見出し画像

保育士たちの「暴行事件」から、見なければならないこと #1

最近まで「バスの置き去り事故」の報道であふれていたと思っていたところでのこちらの事件。保育士の実名が出て、ネットの中には保育士の家族を詮索するような記事も見受けるようになりました。

内部告発された同僚の保育士さん。
相当な勇気を持って行動に移されたことだと思います。
警察に相手にされなかったら、証拠不十分だったら、自分も職を失うことになったら、暴行した保育士から逆恨みにあったら等々、考えればキリがないほどの心配事の中で「保育士」という資格に責任を持ち、子どもの最善の利益を考えての告発だったことでしょう。

暴行事件は、決して許されることではありません。
暴行に関する批判と詮索にあふれる中、私は「見なければならないこと」を記しておきたいと思います。
「どうして起きたのか」を、保育士個人の価値観だけでなく「保育制度の限界」「職場の環境」「子どもの発達の変化」の視点で、考えてみました。

今日は、「保育制度の限界」制度面での視点です。

保育の制度の限界

保育制度というと、主に「人員配置」「面積」などの基準が挙げられます。
最低基準に基づいて保育士配置がなされますが、これまで延3,000人ほどの保育士と話をしてきた中で「うちは最低基準で十分な保育ができています」という声は、聞いたことがありません。
丁寧な保育をしていて、職員の入れ替わりの少ない、ベテランがしっかりと新任保育者をサポートしている園であっても、話し合いや研修・当たり前に必要とする休憩に時間を割けば、いつだって現場には、緊張感が漂っています。
当然です。それは、命を複数、同時に預かっているからです。

人員配置

最低基準の配置の中には「研修」や「ミーティング」についての配置はないことが当然で、障害児保育に関する加配保育士の配置すらも十分ではないことは、現場で働いている方には、承知のことでしょう。

そんな中、子どもを園に迎え入れるには、最低限の保育士が必要であり、限られた運営費の中で人員を確保して行かなければならないことも事実。新人保育士であっても、腰を痛めている保育士であっても、1人にカウントされ、余剰人員を抱えることができるほどの潤沢な資金はありません。

そして近年では、派遣保育士の採用や、保育士紹介業者や高額な求人サイトに頼らざる得ない園も増えてきました。
保育園への需要が高まっていること、柔軟な働き方を希望する人が増えていること(責任を負いたくない・書類を書きたくない・扶養の範囲でゆっくりと働きたい・子どもと過ごしたいなど、理由は様々)そして、保育士になりたい人が減っているということが大きな理由です。

資格があれば、基準が満たせる。
そのために、高い手数料を払わなければならない。
そうすると、子どもの処遇や、保育士の研修に費用を回せない。という流れができていきます。人がいての、給食・おもちゃ・研修なのです。

ただでさえ、応募が少ない中で働きに来てくれるだけでも感謝しなければならない状況。保育士の人格やスキルに多くを求めてしまうことで、退職されては困ります。

今回の暴行。
そもそもの人手不足、配置基準の厳しさ、指導できる人員がいないことによる保育が生んだ事件だと、思わずにはいられません。

働き方の違いによる、格差

今回、暴行をしたとされている保育士さんも、お一人は非常勤、お一人は派遣というお立場だったようです。
どのような経緯で、その働き方を選択されたのかはわかりませんが「人員配置の一人」という感覚で採用されていたのであるとしたら…
そして、これまでの経歴も「年数」はあったとしても「教育」や「自己研鑽」「継続的な資質向上」がなかったとしたら…
さらに、園の中での「適切な指導」は、リーダーが優先になっていて、非常勤や派遣の保育士は後回しになっていた、という感覚はあるかもしれません。

また、最近では「プレイベートを大事にする」という風潮や「これ以上はパワハラになるのでは?」という懸念から、研修や話し合いへの参加を促すことが難しくなっている傾向にあります。
うちの塾に通ってくる保育者は、曜日時間関係なく「自分のために」学ぶことを習慣にしていますが、そこから聞こえてくる声は「他の人との温度差」や「知識・意識があまりにもかけ離れていて、自分がおかしいのかと思ってしまう」というものです。

働き方が自由になったこと、選べるようになったこと、そしてサービス残業が減ってきたことは歓迎すべき事実ではありますが、その陰で「保育士としてのプライド」「チームワーク」「仕事を通して成長していく自分」を手放してしまうことがあることも、頭に置いておく必要があると思います。

今の時代、研修会場に行かずとも学ぶことはできるようになりましたし、保育士もいろいろなキャリアが目指せる時代にもなりました。

私たちは、資格に対する責任以前の「どう生きていたいのか」ということまで辿ってみることも、園内研修で取り扱うテーマにしています。

そうすると、働き方や年齢、キャリアや役職に限らず、多くの保育者は「自分が活かせる」「成長したい」「子どもたちとの関わりの中で充実感を得させてもらっている」という答えが出てきます。

そこを自覚できれば、仕事を通して自分の生活・人生が豊かになっていくことをイメージできますし、サービス残業などという犠牲的な話ではなく「与えられた学びの機会」となるはずです。

認識・価値観・世代の違いを埋めていく「教育」の必要性

皆さんの園でも、当てはまることはありませんか?
・いい人だけれど、子どもへの言葉が荒い
・力の加減ができず、暴力的になっていることに自覚がない
・子どもを従えるような保育をしてしまう
・私たちの頃は、と30年前の保育を手放そうとしない
・保育ではなく「自分の子育て」で話をしてくる …

特に、人間関係や土地のつながりが強い地域では、自分よりも年齢が上の人に対する「指摘」は「反抗」「目上の人を立てていない」といった認識がまだまだ残っており、苦戦している管理職やリーダーの声を頻繁に聞きます。

正論よりも調和を選ばなければならない空気と、それまでの抑圧や恩義によって、言いたいことならまだしも「言わなければならないこと」までも言えずにいる人たちがいかに多いことか。
こちらがおさまったと思えば、あちらが。というように、もぐらたたきのような状態で、次から次に「ベテラン保育士への指導問題」が上がってくるのです。

保育に関わる人たち、特に保育士は、それぞれ意思を持って時間をかけて、資格を取ったはずです。しかしながら、免許更新やスキルアップに関する規定(受けっぱなしのキャリアアップ研修ではなく)などはなく、60代の保育士が、40年前の感覚で保育をしていても、配置としては問題ないのです。
様々な経歴・人格の保育士を「質の向上に向けて育むこと」は、あくまでも園の中での教育・指導にかかっているのです。

だからこそ園長は、主任やリーダーの人柄に甘えることなく「指導できる人材として開発していく」ことを真剣に考え、スキルとマインドを身につけるサポートをしていきましょう。
かつては「気の良い」「頼りがいのある」「慕われる」人が主任保育士で問題ありませんでした。しかし、少子化が進み、保護者の要求や知識レベルも高くなり、さらには様々なキャリア・働き方の保育士を集めて保育を実践する現代においては「頭を使うこと」「精神的に安定していること」「観察と分析、そしてマネジメントができること」が必須となります。現場を回すことに加え、保育者を指導・教育するスキル習得が、課題とも言えます。

園長の資格要件

園長の資格要件についても、おりに触れて話題になっています。
しかしながら、私は「保育士資格保持者」という点については少々疑問を持っています。
なぜなら子どもの育ちに関する知識・技能と、大人が働く環境づくりや制度理解、専門機関との連携など、保育士の資格だけでは到底網羅できないことがたくさんあるからです。

言うなれば、医者は看護師の資格を持っていないではないか!というようなもので、持っていればわかることはあると思いますが、そもそもスキルが違うのです。
同じようなことで「子育てをしている保育士は安心できる」という、謎の信頼と自信に対しても懐疑的です。そもそも「保育」と「子育て」は同じではありません。園長の専門性を図るものの視点をどこに置くのか、そして行政による指導だけではない「支援機関」の設置、継続的なコンサルティングが必要だと思っています。


ニュースの報道を受けて、がじゅまる学習塾の塾生から「自分の保育が適切と言えるのか不安だ」「いっそのこと、異業種に転職することも考えたい」「夜、眠ることが難しくなった」という声が上がってきています。

学べば学ぶほど「これまでの保育が間違っていたのではないか」「他の人を注意できない自分」「なかなか変わらない園の実情」に悩むようです。

その一方で「学ぶことで違う視点を持ち、正解が一つでないことに安心するようになった」「園長への説明を、自分なりに整理してできるようになったことで物事が進みやすくなった」という声もあります。

記事の中でも書きましたが、私たちは現代を生きています。
何のために、誰のために、保育の仕事をするのか。

「子どものために」という言葉はまやかしで、「成長していく自分のために」保育をさせてもらうのではないか。私は今の仕事を通して、そう考えるようになりました。塾生のためにでも、子どものために、でもなく、自分の人生がよりよくなるために仕事をしているのです。その成果として「他の人の幸せ」になれば最高ですが、自分の成長を諦めていては、結局「仕事」にはならないと考えています。

「誰かのために」は、楽なのです。
でも、恩着せがましいのです。

「自分のために」は、努力と覚悟が必要になるのです。
自分がやりたいからやっている。やらせてもらっている。
自分勝手なようで、一周回って必ず役立つ人になれるのです。


そんなことを考えて文字を連ねていたら、あっという間に4,000字に迫ってしまいました。続きはまた明日。「職場の環境」について記していこうと思います。

2022.12.04 がじゅまる 学習塾


いいなと思ったら応援しよう!