信じることの効用
いつからだろう。私は昔から「これが正しい」と人に押し付けられることがとても苦痛だ。ほとんどの物事はどれが正しいのか断定できないし、時には自分を否定された気持ちになる。
そして私は全て「自分を信じる」ことにした。自分を教祖にした、いわば自分教だ。
人の意見よりも、自分が思ったこと、感じたことを優先する。その思いはどんどん強固になっていった。
宗教云々だけでなく、何を信じて生きていくかって、みんなあまり意識していないけど実はかなり人生を左右しているんじゃないだろうか。
私は私の第六感に重きを置いて生きてきたけど、
宇宙を信じて星を追う人、
医学を頼りに身体の声を聞く人、
ビジネスと数字の世界に生きる人、
色々な人がいる。宗教によって教会に通う人や肉を食べない人がいるように、無宗教の人だって、信じるものによって食べるものや行動範囲なんかを無意識に選択しているんじゃないだろうか。
環境にやさしい人になろうと決めているから、マイボトルを携帯したり、
何にも縛られたくないから、スーツは着ないと決めている人。
自分はどんな人間かっていうのがはっきりあると、行動を決めやすい。
そういうものがとても大切だったんだと気付いた。
大切だったと気付いたのはやはり、それが無くなってからだった。
“自分教”の信者だった頃は、選ぶのが楽だった。
かっこいい音楽はこれ。
服はこの色。
会話のリズムや、どんな言葉を選び取るか。
こういう時、自分らしい選択はどれか。
全て無意識ではあるけど、自分を信じる軸があったからすんなり選べていた気がする。
それで納得していた。違和感はあっても、何の疑問も持たなかった。
最近、自分教が崩壊しつつあると感じる。
うまくいなかいことも増えてきたし、よく悩むようになった。
どこか変えるべきなんじゃないか?
本当に、自分の感覚だけを頼りに生きていていいのか?
その感覚は、狂ってきていないか?
信者(私しかいないけど)の不信感は募るばかりだ。
恥ずかしいけれど、私は私の考えが絶対的に正しいと思って生きてきた。
だけど、どれが正しいとか正しくないとかじゃない。みんなそれぞれ違うだけだった。
宗教的な思想だったりステレオタイプな考え方は、楽だ。
自分で考えなくて済むし、正しいと信じていられることは心を平和に保つ。
だけど、本当にそれは正しいと言えるのだろうか。
物事の善悪を決めない時代、無宗教の時代、形式の崩壊。
自分の頭と心をフル稼働させて、もう一度考えていく時なのかもしれない。
自分の中の指針を失った今、とても不安だ。
やりたいこと、正しいと思うことがうまく捉えられず、ふわふわしている。こわい。拠り所を無くすってこんな感じだったんだ。
信じるものがあるって、とても安心することだったんだな。大事なものだったんだ。根拠のない自信でも、持っていたかった。でも、これからはそうじゃないものを見つけたいんだと思う。確固たるもの。だから一度手放したんだろう。
今回の自分教の崩壊は、意味のある崩壊だと思いたい。
これから何を信じて生きていくか、また1から拾って選んでいく。
もしかしたら、何も信じなくてもいいのかもしれない。