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書籍紹介「ドリーム・ハラスメント」②「夢は常になくてはならない」もので、「大人が査定」できるのか?

(再掲)本シリーズの狙い

昨日からは、「ドリーム・ハラスメント」(高部大問(2020).ドリーム・ハラスメント イースト新書)という書籍を紹介しながら、GAJYUMARUとして子どもたちが自分の人生を描き、デザインする上でどうサポートすべきかを考えます。

本シリーズの狙いは、

・「夢」という言葉、「夢を持つことが正しい」という発想が子どもにどんな影響を与えるのか?
・何より、子どもが自分の人生を描く上で、どんな言葉やサポート方法が望ましいのか?

です。
それでは、以下、引用します。

夢を強制された子どもたちの反応タイプ

※見出しや重要だと思った箇所を私にて太字としています

「いつも夢に向かって努力しろと言われてきた」

夢という目的地を定め、目的地に到達するために自分を押し殺してでも一心不乱に歩き続けよという初志貫徹の人生指南。人は初心を忘れず一貫していなければならぬというプレッシャー。若者たちは、自由に個性を発揮することを許されず、大人の夢計画に付き合わされているのです。
夢に苦しみ、個性がねじ曲げられた結果、彼らはどのようなリアクションを取っているのでしょうか。教育現場でインタビューを重ねると、ドリーム・ハラスメントを受ける若者たちの反応が、幾つかのタイプに分類できることが分かりました。

正解志向と付度力は当然の帰結
ドリーム・ハラスメントによって個性がねじ曲げられた若者たちは、幾つかのタイプに反応が分かれます。

1人目は、夢に出合える日を待ち続ける待機型
です。
彼らは「自分には明確な夢が無いのでこのままで大丈夫か不安だった」「将来の夢が決まらずどうしたらいいか分からずにいました」「夢が無いから何もする気が起きません」などと言います。
やりたいことは何だろうかと悶々としながら、夢に出合える日を夢見るのが特徴です。「夢は?」の問いに困惑し、成す術無く身動きが取れないケースもあれば、ただ現実逃避の道具として夢という言葉を使っているだけのケースもあります。
なぜ、夢の訪れを待つのでしょうか。それは、決断できないからです。夢を真面目に考え出すと、何を夢にすべきか躊躇してしまうのです。何かを夢と決めるということは、それ以外の選択肢を捨てることも同時に意味します。そんな大きな判断をいまこの瞬間に実施していいものか。答えはどこにも落ちておらず、誰も教えてくれません。だからこそ、決断できない。断つべき選択肢を決められないのです。
「夢があるとひとつのことに囚われてしまって、自分に合った職などを見逃してしまうかもしれない」「夢を決めてしまったらその道しか見えなくなってしまう」という若者たちの懸念が正にそれです。彼らは「正しい夢」という正解を待っているのです。


夢を待ち続ける待機型とは違い、夢を慌てて拵える(こしらえる)若者たちも存在します。
「いままでは押し付けられるような形で形成した夢だった」「無理に夢をひねり出そうとしていた」「大人に『夢は何?』と聞かれて、何となく答えただけなのかもしれない」
「『夢』を無理矢理見つけなければいけない、という焦りに駆られていた」「打ち込める何かが欲しかった」などの声が代表例です。これが、2人目のタイプ、即席型です。
彼らは一時的に夢問題から解放され楽になれますが、その後、闘いが待ち受けています。ひとつは自分との闘いです。即席型の夢は悩み抜いたうえでの自己決定ではないため、後になって、「本当にこの道で良かったのだろうか」「自分には向いていないのでは」と後悔する可能性があります。次の2人の高校生の証言のように。
「やりたいものが見つかっている私は果たして幸せなのでしょうか。たしかに、進路は決めやすいかと思いますが、選択肢をいつの間にか狭めている気もします」
「親などに夢は持った方が良いと言われ、調理師という夢を持ちましたが、もう少しゆっくり考えたかったです」
いまひとつは他者との闘いです。こんなことがありました。「未来の履歴書』を中学生に書かせる取組を行っている、ある中高一貫校の副校長先生からの本音です。
その方日く、「学力のある子は『夢は医者』なんて書くが、『流石にお前に医者の適性は無いだろ』と思う生徒も学力だけで書いてしまっている」と。
これには驚きました。もちろん副校長先生が言わんとすることはよく分かります。医師とは人の命を預かる責任重大な職業。そんな職業を志すのですから、学力はもちろんのこと、「医師になりたい」という意志に加えて医師に相応しい適性も必要になることでしょう。
しかし、子どもたちに「夢を自由に書きなきい」と注文しておきながら、いざ夢を書いたら書いたで全否定し「注文と違う」とするのはいかがなものでしょうか。
表の顔では「多様性や個性を尊重」と言っておきながら、裏の顔では「分不相応な夢は見るな」と真逆のことを思っているのです。「身の丈に合った」夢を持てとでもいうのでしょうか。そもそも夢とはその時点では現実から飛躍したフィクションのはずなのに。
個別の学校だけの話ではありません。文部科学省は「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告書』(文部科学省2004年)のなかで「社会の現実を見失いがちな現代の子どもたち」と若者に批判的なレッテルを貼っています。
自分たちが非現実的な夢をすべての子どもたちに持たせようと躍起になり、夢を煽っておきながら、「現実を見失いがち」とは掌返しもいいところです。大人は誠に手前勝手な生き物です。即席型の若者たちはこうした手強い大人と対峙せねばなりません。
「夢を持て」、でも「分不相応な夢は見るな」という相矛盾するメッセージは、「遮眼帯を着けながら周りも見て走りたまえ」という到底不可能な無理難題です。若者たちからすれば、「じゃあ一体どうすればいいの」と出口の無い迷路に苦しめられ、ノイローゼに陥るのが本音でしょう。彼らは表面上うまくやり繰りしていますが、内心はパニック状態です。意地悪な大人を前に、身動きがとれず立ち尽くして当然ではないでしょうか。
どうやら、大人は夢のストライクゾーンを勝手に設けているようです。かつて「夢に日付を」というフレーズが流行りましたが、「夢に点数を」付けるまでになったのでしょうか。夢の採点など余計なお世話です。いつから夢は許可制になったのでしょうか。
若者たちがリクエストされているのは個性の発揮ではなく、大人が求める個性の発揮。のびのび育つ「天然モノ」の若者は望まれず、大人の思惑通りに育つ「養殖モノ」の若者が量産されようとしています。即席型の若者たちもまた、大人の考えを付度し、正解志向に陥ってしまいます。


ここまで、ドリームハラスメントへの反応タイプとして、夢を待ち続ける待機型と夢を慌てて拵える即席型をみてきました。両者は、「夢は重要なものである」という命題を受け入れている点で共通しています。
夢を欲するからこそ、夢を待ち侘びたり、インスタントな夢を用意したりする。なぜなら、大人に認めてほしいからです。大人の期待に何とか応えようという表現方法が、夢の待機型や即席型なのです。

「夢は常になくてはならない」のか?

両者は、「夢は重要なものである」という命題を受け入れている点で共通しています。

これは、「夢は『常に』なくてはならない」という命題を受け入れているとも言い換えられると感じました。

「待機型」は、「今はないから許して」といういい意味で鷹揚なスタンスはなく、やってくる確証のないものを焦りながら待っている状況に思えます。
「即席型」も、今は夢がないにも関わらず「なくてはならない」からこそ一定興味・関心のあるくらいのものを「とりあえず」夢として設定している。

しかし、「夢」や「やりたいこと」は常になくてはならないのでしょうか?
周囲が設定したタイミングで「夢がないと」というのは酷なように思えます。潜在的に子どもたちの意識の中では色んなアンテナを立て、向かう方向を探索しているはずです。そこを本人以外が決めた時点で「答え」とする必要はないように感じます。
むしろ「今は夢がない=探しているプロセス」と認識し、相手の目線に立ったサポートの方が子どもが安心して自己を確立しやすくなるのではと考えています。具体的には、彼らが相談した時に相談することや、答えを求める以上に様々な選択肢や調べる方法を可視化することが子どもたちの自己確立に繋がるのではないでしょうか。

また、

しかし、子どもたちに「夢を自由に書きなきい」と注文しておきながら、いざ夢を書いたら書いたで全否定し「注文と違う」とするのはいかがなものでしょうか。

どうやら、大人は夢のストライクゾーンを勝手に設けている

のように、大人が子どもの「夢」を査定するスタンスも子どもに悪影響を及ぼす危険性を感じています。

これは、「生き方の正解」がある程度決まっていた時代と、「個々人の正解」を見つけていくこれからの時代とのギャップと考えることもできます。

たとえば職業に関してでは、日本の「定番」だった終身雇用制度は瓦解(転職しない方が少数派)しています。
また、「良い職業」と社会的に一定序列化されていたものも、テクノロジーの進化や価値観の多様化などにより一概には言えなくなっています。
そして、「夢」でもいいし、「やりたいこと」でもいいですが、それって「見つかった時がその時」で良いのではないでしょうか。私自身、GAJYUMARUを構想した38歳の今が最も自身の目標にモチベーションが高まっている状況です。

何より、変化のスピードの速い現在は子どもの意識こそが「未来」です。
大人はその未来に学びこそすれ、「査定」する立場にはないのではないでしょうか?

GAJYUMARUとしては、「相手の中に正解がある」というスタンスで対象と接することを重視していきたいと考えています。
従って、子どもの中のやりたいことを注視し、そのイメージに対してどうやって「手を引く」より「背中から後押しする」感覚で接していく
そうすることで、「沖縄の子どもたち1人ひとりが、自分の生きたい人生を描く」サポートをしていきます。

まとめ

今回は、「待機型」「即席型」というタイプ分けを引用し、そこから考えてみました。
その中で、

・「夢は常になくてはならない」のではなく、相手を「夢をつくるプロセス」と認識し、相手の目線に立ったサポートを
・子どもの意識こそ「未来」だと認識し、学びつつ(査定しない)そのイメージをどう実現できるのか後押しするスタンス

が重要なのではないでしょうか、というのが今日の結論です。

明日は、「捏造型」というもう1タイプをご紹介し、さらに深めていきたいと思います。お楽しみに!

また、「夢」というテーマは作文を書かされたりなどで我々のほとんどが何かしらの体験をしているのではないでしょうか?
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