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絶後のトート


大学の講義で一番好きだった科目は哲学。暗記と論文が得意な私にとって、いちばん単位が取りやすい科目だったから。スポーツ選手になぜこの競技を選んだのか?と質問すると、「勝てるから」と答える人が多いと聞いたことがあるけれど、「好きこそものの上手なれ」の反対とも言えるこの現象をうまく表す言葉があれば教えて欲しい。兎に角わたしはその頃、長机が永遠と並ぶ教室の後ろの方で、教授の低くて凹凸のない声を媒体に様々な哲学者のあらましだけを、次から次へとインプットしていた。その日も同じだった。これが終わったら空きコマだから学食で充電しなきゃ、とかそんなことを考えながら、性善説の概要をノートに纏めていく。生まれ落ちたときは善人なのかな悪人なのかなと深掘りしていたら、数100年後には教科書に載りました、なんてことがこの現代にもあるのだろうか。成熟する前の世の中はチョロいなと感じつつ、とはいえ、YouTubeもInstagramもない世界で、自身の思想を広く伝えていたことの方がよっぽど凄いことのようにも思えてくる。「性悪説はまた来週やります」と、終わったのかどうかわからないトーンで言い残して、教授が教科書を抱えて出ていった。

空きコマの90分はあっという間に過ぎてゆく。スマホの充電マークが緑色に変わったのを確認し、私は学食を出て近くのコンビニへと向かった。今日は大家さんに家賃を払いに行かないとならない日で、口座に振り込まれた今月分の奨学金をATMでそのまま全額下ろした。当時使っていたお気に入りの大きなトートバック(宇野亜喜良の数量限定ルートート)にお財布をぽろんと戻して、また後ろの席になちゃうよと足早に教室を目指す。生徒が同時に300人も5階の教室へと押し寄せるのに、5人がやっと乗れるくらいの小さなエレベーターが1台だけしかない2号館。始業に間に合わせるには階段を使うしかない。ゼーゼー言いなが昇りきって教室の後ろにあるドアを開けると、案の定、席は大体埋まっていた。後方の席のうちワイワイしている右側をなんとなく避けて左側の席につく。肩にかけているトートを脇に置くのとほとんど同時にチャイムが鳴って、そして、なんの前触れもなく私の横腹が限界を迎えた。痛い、すごく痛い。捩れるような痛みが肋骨の隙間を襲って、冷たい汗が額に浮いてくるのが分かった。無理だと思った、このまま授業を聞いてノートを取るなんて無理だと思って、私はひとまずトイレに行こうと教室を出た。後ろの方の席で良かった、と考えていたのは束の間、エレベーターの台数と同じ計算式なのか、教室の広さと反比例してフロアにひとつしかトイレがない。こういうときに限って「誰かが入っているよ」と鍵についている赤いサインが痛みを刺激する。別の階に行くしかない。トイレは階ごとに男女男女と繰り返されるので、次の女子トイレは2つ下の3階だ。さっき授業に間に合うために2段飛ばしで昇った階段を今度は急ぎ足で降りて、ようやくトイレに飛び込んだ。
とてもとても長く感じたけれど、きっと10分くらいのことだったと思う。便座の上に体育座りしていただけで、これくらいの違和感なら席に戻れそうだなというところまで復活した。また階段に足を掛ける。教室の扉を開けると既に授業が進んでいるようで、ちょうど教授がプロジェクターに映しているスライドを切り替えるところだった。教室の中に何台も吊るされているモニターもそれに連動して一斉に切り替わる。ザッという音が揃うくらいたくさんのスマホが掲げられて、少し遅れて無数のシャッター音が鳴る。ノートを書く代わりのその行為は、まるで何かの宗教みたいに見えた。

左側の方だったよなと、座席を探すけれど自分がどこの席に座っていたのかが思い出せない。思い出せないというのは変だなと思って、なんで変なんだろうと考えたら、考え始めてすぐにとんでもない事実に気がついた。席に置いていたはずのトートバックがないからだ。だから席も見つけられない。無意識に目印にしているあのトートバックは、トイレに行くときに間違いなく置いていったはずなのに見当たらない。ああ、叫びたい。叫ぶための予備動作を始めた喉元が、更なる驚愕でキュッと締め付けられる。そうだ、トートバックがないということは、その中に入っているお財布も失くなったということで、引き出したばかりの数万円のお金も全て誘拐されたということだ。誰かに何か聞かなくちゃいけないような気がしたけれど、周りを見回してもたくさんの後頭部があるだけで、誰かを振り向かせるための声が出せないくらい気道が苦しかった。

携帯電話だけはポケットに入れていたから良かった。お金が取られたことも最悪だったけれど、お気に入りのトートバックが盗まれたことも相当なショックだった。ルーズリーフを使うタイプだったから、今日書いた分を失っただけで済んだ。なんとか0に戻そうと頭の中で思考を行ったり来たりさせるけれど、どうやっても補えない程のマイナスが振り子を止める。この カンも授業は進んでいく。経済をマクロ的に捉える方法よりも、こういう事態をどう受け止めればいいのかを教えて欲しかった。教室にいても何ひとつ吸収できそうになかったので、大学の窓口に行ったり、交番に行って遺失物届を書いたり、そういう形式ばった作業と向き合う。事務的な対応を受ければ受けるほど、トートが手元に戻ってくる確率の低さを実感した。お母さんに電話をして、すごく怒られて、自分の不注意の最中に起きたこの悪意ある行為を「置き引き」と呼ぶことも知った。当時は自分の生きる道なりに突然異物が混入してしまったような気分だったけれど、28歳になった今、そういう邪悪は身近にゴロゴロあるということを理解している。
まあまあ派手な宇野亜喜良のトートをくすねた貴方。今更返してとは言わないから、あの日、私がノートテイクした性善説の教えにも目を通していてくれたらと思う。人は生まれながらにして善の心を備えているから、自らそれを育てることで一派を立てられるかもしれないんだってよ。あとあの干し梅は半年くらい経ってるやつだったので食べない方がいいです。


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