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初めての毎日【短編現代ファンタジー】

「…おはよう…ございます…」

朝食の支度をしていると、夫の圭太が起きてきた。怪訝そうな顔で私を見てる。

「…あの…あなたは…どなたですか? ここ…私の家ですよね…」

私は答える。

「そうよ、あなたと私の家。そして私はあなたの妻、清美よ。」
「え…妻?…」
「さ、いいから、早く朝ごはん食べて。ちょうど今トースト焼けたから。急がないと、会社遅刻するわよ。」
「あ、はい…」

テーブルに座り、いそいそと朝食を食べ始める夫。だんだん顔が綻びはじめる。

「ああ…美味しいです。こんな美味しい目玉焼きを食べたのは初めてだ… トーストの焼き加減も絶妙ですね。」
「それはよかった。はい、コーヒー。」

夫はコーヒーの香りを味わいながら、ゆっくりと啜っていく。

「はあ…これもまた美味しいなあ。こんな美味しいコーヒーを飲むのは初めての経験ですよ。ごちそうさまです。」
「どういたしまして。」
「ところであの…そのお腹はもしかして?…」
「そうよ、妊娠6カ月。あなたの子供よ。」
「え…私の?」
「さ、いいからいいから。ほんとに会社遅刻するから! 急いで!」
「は…はい!」

慌ただしく家を出ていく夫。そして一人残った私は軽くため息をつく。

そう、これが我が家の毎日のルーティン。最初はふざけてるのかと思ってたんだけど、もう3カ月になるかな。でも割と気に入ってるんだ。こんな日々をもう手放したくない…

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一度、人づてに精神科医を紹介してもらって相談したこともあった。

「それはたぶん、解離性健忘ですね。」
「カイリセイ…ケンボウ?」
「はい、記憶障害の一種です。強い精神的ショックが原因で起こるものです。自分の心を守るための防御反応と言いましょうか。あなたとの関係性の記憶のみが、夜寝るとリセットされてしまうということですね? 他の仕事等の記憶に問題ないとすると、特定の物事に対してのみ情報が欠落する、系統的健忘と思われます。ただそれが毎晩繰り返されるというのは、かなり稀な症例ですが。」
「そうなんですか…」
「何か原因となる心当たりはあったりしますか?」

私は泣き出してしまった。

「私の…私のせいなんです!」
「お聞きしてもよろしいですか?」
「あの人は、もう何年も前から私にも家庭にも興味がありませんでした。家で一緒にいても一言も会話がなくて…。食事の時も、ヘッドホンをしてスマホの動画を観てるような人だったんです。…当然…夜の方も…」
「セックスレスだったわけですね?」
「はい…ですから子供も欲しかったのに諦めざるを得なくて…。もう一緒にいる意味がないと思って、ある日離婚届を見せたんです。別れてほしいと。」
「なるほど。」
「そうしたら、彼は激昂して自分の寝室にこもってしまったんです。三日ほど会社も休んだでしょうか。そして部屋から出てきたら、そんな状態で…」
「よくわかりました。今度ご本人を連れてきていただければ、詳しく診断して処方できると思います。」
「わかりました。またよろしくお願いします。」

頭を下げる私に、医師は言った。

「これは…余計な事かもしれませんが…」
「はい。」
「彼はまだ…あなたを愛していたんでしょうね。」
「…そうかもしれません…ありがとうございました。」

診察室を出ながら私は決めた。やっぱり病気なら、もうこのまま治らなくていいわ。治すもんですか。だって今が…幸せだから。

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今日も夕飯に間に合うように夫が帰ってきた。今夜のメニューはキノコのアヒージョ。昔から一番の得意料理だったの。

「おじゃまします… わあ、ご飯作ってくれてたんですか! 感激だなあ。」
「さ、冷めないうちに召し上がれ。」
「美味しそう、いただきます! ん…これは絶品だ! こんな美味しい料理、食べたの初めてですよ! しかも…」
「しかも?」
「貴女のような素敵な人に作ってもらって一緒に食べられるなんて…」

赤らんだ彼の顔は、飲んだワインのせいだけじゃないみたい。

テレビにはスカイツリーが映ってた。展望室からの東京の夜景が宝石を散りばめたように光り輝いてる。

「スカイツリーはまだ登ったことないなあ。今度、一緒に行ってみませんか? 素敵ですよね!」

そうねと軽い相槌を打ちながら、私は思い出していた。あそこはね、あなたがプロポーズしてくれた場所なのよ。私はさりげなくチャンネルを変えた。

「あの…僕ら夫婦なんですよね…?」
「そうよ。だから?」

わざとらしく聞き返す私。

「あの…このあと…」
「わかってるわ。そうしたらお風呂できてるから、お先にどうぞ。」
「はい!」

嬉しそうに風呂に入りにいく彼を見ながら、安堵のため息を漏らす。あぶないあぶない、そんな昔の記憶が戻りそうなところに行くわけがないじゃない。そっとこのままで… ね。

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ベッドの中で、お腹の子を気遣いながら優しく愛撫をしてくれる夫。愛されている実感を噛み締めながら思う。

ああ…幸せだわ。こんな毎日なら、私決してあんな事にはならなかったのに。そう、先生には言わなかったけど、離婚騒ぎの本当の理由は、私の浮気と妊娠がバレたから。今一番の願いは、浮気相手のあいつに似た顔の赤ちゃんが産まれてこないこと…ただそれだけ…

[了]

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創作サークル『シナリオ・ラボ』1月の参加作品です。お題は『初体験』。

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