【書評】山名淳・矢野智司編著「災害と厄災の記憶を伝える − 教育学は何ができるのか」(図書新聞・2017年9月23日付)
山名淳・矢野智司編著「災害と厄災の記憶を伝える − 教育学は何ができるのか」勁草書房 4000円+税
あの日から六年がたった。東日本大震災と福島第一原発事故に、おおくの日本人が向き合わざるをえなかった。その中には、教師や教育学者といった教育に関わる人たちもいる。「教育学は何ができるのか」というサブタイトルに、本書を執筆した教育哲学者たちの向き合い方が集約されている。共同研究の出発点が阪神・淡路大震災(1995年)に関わる記憶の伝承と教育の問題であり、「厄災の教育学」(矢野智司)の視野は災害にとどまらず戦争や環境汚染をも含むものであため、その研究の裾野は極めて広い。
「教育は基本的に上昇志向の営みだ」と認めながら、そこに災害と厄災という「カタストロフィー(破局)」を引き入れるという困難さ、「表現への意志を人々から奪う」という表現の困難さが、二重三重に教育者がこの問題に向き合うことを難しくしている。それでも「災害をめぐる教育は、子どもたちに大きな不安や絶望を与えかねないリスクを負いつつも、そのギリギリのところで彼らの保護を試みて主題を希望へと、あるいは人生の意味へと接続する極めて高度な課題を引き受けている」という確信が、これまでの「災害の教育」と同じように本書の根底にはある。
災害に向き合おうとする防災教育・減災教育の多くが、「そのとき」の地域社会を一部に組み込みながらも、学校という空間や教師と子ども・その家族の関係という「閉じた」教育空間で語られてきた。これに対して、「記憶空間の教育学(Gedenkstattenpadagogik)」(山名淳)という枠組みのもとで位置づけられる「記憶を伝える」という行為は、学校—ミュージアム−都市というより広い教育の場(想起アーキテクチャ)で語られる。それを象徴するものが、「厄災ミュージアム」の構想であろう。「それから」を生きることになった人間が、遺品となったモノと物語に耳を澄まし、「なぜいまこの私たちにこのような理不尽なことが起こるのか」「生き残ってしまった私たちはこれからどうすればよいのか」を問う場である。「厄災の教育」は、破局に抗する市民の形成という社会的次元と、受苦の思想やケアや他者への倫理といった臨床的人間学的次元の二重の教育課題をもつとされる。
このように本書は、思想的アプローチを中心に厄災にかかわるさまざまな次元の領域を横断し連結することで、災害と教育をめぐる考察を深めようとしている。しかしながら、ここで語られているものは、教育哲学からの理論的・思想的な提起ばかりではない。「東日本大震災における教育の役割」(川端健人)や「災害ミュージアムという記憶文化装置」(坂本真由美)、「学校で災害を語り継ぐこと」(諏訪清二)のように、それぞれの災害に関する教育実践からの論考も重要な役割を果たしている。
かつて評者は「<3・11>と向き合う教育実践」は、3つの問いと向き合わなければならないと述べたことがある(朝岡幸彦、2013年)。①なぜ東日本大震災によってあれほど多くの犠牲者と被害が生まれたのか。②私たちは東日本大震災によって失われたものとどのように向き合うべきなのか。③どのように東日本大震災とこれから起こりうる大規模災害を次の世代に伝えていくのか。表現の仕方やアプローチの手法は違っていても、まさに本書が提起する「災害と厄災の記憶を伝える」と重なり合うところが大きく、本書から受ける示唆も多かった。戦争体験も、公害被害も、さらに震災の被災体験も時間とともに当事者が去り、記憶は薄れ、そのリアリティも失われていく。犠牲者・被害者・被災者とともに「厄災」と呼ばれる出来事そのものが、「忘却の穴」のうちに消滅させられてしまう事態に直面する。だからこそ、「記憶を伝える」ことを教育学にどう位置づけるのかという提起は重要な意味をもち、本書の意義もそこにあるのであろう。
とはいえ、東日本大震災の記憶は決して過去のものとはなっていない。とりわけ、福島第一原発事故はいまだに進行形のものであり、避難指示区域の解除に伴う学校の再開をめぐる住民の対立、横浜市をはじめ各地で明らかとなった原発事故で避難した子どもに対する「いじめ」など、避難者の新たな記憶が生み出されつつある。まさに、交換可能な商品に対して遺品が一人ひとりの生きざまを映し出すように、数字に置き換えることのできない被害者・避難者の「生」の個別性にもっと注目することが、教育学には求められているのであろう。また、防災教育や減災教育、災害教育とならんで、レジリエンス教育、復興教育などの新たな教育概念の提起もなされている。
私も関わる日本環境教育学会も震災を契機に『授業案 原発事故のはなし』(1994年)を刊行して、避難した子どもに対する「いじめ」について問題を提起してきた。本書を編んだ教育哲学者たちが、さらに多くの教育実践者と交流し、より広範な領域の教育学者たちと議論することを期待したい。
朝岡幸彦(東京農工大学)