汝、孤独を愛せよ
汝、孤独を愛せよ
とにかく私は孤独に弱い。孤独に対しての耐性が無さすぎる。今も絵をただ描きまくったりこうやって文章を書いたり難しい本を読んだり苦手なギターをただかき鳴らして歌ったりする間もずっと孤独を胸の底から感じている。私の半生を振り返りながら、なぜこんなに孤独を感じる人間になってしまったのか、そしてそこからの打開を目指すこれはただの意思表示の文章である。
私には仕事がない。2年前にそれこそ孤独に打ち負けて、愛する人のことを追った結果心を病んでしまい休職しそのまま辞めてしまった。だからこそ何もしない時間が増えて、孤独を感じる時間がさらに増えてしまったというお笑い種だ。もちろんスキルも経験も満足なものがないから、今は絶賛求職中である。
文章を読めば皆様にも理解できると思うが、本当に何をやっても中途半端で終わらせてきた。前述したギターとか歌とか絵とか文章とか、やったことあったけど結局何にもならずに私はただ浮浪している。趣味として描いた絵は褒められはするが、いわゆる発達障害の描いた絵っぽいね、で感想はそこで終わる。何もない。何もないのだ。
挫折の経験ばかりで、親の期待をぼろぼろと裏切り続けて、滑り止めの大学に進学し、無事に学歴コンプレックス(と、生まれつきの容姿コンプレックス)を抱えたまま私は生きていくことになる。読んでもほぼ理解できなかった哲学書でやっと覚えてることは、生まれた時から人間は一回死んでいるってことだけだった。私は生まれながらに後悔することも許されず、生まれたことが私の失敗で、死なのだ。
小さい頃から鍵っ子だった。両親は公務員で、毎晩帰ってくるのが遅かった。朝はとても早くの時間に保育園に行くことがとっても嫌だった。朝ごはんは銀チョコとソーセージの菓子パンで、夜はシチューやカレーの作り置き。でも十分に愛されて育ったんだと思う。お金はあったし、大学まで行かせてくれたわけだし。色んなところへ旅行に連れてってもらったし。一人っ子ってこともあったし、女の子だし、それ相応の愛を沢山もらったと思う。いや、それ以上だったかもしれない。
さて、孤独についての話だが。
私が孤独を感じ始めたのはこの歳になってからかもしれない。主人と結婚してからというものの、うまく言葉にできないのだが、会話していないと不安になるという症状に陥ってしまったのだ。
会話中毒、ということかもしれない。主人がいない間は、苦手な人間だろうと好きな相手だろうと誰彼構わず色んな人に電話をかけて3.4時間ほど会話し、なんとかいままで日常を過ごしてきたのである。
Twitterのスペースを活用したり、gravityというアプリも使ったことがある。スペースは結局、自己開示をしすぎた結果、ネットに晒されてしまったし、gravityは自己顕示欲で自撮りを載せて、拾い画像扱いで規約違反になりずっと使えないという散々な結果に終わった。
話し相手がいないわたしは、あらゆる人に連絡を取る。相手を選ばなくなる。性欲由来で近づいてくる人、私を利用したいだけの人。それでもいい、だって私もあなたたちを利用しているんだから、という気持ちでその人たちと時間を過ごす。おかげで友達なのか友達じゃないのかわからない人たちが増えた。
お酒の量も煙草の量も増えた。自分のことが嫌になる前に眠りに落ちて、その日の自分を忘れてまた新しい朝を迎えた。その繰り返し。
人に関与するということは、その人の責任を負うことにもなる。そう主人に言われた。もしかしたらその人生の責任までも負うことになると。
「だから僕は友達を作らない。」
私は衝撃を受けた。私は他人が好きすぎるのだ。多分自分自身を持ってないから、他人の苦しみや楽しみを共有することが自分のことのように疑似体験できる。私は狡い考え方をしていた。常に他人を主軸に生きること、こうやって生きたら他人が喜んでくれる、その期待に応えることがわたしの矜持だったから。他人を幸せにすることがモットーだって偉そうなこと言ってたけど、結局は気持ちいい言葉を吐いて相槌を打ちその場の幸せを飾り付けしてあげるだけの存在で、その人にはなれないし、わたしは自分自身を手に入れることはできない。意味がないのだ。
会話によって一瞬の快楽を手に入れて、私は会話が変に上達してしまった。第一印象がいい。たいていの男性はわたしの会話スキルを好いてくれるだろう。女性はあれこれ自己開示をしてくれて、元彼や現在の不満を私にぶつけてくれるだろう。そうやって会話で自己顕示欲を満たすサイクルを繰り返しても一生私は自分の人生を手に入れることはない。
「聞き上手」と「話し上手」の称号を頂くだけであろう。
名前だけ聞いた事のあるバンドの話して、
名前だけ聞いた事のある哲学者の話して、
やったこともないことをそれっぽく話すだけで得られるコミュニケーションだなんて
何が私のためになるのだろう。何が相手のためになるのだろう。
痛みがわかるよだなんて、どの口から出る言葉なんだろう。
今、こうやって現状を羅列する事でどれだけ自分が無駄なことに時間を費やしてきたのか、己の孤独と己の自我のなさ、自身のなさにどれだけ向き合ってなかったのか、それを意識することができてよかったと思う。note書くことを最近意識したのはそれこそ友達のおかげなのだが、その方法は知られてよかったと心から感じる。
会話はインプットとアウトプットの繰り返しだと思っていたが、全然違う。
そこまで私、考えて喋ってなかった。
そこまで私、考えて聴いてなかった。
その人の意見に対しての冒涜かもしれない。
今、ゆらゆら帝国の「空洞です」のカバーが流れていて、まるで自分のことかと思った。
空洞なのだ。私という人間自身が。
真ん中にでかい穴が空いている。それは何処かでやってる無意味な工事みたいに、埋める必要があるんだ。
埋めるものはなんでもいいかもしれない。生来的か環境的なものかは分からないけど、孤独がそれを開けてしまったから。それは誰かに埋めてもらうものじゃないのは分かっている。自分の努力不足で空いてしまった穴だ、もしくは自分の心の弱さで空いてしまった穴なんだ。
昨日は病院や役所に行った帰りにずっと「空洞です」を口ずさんで、少しだけ自分を好きになって写し鏡やバックミラー越しの自分を見ながら歩いた。暑い夏に外に出られた自分がとても偉い。すこしだけ孤独の残香が消えた気がした。部屋に漂う白檀の香りもいつもより穏やかに感じた。
孤独を愛するために、大きな空洞を埋めるために、ただ日常の「少しの努力」を怠らないようにしよう。結局は自分のご機嫌を取るということなのだ。他人の力を借りずに。自分自身の力で、言葉で、ギターで、文章で、唄で。絵で。心が伴ってなくていい。まずはやることが大事なのだ。外に出よう。人に会おう。顔をみよう。生で話そう。でも相手は選ぼう。嫌な人は嫌、好きな人は好きと言えるようにしよう。長い長い時間だった。色んな人と話す上で人のことを嫌いになれず、無理に自分を押し殺してたりもしたから。
孤独というのは打ち勝つものではあるけど、そのままでは私はきっと勝ち続けなければならない。それは私の心身に負担がいく。勝ち続けるのは苦手だ。じゃんけんも弱い。だから私は孤独を内包し、愛すべきものとする。
結局は大切な人を愛して、1人だけの自分を、自分の時間をも優しい瞳で愛すること。
それが私の今回の意思表示である。
汝、孤独を愛せよ
苦しめど苦しめど
孤独は汝を救わん
未来にて汝に手を差し伸べん