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料理系マンガとアパート共同体ものの類型は相性がいい
1.無菌系から百合分岐ではない場合は、料理マンガに分岐する
『大家さんは思春期!』が時々無性に読みたくなって、全巻読み返す。上の娘と共々に、ファンなんですよね。こう・・・何がいいのかっていうと、ヒロインでもなんでもない、ラブコメも始まらない、しかも、真面目一辺倒で、本来ならば、つまらないキャラとして描かれるような里中 チエちゃんが、凄く良いんですよね。この真面目系で地に足がついたキャラクターを魅力的に描くのは、昨今のエンターテイメントの新しい潮流だと思っている。
比較で考えてるんですが、高津ケイタさんの『おしかけツインテール』(2014)の主人公の朝比奈 花梨と同じ系列の真面目で家事ばかりしているのが好きなキャラなんですが、『おしかけツインテール』の花梨ちゃんよりも、ちょっと踏み込んでいるいる感じがして好きです。花梨ちゃんのほうは、ニートというかFIREしているデイトレーダーの引きこもりの新田さんのところに、朝比奈の母と娘が居候に押しかけてくるというものなんですよね。こちらの方が、男性のハーレムものとかエロマンガでありそうなプリミティブな欲望の設定がベースにあるので、なんとなく、新田さんを、言い換えれば異性を意識している感じがするんですよね。この人、ウルトラ草食系のニートなので、そういう話になりませんが。芳文社の『まんがタイムファミリー』『まんがタイムオリジナル』とかで連載なので、日常系なんですが、僕がいうところの「無菌系(=男性視線がない)」なわけじゃないんですよね。そこはかとなく、そういう匂い(新田さんを異性として意識する視線)が、本当に薄いんだけど、ある。
でも、チエちゃんって、完全に「男性視線」がないんですよね。別に、じゃあ百合な方向に進むわけでもないし、かといってチエちゃんが子供だというだけでもない(というのはちゃんと内面が成長しているのは凄く伝わる)。ああ、いってみれば、宮原るりさんの『恋愛ラボ』(2006)に近いテイストなんだけど、あれは同年代の男の子との恋愛目線が入っていて、究極的には、少女マンガのテイストに進んでいますよね。
同じ芳文社の日常系4コママンガなんですが、このチエちゃんの日常感覚が、地に足がついていて、凄くいい。もう10年も連載しているのですか。日常系なんだけど、無菌系が進んで百合に到達するわけでもなく、かといって永遠の日常に逃げているわけでもなく、何かがいいんです・・・。だから、好きで何度も読み返してしまう。
この2つの記事で解説した空気系、無菌系から百合に展開していく物語力学は、かなり詳細に分析できているんだけど、水瀬るるうさんの『大家さんは思春期!』(2012)の魅力が、まだ言語化できていないので、うーんうーんと考えている今日この頃です(笑)。
2.料理系類型と下宿とかアパート共同体もの類型は親和性が高い
たぶんね、食べ物、料理系の話と下宿とかアパート共同体ものの系列で楽しんでいるのは、自分の中の直感。これって多分、食べ物、料理に関わる話の謎なんだと僕は考えています。
この関係で思いつくのは、『衛宮さんちの今日のごはん』(2016)や『幼女戦記食堂』(2018)が思いつく。スピンオフ系で、本編が殺伐としたサバイバルものだと、特にこの落差が生まれて良い物語が生まれる気がします。サバイバル系(僕らアズキアライアカデミアでは新世界系)の作品と対になる形で日常・料理系マンガがセットになっているのは、興味深い現象です。僕は、このあたりの想像力のあり方の類型がなかなか興味深く思っています。TYPE-MOONのオリジナルの伝奇活劇ビジュアルノベルゲーム『Fate/stay night』(2004)を最初に体験している人は、この落差に驚きますよね。
これは、以前に『太陽と桃の歌』(2024)を解説したヨーロッパ映画のテーマと関連する話なんですが、この無味乾燥な社会、競争的で殺伐とした世界で生きるために、何が救済になるのか?ということを考えると、日本人やラテン系のイタリア、スペイン人は、特に美味しいものを食べること、食に関わることにコミットする傾向がかなり強い(笑)と僕は思っています。
これだけじゃないんだけど、、、。思考の整理でまず考えて見ます。
読んでてね、チエちゃんのアパートの仲間たちの日常を楽しむ術が、とてもいいんですよ。後半の巻で、前田さん(203号室の住人)が、もしチエちゃんに出会わなかったら、自分がどれだけ無味乾燥なサラリーマンとして生きていたかを感じて、ゾッとするというシーンがあるんだけど、これって、アパートの麗子さん(204号室住人)や熊川さん(104号室住人)たちの関係性が疑似家族のような共同体になっているから、とてもも幸せな空間ができているんですよね。
宮原るりの『僕らはみんな河合荘』(2010)、窪之内英策の『ツルモク独身寮』(1998)、高橋留美子の『めぞん一刻』(1980)、赤松健の『ラブひな』(1998)この辺に原型があるというか、、、、
とはいえ、そもそもこんな幸せなアパートや下宿などの関係性って、ありうるのかなぁ。近所づきあいなんてなぁ。。。僕は、ずっと東京が長いので、こんな地域や地元の人と仲良くなるなんて、ついぞ体験したことがない。人生で唯一あったのは、アメリカのオレンジカウンティに住んでた頃で、コロナにあったので、それで閉じ込められていて異様に周りの家族と仲良くなった時だけで、それって外部要因が働いているので、普通はそういうのは、ないよなって思うんですよねぇ。どうなんだろう。自分史の中に、こういう古いタイプの共同体が発生したことがないので、なんか幻の幻想にしか思えないんですよねぇ。この辺りは、実際にあるかどうかは体験的にはわからないのですが、このアパートとか下宿とかで、人間関係が蓄積されていくというのは、よくあるものですよ。 羽海野チカ『ハチミツとクローバー』(2000)もこの系統ですよね。
でもまぁテーマとしては、疑似共同体ものですよね。若しくは自覚的共同体もの。家族のように、自分で選択できなかった集団ではなく、自分で選択した集団にコミットする話。
そんで、チエちゃんのご飯に対するスタンスがいいんですよね。僕は最近、レストランに美味しいものを食べに行く、食べログとかで記録と感想書く、家でご飯を作る、みたいなサイクルが回っているんですが(笑)、そうすると、人生がすごく豊かに楽しくなる、味がよくわかるのサイクルが回る。これって、たぶん、食べることと、それを頭で理解することと、さらに作ることによって、要素に分解して体感できるのが組み合わさると、解像度がすごく上がる(=生きている実感が上がる)んですよね。
それと重なっている気がするんですが、チエちゃんの「生き方」というか日常って、この「生活の実感が安定して回っている」感じが凄くしてて、前田さんなんかが特にそうなんだけど、「この日常がずっと続いてくれればそれで生きていくには十分な幸せがある」感覚が強く現れていますよね。
ハナツカシオリ『焼いてるふたり』(2020)読みているときにも、同じ感覚っを強く感じるんですよね。メーカーエンジニアの福山健太さんが、浜松の工場?(これどう考えてもヤマハじゃねえの?とか思うんですが(笑))で淡々と仕事しているんですが、彼の幸せは、明らかに奥さんや友人たちと、ご飯を巡る関係性の中にありますよね。仕事に全く興味がないのが、よくわかる(笑)。仕事は、仕事として、別の枠なんですよね。これって、それが成り立つのは、国家が、社会が成熟して安定していないと起きない話なんじゃないかって思うんですよね。この感性が、最近増えているというか、フューチャーされているのではないか?って思うんですよね。
チエちゃんの感覚も、このラインで、、、、理解できるのではないかと。『焼いてるふたり』なんかも、結婚ものの類型で評価していたんですが、「それ(=異性関係の目線)」すらないなぁって、『大家さんは思春期!』って。
いやーまぁ、ただ単に好きなんですよね。日常系のこういう話ってホッとする。