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街頭をゆく〜梧州街〜

2023年7月7日の話である。
照りつける日差しが否応無しにこの国で過ごした時間の残酷さを突き付ける。これまで幾度と無くそれを浴びせかけてきた太陽が、いつもと違う調子のようだ。

幸いこの一年でこの国のことを深く好きになった。尊大だと言われようとも外国人である私は旅行者とは違う視点を以ってぼんやりとこの国を見つめている。私がここにいる理由を説明するには充分過ぎるらしい。

だからこそあまりにも時間が無さすぎる。過去を振り返ることの無意味さだけは知っているはずだが、それでもこの男が過ごした一年に疑問を持たざるを得ない。

かつて三島先生が止したように、それは極めて非生産的であるためすることはない。しかし、「別に何も無かったわけではない、だけどあまり喋らない」(※ある歌詞の引用である)

とうとう自覚していた、もっとも好きであった性格の一つが限界を迎えているらしい。抑えがたい衝動は恐ろしいほど滑らかに文字という形で紡がれてく。この滑らかさが何より私を非生産的なそれに誘う。だからこそ文字を以って私は抗うのである。

かつて歌を贈った女はもういない〜無論肉体は存在していても、その邂逅を見るとき私はすでに今とは違う何かであろう〜がその黒鉛の衝動は今もなお深く刻まれている。それを餞に永訣としようか!

薄く染まった紅色の意味を明かさずいなくなった女は、その存在を婉曲的に示したものの、この場所で答えを見ることはない。艷やかな髪の香りもいつしか水気に富んだ重たい空気に覆われてしまったらしい。

自殺願望のある女は今では腐れ縁だ。土産話を持ち帰れば十分である。

それでは誰がその問いに答えるというのか!無駄な抵抗を無駄な抵抗と知らずに続けていれば、その延長線上には違った未来があるのだろうか!

幸い私は前を向いている。早とちりがまるでドーパミンのように脳に作用することを想像しているのだ。そして人間は何かに依存する定めであると思いながらも、その円の外で嫌な笑顔を浮かべているのだ。

では、その円の内側にいる私は?

外ではバイクが行ったり来たりと音を奏でているようだ。この音が聞こえなくなるとき、私は自分が笑っていることを今でも信じている。


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