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なぜ勉強をすべきなのか?

なぜ勉強をすべきなのか? この問いにどう答えればよいのだろう。

ぼくは勉強をしてよかったと考えている。両親の幼児教育のおかげで小学校に入学したときには同級生より半年ぐらいリードしている感覚があった。「自分は勉強ができる」という自信がプライドとなり、クラスで一番であり続けるための努力癖がつき、勝ち癖がついた。しかし、それは高校に進学した時点で打ち砕かれ、クラス最下位に落ちこぼれたが、浪人して国立大学へ。大学では学問としての勉強には背を向けてしまったが、映画や読書、美術館、バイクなどから世界と社会を広げる勉強ができ、結果的に就職に困ることはなく、現在まで好きな仕事をして生きることができている。

一言でいえば、両親の幼児教育によるスタートダッシュでここまで来たようなものだ。地頭はよくないが、努力癖のおかげで勉強を続けることができた。勉強は楽しいと思ったことはなく、苦行であったことに違いはないが、テスト前にはプランを組んで、漫画やゲームの誘惑にのまれながらも最終的には徹夜で踏ん張ることができていた。

なぜ勉強をすべきなのか? あらためて 3つの理由を挙げるとすればなんだろう。

1.語彙が増える

大学時代に旅をした。たとえば、社会科で名前を覚えただけのウマイヤ朝のダマスカス。シリアを通りかかったとき、耳馴染みがあったので訪れることにした。そのとき、当時は平和だったシリアの人たちの優しさにふれたことで、それからのニュースでシリアが出てくる度に釘付けになった。変わってしまったダマスカスの風景に胸を痛めた。社会科で勉強していなければシリアを訪れることもなく、シリアのニュースが流れても平然とチャンネルを変えていたことだろう。ダマスカスという単語を知っていたことが、のちの世界を広げてくれたのである。人生にはこういうことが無数にある。ピタゴラスの定理を習ったことで「フェルマーの定理」という優れた小説を味わうことができ、縄文時代を習ったことで縄文土器の偉大さに感動することができたように。丸暗記でいい。深く理解できなくてもいい。天啓はやがて訪れる。しかし、語彙を持っていなければ、そのときは永遠に訪れない。

2.しんどくても踏ん張れる

コピーライターに就職した当初は激務であった。当たり前だ。何のスキルも持っていないのだから。何日も徹夜してボツにされてそれでもコピーを考える。3年ぐらいはそんな生活が続いたが、苦ではなかった。いや、ミクロで見れば苦であったが、マクロで見れば楽しかった。とにかくコピーがうまくなりたかった。だから、踏ん張れた。土日も出社してひたすらアイデアを考えた。このときの心境は学生時代のテスト前の感覚に似ていた。そうして踏ん張っているうちにスキルが身について5年目ぐらいから急に楽になった。超一流は、ぼくが「楽になった」と言っているあいだにも努力を続けて名を成すのだろう。その意味では、三流にすぎないことを言い訳しておくが、どんな仕事にせよ、最初は忍耐力が求められる。その踏ん張りが自分を成長させてくれる。途中で投げ出すような人、ただ楽なほうに流れるだけの人は成長しない。すると、仕事で求められることがなくなり、貧しくなる。

3.環境が豊かになる

勉強をすると、行ける学校が変わり、出会える仲間が変わり、選べる仕事が変わる。「変わる」と書いたが「増える」に置き換えてもよいはずだ。勉強をすると、行ける学校が増えて、出会える仲間が増えて、選べる仕事が増える。結果、あきらかに年収が増える。お金があるとできることが増える。つまり、人生の選択肢が増えるのである。逆に、勉強をしなければ、行ける学校が減り、出会える仲間が減り、選べる仕事が減る。それすなわち環境である。まわりの仲間がみんな時間を売る仕事をしていると、仕事とはそういうものだと視野が狭くなる。まわりの仲間がオンオフなく働いて、遊んでいるように見えてしっかり稼いでいる姿を見ていると、自分もそうなりたい、そうなれる、と信じて進むことができる。当然、時給で働きたいと思えば働けるわけで、選択肢が増えることに違いはない。例外はあるにせよ、おおむね勉強量と選択肢の数は比例するのではないか。


そこまで言うからには、自分は勉強しているのだろうか。

新卒のころはコピーの勉強に勤しんでいた。今はといえば、読書をするぐらいでロクに勉強していない。ひとつあるとすれば、旅をして現地を取材する前に、その土地のことを勉強している。ぼくにとって、この勉強はかなり楽しい。3冊ぐらい資料を読み込んでから現地に行くと取材相手がふだん話していることはインプット済みの状態で話が聞ける。すると、一歩先に踏み込める。そこに充実感を覚えるのだが、執筆を依頼するライターさんにとってはそうでもないようだ。

ぼくが読んだ本を共有してもあまり読んできてくれない。小難しくて面白くない本に見えるのだろうか。ぼくにはそうは映らない。ここ数年、いろんな土地の勉強をしてきたことで、「あ、これはあのときの話につながるな」と、歴史を横断して理解できるようになってきた。もともと歴史が好きなタイプではなかったが、丸暗記は踏ん張れるタイプだったので日本史や世界史の成績はよかった。そのころは単語としてしか記憶していなかった物事が、いろんな意味合いを持つようになって今、花開いている。これがまさに勉強の成果といえるのかもしれない。

ほかに勉強せねばならぬと思っているのは、言語学や文章術に加えて、教育論、政治、金融リテラシーあたりか。こうして挙げてみるとYouTubeで動画を観るぐらいの勉強はしているのだが、ほとんど何も覚えていない。テレビで学んだことも覚えていないが、やはり血となり肉となるのは読書なのであろう。

気がつけば、読みかけた本が溜まっている。読まねば。

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