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とんぼのめがねの「みずいろ」は何バイト?

「みずいろ」はけっこう重たい


「みずいろ」のひらがなテキストデータなら12バイト。「水色」の漢字なら6バイトです。では、この「みずいろ」を、MS明朝の12ポイントで10人のイラストレーターにメールで送って、水色をデータをCMYK(4色指定)で返してもらうとしましょう。果たしてまったくおなじ「みずいろ」が帰ってくるでしょうか?

かつて「五感ブランディング」という、ブランドの「らしさ」を音や色、匂いや触り心地で探して定義する、という、これまた摩訶不思議なことを真面目にやっていた時期がありました。

たとえば、アルファロメオというイタリアの自動車ブランドには、ほんの僅かに黒が隠し味に入った「アルファレッド」という色があったり、フランス車のアルピーヌというブランドに使われるブルーは通称「フレンチブルー」という抜けるような清々しい青が象徴的だ、といった具合に、ある色を見ると特定のブランドが連想される、というのがあり、ブランドを大切にする会社はそうした色を含めた五感の管理にとても神経をつかうと言われます。偽物と見分けるために、色、形、ロゴなど、あらゆるブランドの「らしさ」を厳密に決めて管理するのです。

「みずいろ」をテキストデータで送るのは簡単ですが、その「みずいろ」を解像度の高い写真ファイルで伝えようとなると、数バイトだったファイルはキロバイト(1,000倍)、メガバイト(100万倍)とかんたんに膨れ上がります。みずいろ、を伝えたいだけなのに、ファイル圧縮をかけたり、ファイル転送サービスを使ったりして、当時にその「みずいろ」の重さを体感しました。

ZOOMでコミュニケーション解像度は上がった?下がった?

リモートワークのビデオ会議で、色々なことがスムーズになりました。これは、一対一の電話連絡が、複数人数の映像会議へと解像度が上がった、とも言えますし、逆に生の会議から空気感や間のような五感データがごっそりと抜け落ち、激しく解像度が下がった、とも言えるかもしれません。そういう意味では、電話と生会議の中間解像度が新たに生まれたということでしょうか。フルリモートの業務なら「うちの会社は常時中くらいの解像度のコミュニケーションでいくよ」ということになりますね。

デジタル化を礼賛する人は、シンギュラリティに向かってこの粒度が幾何級数的に細かくなっていき、リアルとデジタルの間がなくなっていくと言います。そうすればZOOMの解像度も中から高に向かい、やがて「みずいろ」を伝えようとする人と受け取る人の感覚的なズレが消えて、誤解のないテレパシーの世界、ユートピアができる、ということになる。
一方で、この「みずいろ」を咀嚼するには記憶が必要です。で、その記憶だけは人それぞれ違うので、「みずいろ」を解釈するときの主観的な品質感を「クオリア」なんていうそうです。なので、まったく同じ「みずいろ」五感データを伝えても誤解は埋まらない、ということになりますね。デジタルが誤解のないユートピアをつくるのか。溝を深めるのか。どちらが正しいのかは僕にはわかりません。

解像度を敢えて下げる印象派と詩人の効果

ただ、このデジタルの解像度で面白いと思うのは、解像度を上げる方法だとむしろ伝わらず、解像度を下げたほうが強く伝わる、ということがあまり議論されていないことです。

学校の美術教科書にも出てくるクロード・モネの「睡蓮」は、白内障が進むほど解像度は粗くなっていきますが、その筆圧はより力強く、蓮池の水面の様子がありありと伝わるという不思議なことがおきます(印象派と呼ばれるそうです)。写真のような解像度の高い絵のほうがより伝わるはず、という流れと逆光する。

議事録のような写実的な文章より、ランボーやボブディランのような詩人の言葉のほうが歴史を動かしたりするのは、その粒度の粗さ・解像度の低さ故に、人間の脳がその解像度を補正しようと、強制的に動かされるからなのかともおもいます。これが、はたして数多あるSNSでもTwitterがしぶとく生き残っている理由、かどうかは定かではないですが。

かようにも、人間の脳はそこにない情報を埋めようとするときによく動くらしい、というところでは、蓮池の4K写真を見て、池の水面のゆらぎを想像すれば心は動くし、解像度の粗いモネの絵を見て、そのピントをあわせようとしても脳は動く。

世のデジタルキッズは、みな解像度を上げることにやっきですが、あえて解像度を下げるテクノロジーをあれこれと考えているところです。

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