「トレーナーを目指したきっかけと約束」
初めまして本間夏空斗(がくと)と申します。
高校時代の仲間がnoteをやっていて、自分も!と思い軽い気持ちで初めてみました。今年から社会人となり、これまで以上に人に影響を与える立場に変わると思うので少しでも僕の考えをまとめておく場を作りたいなと思います。
僕は山形生まれ山形育ちの田舎っ子です。そんな僕は今、東京にあるスポーツトレーナー養成学校で勉強をしています。今回は僕がなぜ東京に来てスポーツトレーナーを目指そうと思ったのかをお話ししていきたいなと思います。
その前に、高校時代の話を少しさせていただきます。僕は山形県鶴岡市にある羽黒高校サッカー部の出身です。羽黒山という山が近くにあるほどほんとに周りに何もない田舎街です(笑)そんな僕たちも在学3年間の間にインターハイ1回、選手権2回の計3回全国大会に出場することができました。嬉しいことに僕達の代では、新人戦、インターハイ、選手権と県3冠を取ることができました。でもこの話はあくまでも山形県大会。全国大会に出て県外のチームと戦うのとでは話が全く違ってきます。僕達の代のインターハイと選手権のエピソードを話していこうと思います。
インターハイは2018年の3年前に三重県で開催されました。相手は茨城県代表の明秀日立。個人的には、しっかりメンバーとして出る初めての全国大会でした。結果から言いますがPK戦で負けてしまいました。残り5分まで2-0とリードをしていての負け。夏の暑い環境で最後まで走れない、全国大会では体のデカさもまるで違う。自分たちの力のなさと同時にここでトレーナーの重要性ということにも気付かされました。僕達のトレーナーさんは大会の際に足を運んでくれる方で大会前の調整合宿からたくさん僕達のためにあらゆる面でサポートしてくれました。練習後の体のケア、食事、W-up、トレーナーさんの部屋でみんなでたわいもない話をしてリラックスできる空間を作ってくれたり。そんなトレーナーさんも毎日の学校の練習はいないのです。1人でも知識があるトレーナーさんが普段の練習にいれば結果が変わっていた可能性は十分にあったのかなと今トレーナーの勉強をしていてすごく思います。
次に選手権のエピソードについて話していこうと思います。インターハイの悔しさを持って臨んだ最後の全国大会です。いつものトレーナーさんに加わって僕のお兄ちゃん(医療関係とトレーナー関係の資格をダブルで取ろうとしているいかれてる兄)がチームのサポートをしてくれました。今思うとこのお兄ちゃんの影響がトレーナーになると決めたきっかけに大きな影響があったと思います。インターハイでもあったように調整合宿から本戦に臨むまで最大限僕達がいいコンディションで戦えるようにサポートしてくれました。体の調子も良く本戦前のトレーニングマッチでも全国常連校に勝つことができ自信を持って本戦に臨みました。山形県は10年以上全国で1回も勝てていないという嫌な歴史があります。そんな山形県の思いも背負いながら本戦に臨みました。結果は0-3。正直ここで負けるとは思っていませんでした。大きなスタジアム、たくさんの観客、メディアの方々。インターハイとは比べ物にならないくらい大舞台でした。そんな状況下での試合に耐えうるメンタリティも大切なんだとこの大会で気付かされました。
通常練習に来てくれるトレーナーがいない、怪我をしてもそのまま放置、リハビリもせずチームに戻りまた再発、最後まで走りきれない、当たり負けをしてしまう、メンタル的要素がまだ未熟。そういった自分たちが経験したからこそわかることもあると思うし、何より自分たちが成し遂げられなかったことを今度は指導者の立場になり成し遂げたい!そのような様々な想いがありトレーナーになることを決意しました。
専門学校は今年の3月で卒業です。2年間死に物狂いで勉強して合格率が10%と言われる資格試験に合格しあとは実技試験を残すだけとなりました。もう羽黒高校に戻ってトレーナー活動をやらせて頂けるというお話もいただき、地元の治療院で知識を深めながらサポートをして行きます!
それともう1つ高校時代のキャプテンはサッカー指導者の道に進み、次期羽黒高校の監督になるべく、勉強をしているとのことで全国で勝つだけではなく僕達は全国で優勝させることを目標にこれからも頑張っていこうと思います!笑われる大きな目標かとも思いますが、絶対にできると思うし達成させて見せます💪
高校時代に出会えた仲間はほんとに一生ものだと思います。他にもたくさん頑張ってる人たちがいてすごく刺激を貰います。そんな人たちの力も借りながらこれからも頑張って行きたいなと思います。
長々と書いてしまってすいません(笑)
こんな自分のnoteを最後まで見ていただきありがとうございました!🙏