世の中で断言できるのは好きか嫌いかくらいのもんだ
あなたの中にもやもやとした嫌だな、という感情、ネガティブな感情をざっくり全部嫌いにカテゴライズさせちゃうと嫌いが増えて損だなって話をしました
うまく言語化すると自分もうまくコントロールしやすいし、他人に対してもコミュ力上がるってもんです。面倒でもいったんスケジュールや、TO DO表を作ると効率があがる、にちょっと似てる。自分の取り扱い説明書を正しく認識する、にも似てるかな。
世に訴えたい人は多い
1、「世に訴えたい人」の多くは自分の正しさをとても信じているので声が大きい(SNSで強い言葉で発言したり、賛同者を募ったり、物理的に声が大きい事もある)。だから世に訴えたい人は多く見える。
2、多くの人は自分の話を聞いてもらいたい。他人に共感してもらいたいのだ。他人の話を聞くのも楽しいが、自分の話をしているときの方が往々にして人は喜びを感じる。これは自然の話だし、需要と供給が一致していればとても健全だ。だが発信したい、という想いはこのSNSの進化と共に増幅している。というか可視化されている。
3、多くの人が言語化が下手だ。別に自分がめちゃくちゃ上手だと思っているわけでは・・・、いや、自分では比較的上手いと思っているな。言葉を多く知っているわけではないが、自分は感情を言語化したり、減少を言葉に上手に変えることを極めていきたいと努力している。だから工夫するし、良く見極める。だが多くの人はそれをしない。安易な言葉に逃げるし、それによって自分からも他人からも誤解が生まれる。
例えば、誰にも聞かれてないのにこのような発言をしたとする。その真意はなんだろう。
「あのシンガー下手だよね!」
本当か?技術を見てるか?そしてなぜその言葉を口に出した?「音楽わかる自分からすると」という音楽わかっている所を他人に見せたいのか、「嫌いすぎてシンガー貶めたい」薄暗い共感や嘲笑をすることによって自分の方が存在が上である、と勘違いしたいのか「他人を傷つけることに喜びを感じるのか?」自分がその発言をなぜしたかは深掘りするの大事。理由があって気に食わないことがあるのは全然健全。その上で言葉を選んだり、発信する場所に工夫が生まれるから。
「あのシンガー上手だと思いますか?」と聞かれた場合の返事としてはあり。
「あのシンガー下手だけど、めっちゃ好き」褒め言葉になるけど、シンガーが歌の技術にコンプレックスあったり、逆に自信あると傷つけるから公の場所では言わない方がいい。「あの歌声が癖になるんだよね」と言い換えることもできる。
そう、この場合の「上手さ」とは「音楽という技術においての正しさ」が争点になっていて、そこからの発言になると色々な見方が生まれるわけです。
ところが「好き・嫌い」になるとあくまで自分の感覚なので他者が踏み入れることができない領域になる。
どちらが強いか。それは個人の好き・嫌いなんだけど、それだと外に訴えるには弱いからどうしても人は自分の正しさを振りかざしたくなる。
正しいことを言っているという暴力
RPGやファンタジーはとても良いよね、絶対的な悪がいる。しかし、もう創作の世界もここ20年くらいは進化しすぎて悪にも理由がある、現実のような作品が出てきた。正義VS悪、ではなく、正義VSもう一方の正義。
でもこれが本当にその通り。世の中「純然たる悪の存在」って珍しい。「純然たる悪の行為」は存在するんだけど。
でも声の大きい人は大概、絶対的な悪がいるんだ。それは「自分の敵」。自分が完全なる正義である、と信じ込んだ人ほど言葉は強く大きい。
自分が子供の頃、自分が絶対で家族が合わせてくれる。だからちょっとしたことで気分を害する。集団生活が始まる。同等の人間が沢山出てくる。そこで学ぶ。中にはうまく自分を周りに押し付けることが出来る人間、合わせることが出来るようになる人間、うまく対応できない人間。色々出てきて、時間と共に解決出来たり、そうじゃなかったり。色々大変だ。
中には子供のころから大変で自己肯定感を育てられない人もいる。
そこら辺はまたちょっと違う話なので閑話休題。
とにかく、自分が正しいと思えているときって強くない?という事を言いたい訳だ。味方が増えた時に心強くなるのと似ていて、おそらく信仰心にも似ていると思う。自分の信じているものは正しい!という気持ち。
それが自分自身とか単独であれば良いんだけど、自分だけが正しい、自分の属するものだけが正しく、他は誤り、と断言できる人はとにかく他人にも攻撃したがる。そしてそれを善行と信じてるから怖い。
人は色々いるからな、と一つ思えているだけで全然違う。
相手にダメージを与えているのではなく、人間という群れにダメージを与える。つまり自損である、という考え方
ここで想像してほしいんだけど、漫画を読んでて自分の気に入らない展開になった。そしてそのまま好きじゃない展開のまま進んでいくとする。多くの人は「読むのをやめる」「だとしても結末が気になるから頑張って読む」だと思う。友達と愚痴を言ってもいい。大好きだった時を思い返してもいい。でも中には「わざわざ自分好みの展開にしてくれと、本人、関係者に直談判する」人がいるのだ。ごはん食べにいって「もっとお肉多いといいな」「味付けマヨネーズ乗ってたらもっとおいしい」思うのはいい。でも相手に言っちゃう人がいる。
想像力足りないよね。
ちょっと来てそこに触れたアナタより、ずっとそのモノに触れて考えてきた人が色々考えて継続している結論に口を出す。
好意的にとらえられる方が難しくないかな。
わかりやすく、音楽やお笑いや食事の話にしたけど、あなたの人生に口出ししてくる人もそう。もちろんそこが100%善意であっても芯を食わなければ、どうなる?相手のモチベーションを下げることになる。
するとどうなる。もしかしたら新しい作品、商品に会える可能性を潰す事になるかもしれない。未来を閉ざすかもしれない。
人間という群れで考えると、それは損失だ。想像力の無い人は自分には関係のないところだから考慮に値しない所も全部繋がっている。
表に出る以上、批判にさらされるのは当たり前」ということと、「あなたが酷い言葉で罵っていい」ということは同じではないのだ。
何かを相手に伝える、世に訴えるというのはとても勇気がいるし、覚悟がいることである。しかし、それを全く考えないで無責任に声をあげる人ほど自分の正しさを疑わない。
自分が強く言えることは、他者や、他のものに対しては『好き・嫌い』そんなもんだ。そしてそれも言う必要もない事だ。
なぜ言いたいのか、深く追求してみて。
どのような言葉が相応しいのか、色々工夫して。
本当に言う必要があるのか、問いかけて。
それが当たり前になったらとても良いと思う。
面倒だよね。そう、世の中は面倒で複雑なんだ。
そこにシンプルな思いと解決策を模索しながら生きるのが大事なんだと思う。