noteは攻略するモノじゃない。
はあちゅうさんやイケダハヤトさんのnoteを覗いてみると、やはり有名人じゃないと(あるいは彼らのような実力がないと)、課金ビジネスは難しいと思う。サロンで、どんなノウハウが話し合われているのか分からないが、いわゆる情報商材ではなく、お金を払うに価するコンテンツをつくろう、という話に尽きるのではないだろうか。「攻略」という言葉がキャッチーだが、誤解を招く言葉でもあるのかもしれない。それを狙ってやっているのがうまいところでもあるが。
いま、「note」が盛り上がりを見せているのは、根底に「文章」に対価が支払われるべきか否かという議論があるからだ。文章は、インターネットにおいて、音楽やアプリと同列に並べるのだろうか?
1984年にしてスチュアート・ブランドは「情報はタダになりたがる」という有名な言葉を残したが、それには続きがある。「情報は同時に、高価にもなりたがっている。情報そのものが、受け取る側にとってはかりしれない価値があるものになる可能性があるからだ。そしてこの二つの緊張状態が、なくなることはない」と。
音楽よりも、アプリよりも、文章は情報だ。僕のコラムが情報かといえば、むしろ音楽寄りかもしれないけれど。もしも、文章に価値を感じていただけなければ、いつかお会いしたときに「200円」と、お声がけください。笑ってコーヒーをご馳走させていただきますっ。
noteは「稼ぐ場所」というより「作る場所」。たとえば、コンテンツを公開しながら、ガシガシ編集していく。公開されることで、読者の反応を見ながらブラシュアップしていける。これを繰り返して「完成」と胸を張れるクオリティまで極まったら有料にしてみる。これが本来の使い方だと思う。
たとえば、作家としてプロとは言えない僕の場合。文庫一冊の目安である10万字もの文章をいきなりは書けない。公開するからには、ひとつひとつの文章に全力で打ち込むことは当然として、ひとつの章が「書けた」と思ったら、ひとまず公開することができる。
「スキ」や「コメント」が少なかったら、どこに問題点があるのか考えながら修正していける。反対に、「スキ」が多かったら支援をいただけたりして励みになることもあるかもしれない。
最後まで書き終えたら、出版社にURLとともにメールを送ればいい。「これを書籍化したいんです、原稿はここにあります」と。本当にクオリティが極まっていれば、書籍化できるはずだ。こうして、半人前のクリエイターが一人前になるまでの成長をサポートしてもらえるプラットフォームであることが本来の姿だと思う。
それ以前に、noteと名がつくだけあって、日々のとりとめのないことを雑多に書きつづる、落書きを公開する、そうして、書き続ける、描き続ける習慣を身につけるのが、気さくな本来の使い方だと思う。
はあちゅうさんや、イケダハヤトさんのコンテンツは課金の価値はあるのかもしれないが、How to 記事でホイホイ課金させようとする流れが感じられて少し違和感がある。自ら課金設定するよりも、投げ銭したくなるnote、読者によって値段が決められるようなnoteになればいいなと思う。
2月28日は「エッセイ記念日」
エッセイストの元祖とされるミシェル・ド・モンテーニュの1533年の誕生日だそうです。毎日の記念日をお題にエッセイコラムを書いている「今日は何の日?365日記」。少し趣向を変えてお届けしました。