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赤穂緞通「桐唐草」が織られた時代

私が赤穂緞通の織り手になるきっかけとなった「桐唐草」
大阪から赤穂に移住した父が要介護になって、足しげく実家に通っていたある日。訪れた赤穂緞通工房で先輩が織ってられた「桐唐草」にとても心惹かれたのです。残念ながらその時の糸は藍染めではなくて、現代では本藍染めの糸が入手できないと知って、私が本藍染めの桐唐草を作る!と衝動的に思ったのでした。それから20年近くの年月が流れました。講習生を経て独立したのが14年前、それから探し続けて天野紺屋さんに辿り着いたのが4年前、今ではほとんど藍染糸だけで段通を織っています。

コントレイルギャラリーにて

このあいだまで開催していた展示会で久しぶりに「桐唐草」をながめていた時、この緞通に異様に惹かれた理由がようやく理解できました。
これは私がこよなく愛する1920年~30年代ごろに織られた緞通だったのです!なぜならこの柄が図録に保存されている赤穂緞通製作所は1930年ごろから1938年に稼働していた記録が残されていて、そのデザイン顧問をしていた洋画家の中村義夫がパリから日本に帰ってきたのが1926年、その2年後に奈良高畑に移住しています。★31年ごろから赤穂緞通のデザインに関わったとみられ、それまでとは全く異質の洗練された斬新な文様がこの時期の赤穂緞通製作所の特徴です。思い返せば初めて一畳物を作ることを許されたときに選んだ「秋の七草に蝶文」もこの製作所のこの時代の文様でした。
★この部分は地元の資料にあたった結果、当初の文から修正しています。

去年から通信制の美大で学んでいて、ようやく20世紀の芸術史に辿り着き、20世紀始めの戦争で痛めつけられながらも世界中で爆発するかのような自由で活発な空気を身近に感じました。日本では大正デモクラシーから昭和モダンといわれたやはり自由な空気に満ちた時代。今期のレポートはその時代の関西モダニズム建築や泰山タイルをテーマに書き、やっと辺鄙な赤穂にもその時代の風が届いていたことに気づいたのです。

青春時代を過ごした京都で巡り合った、居心地よくとても心惹かれた建物やタイルたちは、東京などに残る正統派のモダニズムとは違ったテイストが混ざっていて、どうもウィーン分離派とされる自由さの香りが漂っている。そこを追求していきたいと思ってた矢先に、自分の仕事もそれを追っかけていることがわかって心が晴れ晴れとしました。美大で学習しようと思った目的は、資料が少ない赤穂緞通について学術的にきちんとした言葉で資料を残すためだったのです。着々と目的を達成しているようで俄然やる気がわいてきました。

100年近く前の赤穂古緞通とそれをモチーフとした赤穂ギャベ


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