春樹『海辺のカフカ』で言及があったからだと思う。それからクリープの一曲のみを多感な時期に強い共感によって聴いていたのみで、とくに電子音楽の印象が強く、積極的に聞かなかった。
それから20歳くらいのころだろうか、くるりの「奇跡」がこの世の中の完璧な楽曲に思えて、その歌詞も、そのイントロのアルペジオも、よくこんなものを思いつく、と思っていたところ、この「ノー・サプライゼズ」をオマージュしていると知り、驚いた。
とはいえ優れたメロディは継承された方がいい。
しかも、「ノー・サプライゼズ」の曲調は、1966年発表のヴェルヴェット・アンダーグラウンド「日曜の朝」から着想を得ているというではないか。
そんなことがあり、じっくり聴いたのは恥ずかしながら今年になってからだ。
それでこの曲の、暗く、「ヤンデルレン(Byトマス・ピンチョン『V.』)」な歌詞に打ちのめされてしまった。
また、この曲の演奏でジョニー・グリーンウッドはグロッケンシュピール(鉄琴)を使用している。学校で習ったようなシンプルな楽器が深く心に響いてくる。
以下、個人的な解釈や感想を書く。
jobがslowlyとあなたを殺すと言われたとき、聴き手は誰でも心を掴まれるというか、深い共感を覚えるのではないかと思う。程度の差がどうであれ、生活のうちに苦しみが皆無の人間などいない。
その後政府を倒そうかという、自らの辛さを何かのせいにするというのは私は嫌いだ。
日本の経済状況の悪化を岸田文雄ひとりのせいにして文句を言えるような人間は、軽蔑するだけでなく、そのように物事を短絡化できる脳みその単純さを憐れましくも思う。しかし、なにかが自分の心をspeakしてくれるなどというのは、烏滸がましい願望である。
私の場合、文学作品や音楽の歌詞に例外的なそれらを見出せる、おめでたい人間だ。
一酸化炭素と握手は、この曲の歌詞の肝となる重要で重い言葉だ。
一酸化炭素中毒で人は死ぬ。そのような自殺方法がすぐさま想起できる。
そしてサビのリフレイン。
no alarmsは、「不安」という表面的な意味と共に、一酸化炭素を探知する火災報知器の警告音に関しても示唆しているらしい。
発作や腹痛の単語をみると、語り手は肉体の苦しみを抱えているように読み取れる。そのため一酸化炭素による自殺を実行したのかと思われるが、そう断定する必要もないのかもしれない。
事実トム・ヨークはこの曲が「自殺」を歌ったものであることを否定している。一酸化炭素との握手は、環境破壊を繰り返す人類の行いを妥協し受け入れる意味も内包している。
ともかく、語り手は痛みを持っていて、そのさまを訴えている。トムがメロディにのせて言葉を発すれば、聴き手は寄り添ってもらうことができていると思える。
ここで前回はsilentだったのが、pleaseに変わるわけだが、音の響きからいっても、この順番であることが完璧だと思われる並びだ。
語り手は幻影を見ているのだろうか。経済的に成功を収めたものが求める典型的な幸福、平穏、安寧の象徴。
私などからしてみれば持ち家は管理費や固定資産税やそもそものローンなど、リスク過多のように思えるのだが……。
サビのリフレインとともに、「ここから出してくれ」とコーラスが入るのは、この曲の最大のポイントのように思う。
自殺をはかり死を前にした痛みや恐怖に苦しんでいると解釈もできるし、たとえ自殺を決行しなくても、この曲を歌う語り手もしくは仕事にゆっくり殺されている「君」は、「ここから出してくれ」という思いを多かれ少なかれ抱えているに違いない。
だからどんな時に聴いても「ノー・サプライゼズ」は私に寄り添ってくれる。
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