部分が全体を追い越すとき
部分と全体とはどのような関係であるのか、メレオロジーと呼ばれるこの問いは哲学史上洋の東西を問わず多くの議論が見られる。
例えばプラトンの『パルメニデス』にて形相そのものでないものは何らかの形相を分有しているとするソクラテスの萌芽的な「イデア論」に対するパルメニデスの批判として、分有されているものが形相全体であるならばそれは(本来「一」であるはずの)形相が諸々の個物に無際限に複製されることになるし、形相の部分であるとすれば(形相は「一」でありそれ以上に分割され得ないため、)そこで分有されているものはもはや内容が変わってしまうというアポリアを挙げている。
またアリストテレスの『形而上学』第五巻においてはメロス(部分)とホロン(全体)が続けて立項されており、それぞれ単位尺度の要素であることとその統一体であることが示されている。
フッサールの『論理学研究』の第二巻第三章では複数の部分が合成されて全体となるという素朴な理解とは別の、全体におけるアスペクトとして部分を見出だす形式的理論を展開している。これは先のアリストテレスが定義するところの
それらの諸部分の各々がそれぞれ或る一つの統一的なものである場合と、ただそれらから〔それら相互のあいだに〕或る一つの統一が出来ているだけの場合とである。
(『形而上学』出隆 訳 岩波書店)
とも重なるかもしれない。「全体は部分の総合でしかないのか否か」という問いもまた大きな領域を占めている。
ところで、これらを受けて興味深いのは「部分は或る全体に依存するところの部分であり、また或る全体とその部分は同じ領域を担当しながら異なっている。」ということである。つまり部分とはそれ自体が何らかの局所的な全体そのものでありながら、まさに局所的であるところにおいてそれを局所的と定める全体を擁する側面と、全体に纏わりついた一様相としての側面があり、それによって局所の総合としての全体と分割不可能な統一体としての全体という相反する二つが現れることになる。しかしいずれにしても或る全体とその部分を考えたとき、全体の方がその部分よりも「大きい」か少なくとも同等であるということは共通している。
ここで、部分が全体よりも大きい場合はあり得るのかということを考えたいと思う。もし部分が全体よりも大きくなった瞬間にもともとの部分が全体へと変容し、もともとの全体が部分へと変容したら結局形式においては何も変わっていない。重要なのは部分が全体に依存したまま全体よりも大きくなること、つまり局所や一様相自身が局所または一様相でしかないことを示しながら先の全体の定義だけでは捉えられない側面があることを示す必要がある。そして倫理こそが上記を満たすと考えるのだ。
倫理の本質を「倫理的概念」、それを表す種々の記号を「諸倫理的概念」と名付けよう。例えば善悪や徳といった観念の記号が諸倫理的概念である。これらの記号は言語や文脈によって様々に用いられ、その記号によって指し示された倫理とは異なっている。また諸倫理的概念は価値尺度として機能している。「人助けは善いことである」というように、ある行為に倫理的判断を下すときの根拠として諸倫理的概念は用いられている。価値尺度として機能するということは例えば3の部分である2が自身との比較において3を示せる(2の1.5倍は3)ように善やgoodnessといった記号もまたそれを表すことで判断の尺度となる。諸倫理的概念はあらゆる事象に付随する価値判断の根拠となる尺度であり、その尺度がまさに尺度であることを担保するのが倫理的概念である。
ではなぜ諸倫理的概念を「諸」「倫理的概念」と表現したのか。それはある価値尺度が価値尺度であることを担保する「価値尺度性そのもの」=「倫理的概念」が己の部分を示すためには、それが部分であることを証明するために何らかの局所的なあるいは一様相的な価値尺度を用いるが、そこにおいてなぜ他ではなくこの価値尺度を用いたのかに係る価値が先行してしまうからである。
ソシュールをなぞれば示されたものと示すものの繋がりは必然的ではなく恣意的である。なれば判断の現場において用いられる価値尺度としての記号=「諸倫理的概念」とそれを価値尺度と定める価値尺度性そのもの=「倫理的概念」の結びつきは恣意的であるから既に価値判断が行われていることになる。この価値判断はまるで「なぜ倫理の価値尺度を担当する記号に「善」が置かれるのか」という問いに対して「それが善いから」という奇妙な返答をしているようなものである。
「価値尺度性そのもの」の形相が何らかの記号に宿るとき、むしろその記号の方が形相の形相たる所以、言うなれば「「価値尺度性そのもの」性」であることになる。よって統一体としてそれ以上分割できない倫理的概念がその倫理性を顕現させる一部分の記号でしかない諸倫理的概念によって追い越され、全体(形相)と部分(記号)の関係を自身に依存している部分側の方に委ねざるを得ないのだ。
今回はここで一旦筆を置こうと思う。価値判断に伴う部分と全体の奇妙な逆転現象について、今後も考察を続けていきたい。
屈折誰何