太田三郎『欧洲婦人風俗』を読む(上)
1 太田三郎の渡欧
太田三郎は、第7回文展に出品した《カツフエの女》で受賞した後、欧州にわたることを模索していた。しかし、実際渡欧したのは、大正9年(1920)から同11年(1922)にかけてであった。渡欧が遅れたのは、第一次世界大戦(1914−1918)のためであった。
父不在の時に生まれた3男は、父の渡欧の船の旅にちなんで浪三と名付けられた。
美術界をとりあげた『藝天』という雑誌があって、1928年12月号に「昭和美術名鑑―百家選第十七―太田三郞氏」という記事が掲載されている。この記事は2ページにすぎないが、太田に取材して書かれているため、太田の生涯を知るための重要な資料となっている。その末尾に記者が太田の著作物について次のように記している。
「武蔵野の景と人」は正しくは「武蔵野の草と人」である。「母と子の美術」までは、すべて実際に刊行されているが、最後の4冊「マリー・ローランサン」「世界浴場史」「欧州旅行記」「美術一夕話」はその所在が確認できない。つまり、刊行されなかったと思われる。
この記事は、帰国後だいぶんたってから掲載されている。最後の4冊は企画はあったが刊行されなかったということだろうか。
「欧州旅行記」は渡欧体験の記録だと思われるので、存在するならぜひ読んでみたいと思っていた。絵の外に文筆も心がけた画家は何人か存在するが、太田はそのひとりである。
帰国後、太田は褐色の豊満な裸体をモチーフとした画風に転換するが、その理由も知りたいし、画家の私費留学の実際についても知りたい。
帰国後、太田は、渡欧体験をもとにした雑誌口絵を描き、欧州に素材を求めたエッセイも何編か書いている。
しかしそれらから太田が欧州旅行で得たものの全体を知ることができない。
そんなとき、たまたま、オンラインの古書店に、太田三郎の『欧洲婦人風俗』という本が出ていた。薄冊、すなわち、薄い冊子という説明があったので、おそらく、渡欧の際に得た素材を描いた雑誌口絵をまとめたものだろうと思った。がっかりするかもしれないが、注文してみようと思った。
期待はずれであっても、太田の欧州体験のなにがしかを知ることができるだろうと考えたのである。
2 『欧洲婦人風俗』とどく
さて届いたのはこんな本であった。
はじめてこの表紙を見たときは、太田の口絵を好む読者が作った私家本ではないかと思った。
しかし、表紙に貼り付けられた題簽(書名などを記した紙)は印刷されたものである。
次に、改装本かもしれないなあ、と思う。つまり、オリジナルの冊子がいたんでしまっていて、入手した人が表紙の印刷を切り抜き、自分用に改装したと思ったのである。
表紙の文字は「太田三郎画並解説/欧洲婦人風俗/(六葉一組)/東京/婦女界社発行」というものである。
3 当選記念?
わたしの心の中では、がっかり度が高まりつつあったが、ページを繰っていくと、活字が印刷されていることがわかった。印刷はオリジナルであるとすれば、改装本である可能性は低くなる。
注意したいのは、右の「シシリイ島の初夏」という解説文は、左ページの絵に対応していないということである。
左の絵は《スペイン晩凉》という作品で、その解説は絵の裏のページに印刷されている。
見開き2ページで、絵と言葉を対応させると、絵と言葉を同時にいききしながら鑑賞できるのであるが、対応させていないのはページ数をおさえ、少しでもコストを下げるための処置だろうか。
表紙に押されている印を拡大してみよう。
読んでみると、クジャクとともに「婦女界二月号 発表当選記念」という文字が記されているようだ。
『婦女界』という女性雑誌の何らかの懸賞当選を記念する冊子であった可能性が高い。
『婦女界』は商業的な女性雑誌。1910年3月に同文館から創刊された。1913年1月からは都河竜が雑誌を譲り受けて、婦女界社発行として継続した。
1920年代に、太田三郎は口絵や挿絵を寄稿している。
「発表」の内容については今のところわからない。
奥付を見ておこう。
「定価 金三十五銭」とあるので、記念品で配布されたのではなく、販売されたのだろうか。
『婦人界』には別冊付録もあったようだが、詳しくはわからない。
*蛇足
今回、ページをおさえるのにコクヨの「本に寄り添う文鎮」を使用した。
*次回から、絵を紹介する。
【編集履歴】
2024/02/10 誤記修正、 最後の3冊(2ヶ所)→最後の4冊
2024/02/10 (中)ヘのリンク追加。
*ご一読くださりありがとうございました。