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ジョーカー フォリ・ア・ドゥ を見ました 感想です

#ネタバレ
 
 賛否両論を生む話題作『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を映画館で観てまいりました。
 
 まずは、その映画見た直後の自分のツイートを紹介します。
 「ババ抜きでジョーカーは引いたら嫌なカードだけど、
この社会もジョーカーを押し付け合うババ抜きみたいなもん
ジョーカー フォリ・ア・ドゥをわさわざ遠出して見に来てヨカタ
That's Life」
 That's Lifeとはハーレクインを演じたレディー・ガガの歌唱によるエンディングテーマです。
 このエンディングテーマは冒頭にある要素と繋がっています。
 冒頭でさりげなく宗教の話が出てきますが、宗教と言えば宗教施設がアジールとして逃亡犯を匿ったりしていたという話を思い出します。
 アーサーは、虐待や孤立の果てに被害者意識を肥大させジョーカー化し、母親を含む6人の人命を奪うという罪に手を染めてしまいます。
 そして「ジョーカー」に感化された者たちが暴徒化するというところまで前作は描いていました。 
 僕は前作を見た直後、手に冷や汗をかいてビビりました。
 続編となる今作では、収監されたアーサーが看守たちにぞんざいに扱われ、彼を弁護するものたちからは「あなたは二重人格で、本当のあなたは虐待の被害者で、罪を犯したのはもう一人の自分である」と証言するようすすめられます。
 たしかにアーサーがジョーカーになりきって犯した罪は倫理的に許しがたい。
 しかし状況を一歩引いてみれば、どうしようもない理不尽な構造もあります。アーサーから見たら常にババを引かされているようなものです。
 こういう拭いがたい理不尽さをどう受け止めるか?
 そこで呼び出される必然性があった要素のひとつが「宗教」。
 そういうことだったのかなと感じました。
 あらゆる理不尽さ、裏切りの展開を受けての「That's Life」
 救いはないはずなのに本当に涙腺を刺激する素晴らしい流れだと感じました。
 さらに言うと「歌」も重要な要素。
 人類は「言葉」を使ってコミュニケーションしますが、最初からそうだったわけではない。
 もともとは「歌」でコミュニケーションをしていたと言われています。
 「言葉」はどうしてもロジカルで情報的になりやすい。論理的に喋れすぎると感情を感じにくくなってしまう。どうしても。
 「歌」は理屈じゃなく情緒が伝わりやすい。
 アーサーの歌が不器用で、ハーレクインの歌が饒舌すぎるという対比が見事。
 冒頭であったように、殺伐としたアーサーの心が歌で癒やされるという一面もある。
 しかし美しい一面ばかりではないのも興味深いところ。
 ハーレクインに勇気づけられ「ジョーカー」としての一面を取り戻すアーサー。
 そしてそのことに湧く囚人たち。
 彼らが歌いながら、暴れまくるシーンは驚愕。
 「ロックは悪魔の音楽」といいロックをやめたロックシンガーもいましたが、歌は良くも悪くも人を鼓舞する堕天使のささやきなのかもしれません。

 ここからハーレクインを演じたレディー・ガガについても触れたいのですが、その前にアーサーが突きつけられた責任の問題についても触れておきましょう。
 前述の通り、アーサーは「あなたは二重人格だった」というストーリーを押し付けられます。
 これは裁判における減刑や死刑の回避、あるいは社会的な更生と言う点から考えたら合理的な面もあります。
 しかし、アーサーはそのことに釈然としない表情を見せます。また裁判のあいだかれは現実と妄想の間を行ったり来たり。
 妄想の世界では「静粛に」とハンマーを鳴らす裁判長を逆に撲殺するという恐ろしいことさえ考えます。
 「あなたの罪はもう一人の自分のせい」というストーリーがこのような、分裂的な精神状態にも影響しているのではないかと感じました。
 アーサーは裁判で「ジョーカー」の姿で被害者意識の自己弁護を繰り広げるところまで暴走しますが、結局「ジョーカー」でいることに無理が生じてしまいます。
 そしてアーサーは自分の罪を受け入れ、隠していた罪も告白します。
 「自分がやったことは自分の責任」「ジョーカーなんていない」という境地に立ったアーサーは憑き物が取れた感じになります。
 しかしアーサーが脱ジョーカー化しても、ハーレクイン含むジョーカーに感化された者たちもいます。
 また、ここに至る過程のなかで、アーサーをぞんざいに扱う看守たちや、機械的に進む裁判というシステムの冷たさも描かれます。
「アーサーは人の感情に無関心」などという指摘が、あらゆるものに逆照射されているようにも思えました。
 誰かが「ジョーカー」を引き当ててしまう、そういうゲームなのか。
 
 人々が「平和」に生きるための「秩序」が求められ、「秩序」を乱す「暴力」があり、「秩序」を乱す者にも「暴力」を持って制裁が加えられるが、
その制裁も「秩序」に組み込まれ、その限りにおいては正当化されています。
 こういう矛盾は、高次なロボット生命体にでも進化しない限り解消されないかもしれません。

 さて続いては、アーサーとハーレクインことリーの対比、ハーレクインを演じたレディー・ガガについて語ります。
 
 アーサーは明確なトラウマを抱え、被害者意識を抱えた存在。
 ハーレクインは、少なくとも劇中ではトラウマに関する描写が少ない。
 動機も被害者意識ではなさそう。
 「山」を作るというセリフがあるが、一番素直に考えれば、野望のようなものか?
 
 ハーレクインには被害者意識やトラウマの要素が少なく、「ジョーカー」としてのアーサーに突き動かされ、ある意味純粋に暴れているとすると、ある意味こっちのほうが怖いなと感じます。
 確信犯的ですからね。
 おそらくハーレクインが主役のジョーカー3的な作品が作られ、そこで大暴れするのかもしれません。

 レディー・ガガ自身が映画の製作について語る動画が興味深かったです。
 →レディー・ガガが語る、映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」の制作の裏側。| VOGUE JAPAN  

https://youtu.be/KwfRg3oNLec?si=B5sInXh2xRuk75_g


 ハーレクインに関して「レディー・ガガをモデルにしたキャラをレディー・ガガが演じている?」と感じましたが、実際はレディー・ガガ自身がハーレクインのキャラ作りにかなり入れ込んでいたようです。

 レディー・ガガのファンがハーレクイン風のメイクをして集まってくる様子も描かれていますし、様々な傷ついた女性の声を代弁してきたみたいな話もありますが、「アメリカの中島みゆきか?」と感じます。

 まさにカリスマ。

 レディー・ガガのチャンネルに上がってるこのショートフィルム的な映像も思い出します。
 
Lady Gaga - G.U.Y. (An ARTPOP Film)


  宗教的な雰囲気を全体に感じる、印象的な映像ですね。


  さて、実際のアメリカでは、トランプ現象やそれに関連して議事堂襲撃事件や暗殺未遂などもあり、ピリついているような雰囲気を感じます。
 『ジョーカー』の続編である今作が前になかったミュージカル要素を加えるのも、 なんかわかる気がします。
 矛盾で混沌に満ちていく世の中を、どう受け止めたらいいのか?
 「That's Life」
 そういう感じでしょうか。

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