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回顧録及び来年への覚悟

「稲葉の"い"は1番の"い"」
これが自分の最初の記憶である。
幼稚園の頃出席番号が最初だった自分はそれだけの理由で自分が世界の主人公だと信じ込んでいた。もちろん協調性は無く喧嘩ばかりで問題児であったのは言うまでもない。
ただこの思い込みというのは存外悪いことばかりではなく、自分が1番でないと得心が行かないのだから何事においても努力出来たのだ。

当然この事態を憂慮した両親は自分を1学年10人しか居ない近所の小学校に入学させた。
両親の心配を余所に、そこでも出席番号が最初であったが故にこの世は自分が主人公であるかのように振る舞い散らかしていた。

そんな自分が10歳の頃に挫折もとい転機が訪れる。それは小学校の統合と中学受験だった。

小学校が統合され、1クラス30人となり数の多さに圧倒されながら確認した出席番号は3番だった。前の2人は逢坂と阿部である。出席番号などと実にくだらないがそれでも当時の自分は精神的支柱が崩壊したように感じた。そして人数が増えれば競争率も激化する。勉強や運動、以前と違い上位にこそなれども1番にはなれず努力すれど超えることのできない壁に挫折し、その不条理さを恨んだのは鮮明に覚えている。

そして更に大きな挫折を味わったのが中学受験であった。井蛙であった自分は無知であり受験が学習塾の延長線だと思い侮っていた結果、最下層のクラスに振り分けられた。統合先の学校で1番になれないどころか習い事の塾では最下層に落ち零れた現状にただ困惑するしかなかった。
そんな齢10年の自分は理想と現実に葛藤を抱えた末、何事も上位に居ればよいと考えるようになった。これが初めての妥協である。

何か肩の荷が降りたように感じそこからは随分と楽に生きれるようになった。しかしこの妥協は後の人生において尾を引くこととなる。

そして中学受験を終え第二志望の中高一貫校に通うこととなった自分はそこで艱難辛苦の6年間を過ごすこととなる。
そこでは上位2クラスと下位4クラスに分かれ上位の最下層5名と下位の最上位5名が毎年入れ替わる暗殺教室も真っ青のシステムが導入されていた。

その頃には1番になることなど既に諦め下位クラスに落とされ無いように糊塗していた。そうして高校生になる頃には妥協と屁理屈を並べるのが上手になり、東京一工を志望する周囲を余所に自分は外大を志望した。数学要らずだが国立で箔が付くと言っていたのは覚えている。
随分後ろ向きな志望動機だが勉強に邁進した結果、浪人したものの無事に合格しその頃には外大愛も芽生えていた。

大学に入ってから更に妥協の日々となっている。特段留学に行く気はないので単位は取れさえすればいい、外実で仕事をしたいが渉外局を選んだ理由が実は就活に使えそうだからという打算に塗れ後ろ向きなものであった。

しかし実際に外実に対する思いは止む所を知らず、渉外局も胸を張って1番好きな居場所であると断言出来る。
外実では組織の中で1人1人が協力し外語祭という一つの目標に向けて全身全霊をかけて努力する楽しさを知ることが出来た。
渉外局は仕事柄皆を資金の面から支えることにやり甲斐を持ち仕事に対して自信を持って行えている。そして何より居心地が良く安心して居られる数少ない自分の居場所である。

そんな日々を過ごしているが本祭があと一ヶ月で始まり、それが過ぎれば自分は渉外局長となる。
これから渉外局を率いる人間が妥協を繰り返し頼り無いままでいいのだろうか。いや、良い訳が無い。

長々と自分の半生及び外実渉外愛を綴ってきたのだが、結局言いたいことは腹を括って大好きな外実と渉外局に全身全霊を捧げ誰からも信頼されるような局長になるということの宣言である。
局長という大役を任される以上歴代の渉外局長を超える偉大な局長として覚悟を持って勇往邁進していきたいと思う。

拙く冗長とした文章で大変恐縮だが以上で締め括りとさせて頂きたい。

バウアー(渉外局2年)

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