留年バックパッカー06

バンコクに着いた。

ペナン島から対岸のバタワースまでフェリーで渡り、そこからマレー鉄道の寝台列車に乗って約1,000km。東南アジアの熱帯雨林を走る「深夜特急」で、かの沢木耕太郎は何を思っていたのか。

多くの旅人がそうであるように、僕もこの本に影響を受けている。大学の図書館に「卒業生の著書コーナー」があり、その中に「深夜特急」があったのだ。次の講義が始まるまでの暇つぶしに、と読みはじめたつもりが、気がつけば閉館時間。借りて帰って取り憑かれたように読み続けた。

バックパッカーの「生きる強さ」に憧れた。何処へ行っても、何が起きても、自分の力でなんとかできる、その強さ。言い換えれば、言葉が通じなくても、体当たりで対話が、いや、体話ができる旅人力。それは、歌かもしれないし、料理かもしれないし、知識かもしれない。旅先で受けた恩に対して何とか報いたいと思ったときに生まれる何か。そのとき僕は何ができるだろう。

読後には、情景より憧憬が残った。大学生活のぬるま湯に頭まで浸かりきっていた僕にとって、久しぶりに吸った外の空気。今すぐ旅に出るしかない、そう思って即実行。そして今ここにいる。数ヶ月前の自分を思い出した深夜特急の夜。そのシーツは、まだ旅に出たばかりの僕のように真っ白で清潔だった。

マレー鉄道はマレーシアとタイの国境をまたいで走る。国境にある専用駅で降車して、ホーム直結のイミグレを通過。空港の手荷物検査のようなゲートを抜けると、さっきまで乗っていた電車が先回りして待っていた。再び乗車口に足をかけたとき、隣の車両に日本人らしき女性が乗り込んでいくのが見えた。シンガポールやマレーシアで見てきた中国系とは明らかに違う。存在そのものの浮遊感が日本人である僕と似ている。とにかく、日本人だと一目で分かった。

電車が走り出すのを待って、彼女が乗り込んだ車両に向かう。その後ろ姿はすぐに見つかり、僕が「こんにちは」と話しかけると、「こんにちは」と返ってきた。なぜだろう、ホッとした。同族意識とはこういうことを言うのだろうか。年齢は聞かなかったが、おそらく50才ぐらい。娘が自立するのを待って夫と離婚。「今から夢を追いかけるの」と語る、エネルギッシュな女性だった。日本語で話せることが嬉しくて、つい踏み込んだ話まで聞いてしまった。

日本で出会っていたら、出会い頭にそんな話はできないだろう。でも、旅先で出会った日本人という親近感がお互いの心を開いてくれる。するするりと着物を脱ぐように心が裸になっていく。必ず話すことになるであろう「なぜ旅に出たのか?」という質問ほど濃い問いはない。その答えには、これまでの人生が凝縮されているとも言える。いつまでも話していたかったが、彼女の行き先は途中駅の「ハジャイ」。終着駅となる「バンコク」で降りたときには、僕一人に戻っていた。

一抹の寂しさを拭って、まずはバックパッカーの聖地と言われる「カオサンロード」に向かう。すべての旅人はここから旅立ち、ここへ帰ってくる。バックパックすらなくても、ここへ来ればすべてが揃う。それほど充実している街だった。

全長300mほどの通り沿いには、所狭しとゲストハウスが軒を連ね、レストランやバー、インターネットカフェ、旅行代理店、古本屋など、旅行者に必要なものすべてが揃っている。国際運転免許証や国際学生証の偽造ができる店や、タトゥーショップもあり、混沌とした闇も垣間見える。旅慣れた人から冒険譚を聞いたり、ゴーゴーバーで連れ立って遊んだり、そういうこともしてみたいと思っていたのだが、僕にはできなかった。電車で会った女性とは旅人としての毛色が違う。同じ日本人でも、年季の入ったバックパッカーからは泥沼のようなオーラが出ている気がして、どうにも話しかけ辛かったのだ。

もっと旅らしい旅がしたい。そんなことを言いながら、同じ日本人の旅人にすら話しかけれない自分が情けなかった。落ち込みながらも、ひとりぼっちで考えた。いい旅とは、その国に深く入り込むことだと僕は思う。それには、その国の人から学ぶのが一番。旅に出て間もないが、僕の英語力はトラベル英会話として通用することは分かった。しかし、その国の文化や人生について会話をできるレベルではない。では、どうすれば学べるのか? このとき、閃いた。現地の人と行動を共にすればいいのだと。言葉じゃなくても、肌で感じれば学べるはずだと。

インターネットカフェに行って、ボランティアを受け入れてくれる場所を徹底的に調べた。日本が支援しているNGOならなお良い。日本語を話せる現地人スタッフがいるかもしれないからだ。10件ほどリストアップして片っ端から電話をかける。iPhoneのない時代だったので、「電話を貸してくれないか」とネットカフェのオーナーに頼み込んでのことである。すると、4件目にして「5日後にカンボジアのプノンペンまで来てくれ」という返事をもらうことができた。飛び込み営業でも、なんとかなるものである。この「なんとかなる」という事実が、旅を通して得られる自信に育っていく。

翌朝、カンボジアのシェリムアップ行きのバスに乗った。指定された日まで時間があるのでアンコールワットを見ておこうと考えたのだ。約600kmの道程をバスを乗り継ぎ進んでいくわけだが、どういうわけか、乗り換えるたびに乗り物がみすぼらしくなっていく。しまいには、トラックの荷台に乗せられて国境の街ポイペットに辿り着いた。その場でビザを取得してカンボジアに入国すると、いきなりカジノが現れた。なんて国だ。国境にカジノだなんてグレーな匂いしかしない。

カンボジアに入った途端、道程はさらに過酷となった。路面がボッコボコのオフロードなのだ。のんびりバスに揺られてトコトコと、なんて牧歌的な旅じゃない。荒っぽいバスにシェイクされてガッシャンガッシャンと、だ。最初の30分ぐらいは、バスが揺れる度に「Oops!」「Yipes!」などと盛り上がっていた欧米人の乗客たちも、一時間も経てばみな無言である。カッチカチのシートにお尻を、ガラスの窓に頭を打ち付けながらバスは爆走する。

窓から外を見ていると、すれ違う車はもっとヒドイ。トラックの荷台に、トラックの何倍もの大きさに膨らんだ荷物を載せていて、その上にさらに現地人が人間ピラミッドみたいに積み重なって乗っている。悪路という条件は僕たちのバスと同じなので、その揺れはケタ違いであろう。いつ振り落とされるのか、見てるこっちがハラハラする。それでも、人間ピラミッドたちは、すれ違いざまに「ハロー!!」と叫びながら笑顔で手を振ってくるのだ。あとから聞いた話によれば、カンボジア政府が観光地としての印象を良くするために、ハローを強要しているとのことだったが、僕はそんな風には思えなかった。子どもたちの全力の笑顔を政府の圧力で作れるわけがない。

途中でスコールが振り出した。デコボコ道のくぼみに泥水がたまるので、そこを通るたびにタイヤがそれを激しく撒き散らす。窓を開けていると泥が盛大に入り込んでくるので、仕方なく窓を閉める。すると、今度はバス内がムンムンと蒸されてきた。もちろんエアコンもファンもない。やつれ顔で外を見ていると、道路脇を歩く学校帰りの中学生や、野菜を抱えたおかあさんたちは、僕たちのバスが撒き散らす泥水を頭から浴びながら、平然と歩いていた。海に雨が降るみたいに、本当になんでもないみたいだった。これも政府の圧力だというのだろうか。

日本の国土交通省の優秀さを、このとき初めて意識した。舗装されていること、舗装され続けていること、その尊さが身にしみたころ、シェリムアップで最も有名な日本人宿「タケオゲストハウス」に到着した。朝から13時間にもおよぶバス移動。疲れ果てていた僕は、泥まみれのまま泥のように眠りに落ちた。

目が覚めたのは早朝6時。眠気覚ましに庭へ出ると、学生らしき二人組がトゥクトゥクに乗り込んでいるのが見えた。アンコールワットのような世界遺産を一人で見て回ると高くつく、それに、一人はやっぱり寂しくて、藁をも掴むように声をかけた。二人ともK応大学の院生で僕と同い年。一気に話が盛り上がり、観光に同行させてもらえることになった。彼らは2日前からシェリムアップに来ていて、アンコールワット自体は既に行ったと言う。促されるがまま市場に寄って珍味を食べて「ベンメリア」という場所に向かう。

「ベンメリア」とは、アンコールワット遺跡群から大きく外れたエリアにあり、トゥクトゥクで片道三時間。旅程の都合から訪れる人も少ないという。しかし、訪れた人はみな絶賛する。「アンコールワットをめちゃくちゃにしても、こうはならない」と言わしめるほど手付かずの廃墟であり、緑に覆われた哀愁がアンコールワットとは違う形での歴史を語るという話だ。

ひとりで珍味なんて試食する気にもならないし、片道三時間かけて廃墟に行こうとも思わなかっただろう。でも、三人で旅すれば異常に楽しかった。院生の二人は、大学一年からの付き合いということで、ものすごく息も合っていた。一人が後ろから名前を呼ぶと、もう一人が振り返ってポーズをとる。カシャッ。カメラの音が鳴る。その掛け合いはコニカラーのCMのようだった。僕もすぐ溶け込めた。彼らは、彼らにしか分からない話を一つとしてしなかった。その気遣いに感謝の念を抱きながらも、同い年の大学生同士、話すことはいくらでもあった。

宿に帰ってきたときには、十年来の友人同士みたいな関係になっていた。旅が心をオープンにしてくれることもさることながら、彼らの徳があってこそ。しかし、旅の出会いには必ず別れがある。卒業旅行としてショートトリップで来ていた二人は、日本へ帰る飛行機に乗るため、その日の夜行バスでタイへ行った。

またしても一人になってしまった僕は、翌日、結局一人でアンコールワットに向かった。朝日を見るために朝四時に宿を出たのだが、たくさんのバイクタクシーやトゥクトゥクが待っていた。もちろん商店も開いている。この街には、(この国には、と言ってしまってもいいかもしれない)アンコールワットしかないのだ。ほとんどの人が遺産から得られる観光収入で生計を立てているから、生活リズムも旅行者に合わせたものになっているのだ。

片道30分ほどでアンコールワットに着き、多くの観光客とともに朝日を見る。続いて、岩に顔が描かれたアンコールトム、大樹が遺跡を喰っているタブロームなどを観てまわる。しかし、アンコールワットを観て人生が変わったと言う人たちは、何がどう変わったんだろうか。僕は世界遺産に「すごいな〜」以上の感想を抱くことができなかった。遺跡は生きてはいない。テニスの練習で壁打ちをしても素直にボールが返ってくるだけだが、人と打てばロブやスマッシュ、スライスなどが返ってくる。生きたボールと死んだボールでは練習の成果が大きく変わるはず。僕は、今を生きている現地の人とぶつかるべきだと思いを強くした。

(その翌日に「北朝鮮レストラン」に行ったのだが、それに関しては、Travelers Boxで書かせていただいたので、この連載では割愛する)
【寄稿】突撃! となりの北朝鮮レストラン


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