見出し画像

AIが本気で働き始めるとどうなる?(前編)

割と重要なテーマで、当分モヤモヤが続く話。自然言語生成システムを生業とする経営者として、ずっと向き合わねばならぬ問題がこのHCAI(Human Centered AI:  人間中心のAI)である。

はじめに断っておくが、自分は今後、生成AIは人間に不可欠なものになり、人間の行動、心理、文化、社会を根本から変える存在になっていくことは避けられないと思う。これは後編であらためて中国の気鋭哲学者ユク・ホイを取り上げて語る。
その前にまず、生成AIと仕事のリアルについて、自らの生活感覚と地続きにさせながら、できるだけ深ぼってみる。

「生成AIは、奪った仕事を倍返ししてくれる」論

「AIで仕事を奪われる業種ランキング」的な記事が世に出尽くすと、こんどはAI推進の大手コンサルやシンクタンクが、産業革命の事例を金科玉条に振りかざしながら「新技術の発明は一時的には人々の仕事を奪うこともあるが、その後新しい産業を生み出し、新技術の登場以前よりも圧倒的に大きな雇用を創出するものだ」と言い出す。

曰く、AIが仕事を代替し、人間は人間にしかできない仕事をやればよい。クリエイティビティのある仕事、接客やコミュニケーションの仕事。AIがBullshit Jobを濾し取って、そこには澄んだ人間らしいキラキラな仕事だけが残る。AIのおかげで、ようやく人間は本来の人間性回帰を果たせるのだ、というシナリオだ。響きとして美しい。そうなればよいのに、と、ほんとうに思う。

しかし、はたしてこの「新技術はそれが奪った仕事の倍返しをしてくれる」という神話はほんとうか?自分には、これが知的エリート達の根拠のない上から目線に見えて、リアリティのなさへの違和感を禁じ得ない。

現代が産業革命のままならAIは無条件に正義

第一に、この「生産性向上=経済成長=雇用創出神話」が眉唾である。技術革新により生産性が爆上がりし、人口が爆増した近代の産業革命モデルが今もそのまま当てはまるのか?現代の資本主義は、実はまだ近代の産業革命時のモデルを引きずったままだから、OSの更新が必要だという、ポスト資本主義の議論が加熱しているが、結論は見えない。

株主価値最大化が前提で、事業利益の増大が経済の最善という、無限成長を前提とした近代社会が、今も、これからも、地球環境とも親和性の高いモデルとは思えない。経済の前提そのものがおかしくなっている中、AIの登場が新たな産業と雇用を生み出し、さらなる生産性をあげ、経済を、そして世界をさらに豊かにするだろうという話を、なぜそんなに屈託なく言えるのか?

企業の存在意義は、もはや飽くなき欲求喚起と消費促進ではなくなっている。にもかかわらず、そういう産業革命モデルを引きずったままの企業が、AIを使って生産性を高めれば、それは知的エリート達が謳うような人間回帰へと帰結はしない。むしろ、さらに新しいBullshit Jobを増やすだろう。いや、すでにそうなっている。

HCAIじゃなくてアイク(AICH:AI Centered Human)?

生成AIのフォーラムで、ある大手メーカーの「生成AIの活用」なる実例講演を聞いた。生成AIを多く使った部署が表彰されたり、生成AIを使った事例を内部で共有するための大掛かりなイントラネットを新たに設置したり、生成AI利用で著作権や虚偽、情報漏洩のトラブルが起こらないよう、RAGを引き回したりチェックフィルターを立てたり、全社的な研修制度やブックレットを印刷したり。生成AI起動毎に、画面上に「生成AI使用上の注意」のコーションが毎回表示される、といった徹底ぶりには恐れ入った。

さらには、生成AI推進のアニメのキャラをつくったりして、生成AI活用キャンペーンを大々的に展開。一種のお祭り騒ぎが繰り広げられていた。

生成AIによる新たな雇用の創出?確かに生成AIを推すIT系コンサルや、啓蒙イントラネットシステムを作るシステム会社、生成AI啓蒙のアニメキャラを作った広告会社には、新たな仕事が生まれただろう(自分が前職の広告代理店にいたら提案しかねなかっただろうとも思う)。
しかし、生成AIをチェックし、管理・監視することになった社員達の新たな膨大な仕事は、AIに傅(かしづ)くBullshit Jobと言わずして何といえようか。明らかにアイクAICH:AI Centered Humanである。

生成AIが本気で働き始めるとどうなるか?のシミュレーション

第二に、生成AIが既存の仕事を置き換えていくシナリオをイメージする時、どうしてもディストピアにたどりついてしまうのである。明るいリスキリング、明るい活力ある未来が、ありありと想像できない。

たとえば、企業が生成AIを活用して、社員の仕事を1/2にできたとする。社員はラクをして、同じ給料をもらえるようになるとしよう。時給換算すれば、給与が倍になるということだ。その時経営者、つまり、日本企業の大半を占める中小企業の社長さんたちはみな、半分の時間しか労働しなくなった社員に、同じ同じ給料をすんなり渡すだろうか?

渡さない?ならば、社員に浮いた半分の時間を、別な仕事に充ててもらわねばならない。帳票管理やら、エクセルの集計やら、綺麗なパワポ作りの時間はAIに任せることになり、社員は給与に見合った実効性のある、それでいてい「人間にしかできない仕事」を探さなければならない。
但し、AICHは、タコが自分の足を食べるようなものだからもちろんダメだ。もっと人間にしかできない仕事を、ゼロから考え、戦力=収益になるレベルで発揮できるように…。ちょっと待て?そもそもそんな仕事、その会社に創出されうる余地があるのか?万が一見つかったとして、リスキリングでそう簡単に変身できるものなのか?

そんな新しい仕事は、ずばり、ない。ならば、心ある日本の中小企業経営者は、給与を据え置きつつ、勤務時間だけを半分にする。給与据え置きで時短。んな甘い経営者は、おそらく、いない。
そもそも日々、返済に追われる中小企業経営者にそんな余力はないから、勤務時間を半分に、給与も半分にして、あとはAIに任せたとしよう。こうなると、社員のほうは子供の給食費も住宅ローンも払えなくなる。
そこで真打登場、ベーシックインカムの出番だ。国がごにょごにょと財務省を巻いて、給料の半分を補填できたとする。社員はこれで、半分の労働時間で幸せに暮らせる。めでたしめでたし。
さて、社員は余った半分の時間をどうするだろうか?アートをしたり、ボランティアをしたり、第二の人生を人間らしい営みに有効に使うことで、人間本来の生活をより謳歌するようになるだろうか?本当か?パチンコや競馬、化粧品やネックレスに使ったりしないか?ほんとうに?

AIが奪うのは仕事ではなく「尊厳」である

自分に結論はまだ、ない。ただ、國分功一郎著「暇と退屈の倫理学」にあるが、人間は「暇」の使い方が下手だ。だからせっかくの「暇」をつい「退屈しのぎ」で埋めてしまう。Bullshit Jobだろうが、パチンコだろうが、競馬だろうが。Bullshit JobをAIに明け渡した人が、時間と金を与えられたとて、それが人間回帰の美しいシナリオになるかはわからない。AIに仕事を奪われ、見返りに時間と金を与えられても、奪われた尊厳はかえってこない。尊厳を奪われた人は与えられた「暇」の中に何を埋めるだろうか?「人間らしい営み」?それとも「退屈しのぎ」?

先だって函館の路面電車での話。しおしおなお婆さんが降車際に運転手さんに静かな会釈をした。運転手さんは、実に優しい笑顔で会釈を返した。これが、運転手さんの仕事の「プライド」であり、尊厳の煌めきだ。
それがたとえ、AIや自動運転に代わりうる業務であっても、それを仕事として営むことで「ありがとう」と言われたり「上手だね」と褒めてもらう小さい承認が生まれ、生きている存在価値を実感している人もたくさんいるだろう。そうした人に「もっと人間しかできない別な仕事を探せばいいじゃないか。リスキリングせよ」と上から目線で言い放つことに、違和感を感じるのである。

AIが仕事と共に尊厳を奪うなら、新しく与えるべきはお金と、「ありがとう」と言われる新たな尊厳ではないのか?それなしに、生成AIを「とにかく使って考える」はあまりに雑で危険すぎる。その危険性を、ユク・ホイはアヘン戦争に遡って語っている。(続く)

いいなと思ったら応援しよう!