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続:100年後に受け継ぎたいものはありますか?

文化財は残すべきなのか。残すには膨大な費用と労力がかかる。本当にそれに値するのだろうか。

東大寺や首里城ならまだいい。しかし、全国に408件あるという国指定名勝や13281件あるという重要文化財はどうだろう。そのすべてが費用や労力を賭して残すべきものなのだろうか。

日本はそれらの保護にお金をあまり出さないと言われる。だから、必ずしも税金の使い道の話ではない。当事者が私財や人生を投げ売って文化財を守っていたりする。

もちろん、当事者は遠い先祖から引き継いできたものであるわけで、自分たちの世代で失うわけにはいかない、何としても残したい、と言うだろう。しかし、それは本当に人生を賭けるべきものなのだろうか。

ここに来て、ひとりひとりが自分ごとに置き換えることができる。先祖から受け継いだ家や土地のことを、みんなはどう考えているのだろう。

ぼくの場合、和歌山に先祖代々の土地があるのだが、それは両親の世代で分断されていて何の関心もない。父親は責任を持って守ろうとしているようだが、ぼくの世代にまわってきたら秒で相続放棄だ。しかし、両親がぼくを育ててくれた大阪の家においてはどうだろう。

少し考えてみたが、背負う歴史の重みが軽すぎる。というのも、大阪の家はニュータウンのマンションで父親が購入してから25年の歴史しかない。ぼくは大学から大阪を出たので8年しか住んだことがないし、家というより、物件としか見れないだろう。すなわち人生を賭けて守るには値しないと即決できてしまう。この角度からは文化財を守っている人たちの気持ちとシンクロできない。

では、家や土地ではないとすれば、自分が両親から受け継いだ物は何だろう。たとえば、ぼくの父親は祖父が残した大量の古いカメラやオーディオ機器を延々と修理しては、供養するようにヤフオクで放流している。ときには50万で売れたりもするそうだが、それはそれで受け継いだ物との向き合い方と言えるだろう。

こうした物は遺品整理をする段になってはじめて気付かされるものかもしれないが、想像できる範囲において、ぼくに受け継がれる物はなにもない。古い着物やダイヤのリングがあるわけでもないし、祖父のカメラが回ってきても邪魔なだけ。おふくろの料理のレシピを残したいとも思わない。

ぼくが物に無関心であることも影響しているだろう。ただ、性格や身体的特徴、あるいは現金といったもの以外に受け継がれる「物」がない。そう思ってしまうのである。

ここに来て、結局は「遺伝子」という結論に辿り着くのだろうか。先祖代々の遺伝子を残したいというのは生物的無意識で全員に当てはまる。究極的に言えば、人はそれ以外に何も残すことができないのというのは正論だ。では、どんな遺伝子か。母の無償の愛と、父の直す力だろうか。ただ、そこまで行くと「文化財を残すべきか」という議論から飛躍しすぎている気がする。

ここに来て、話をひとつ前に戻してみよう。受け継がれる物がないならば、自分が新たに生み出した物。ぼくの場合、これまで書いてきた文章や冊子であれば、残したいと思う。子孫に、ではない。世界に残したい。たとえ、多くの人に読まれる筆力がなくても、100年後のとある一人が読んで心に残してくれたら救われる。

これならば、文化財を守っている人たちも同じ気持ちだろうか。たとえ、13281分の1の文化財であっても、100年後のとある一人のために残したい。それが「未来に残したい」という言葉の正体ではないだろうか。

ただし、ひとつ気づいたことがある。ぼくの場合、残したいから人生を賭けているわけではない。人生を賭けた物だから残したいと思うのだ。この逆転現象が文化財を守る人にあるのかどうかわからない。

では、こう考えるとどうだろう。先祖代々の始祖に当たる人は何も受け継いでいないところからスタートした。そして、自分が人生を賭けた物を残したいと思った。それが受け継がれるべき物であったから、残すために人生を賭ける人があらわれた。そう結論すれば、「100年受け継ぎたいものは何ですか?」という問いの答えに辿り着けるのかもしれない。

ある人が良い言葉を残していた。「あなたはよき祖先になるためにどうしたらいいですか?」奇しくも、この思考の旅はその言葉に収束していく。

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100年後に受け継ぎたいものはありますか?
たとえば、先祖代々の家や土地はどうですか?
そうでなければ、両親から受け継いだ「物」はどうですか?
あなたが新しく生み出した物で受け継ぎたいものはありますか?
実は、文化財も始祖まで遡れば新しく生み出した物。
あなたはよき祖先になるためにどうしたらいいですか?

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